クソ美大生と風説と宣教師の娘 作:ひめいい
一話
課題の提出日が明日から今日に変わった5月のある日のことである。
夜の深まりきった頃合いで、僕は幾らかの小銭とUSBを握りしめて、散らかった六畳一間を飛び出した。ドカドカと近所迷惑も顧みず、一目散に駆けていった。それは
とはいえここは、眠らぬ大都会、東京である。コンビニなど数分も走れば見えてくるというもの。プリントのお釣りで値引きされたホットスナックでも買っちまおうと考えている間に間に着いてしまった。
これで後は印刷してしまえばこっちのもの。早朝6時に現物提出とかいう誰の得にもならない期限設定にも紫煙とともに笑い飛ばせるというものである。
などと、我ながら弛んだ思考と姿でスゴスゴとプリンターを操作する僕は、課題を作品として見ることのできない、クソ美大生の鑑だった。
とはいえ、クソはクソなりに課題に取り組むものである。課題作品を上げただけで満足するそこいら輩と同じにしてもらっては困るというもの。クソ大学生は何食わぬ顔で知ったような口を効けて一人前であるからして、今日はどんな言葉で教授をだまくらかそうかと考えながらコンビニを出る。
しめしめ、今週は少しは寝られそうだと思った。
その時であった。
「貴方が石崎くん?」と、夜のコンビニの前で見知らぬ女性に問われて、僕はビクッとした。
突然の問に「は、はあ……」なんて、訝しむ。
目の前の女とはまるで面識はなかった。けれど、僕は彼女の言うとおり、石崎である。
「私、貴方の母親の先生の娘なの。上柳霧子っていうのだけれど、それで伝わるかしら?」と彼女は口角を歪に上げた。
それは、下手な笑顔だった。
当たり前の感情の発露ではあるが、僕は、これ以上なく不審なヒトだと警戒を深める。普段であれば、相応に不器用な笑みを返して、軽い会釈と共に立ち去っているに違いない。
しかし、いかんせん、彼女は僕の名前を言い当てている。
それに、僕はその『上柳』名前に聞き覚えがなくもなかった。正確には、『上柳霧子』という名前には縁はないが母の先生である『上柳先生』なる人物は耳にタコができるほど聞かされたことがあった。
それは、上柳先生は大学時代の石崎花笑(えみ)──僕の母である──の憧れの人物だったという男だったはずだ。キリスト教のなんちゃら派の宣教師として、大学の講師として花笑に宗教学を教えていて、気の利いた言い回しとセンスの良いハイカラな服装で、当時の女学生を虜にしたとか、なんとか。モダンな黒い背広に赤いネクタイがスラッとした首元を妖しく照らしていた、とか。決して並の範疇を超えぬセンスしか持たない自分からすれば、これほどいけ好かない男もいないのだが、上記のとおり、例に漏れず彼の根っからのファンだったという母には、お前もそんな男になれと耳にタコができるほどに言われたものだった。
そんな情報を加味して目の前の女性を見やれば、なるほど。彼女は、『上柳』霧子なもしれないと思えてくる。嫋やかな黒髪を流行りのワンピースの背半ばまで伸ばし、涼やかな顔立ちに首元のネックレスがよく似合うその風体は、話に聞いてた上柳先生とやらの影が感じられる。ワンピースを脱ぎ捨て男装でもしたならば、話に聞く先生そのままになってしまいそうだ。それに、宣教師の娘と推察すれば佇まいも心なしか常人離れしているかのような気もする。
端的に言えば、そう。彼女はとても容姿に富んでいる。
美しくて、可愛らしくて、とてもハイカラなオーラがある。
しかし、はて。母親の上柳先生に対する、ともすれば懸想にも近い憧れの念は、嫌になるほど聞かされてきたけれど、彼女と上柳先生との間にそれほど親密な付き合いがあったとは僕は一度として聞いたことはない。何度も聞いたその話は、どこか盗撮写真のような距離感の、遠いアイドルの人物評みたいなものだけである。秘密の不貞でもあったのなら話は別だろうが、たまにのドジと可愛げのある直情的な暴走グセのある母だが、それ故に、父への一途に疑いようはなかった。
と、すれば、普通に考えれば、彼女が僕の存在を知っているのはおかしいと推察されるのであった。
「ええと、もしかして、人違い? 伝わらない?」
「ああ、いや」
しかし、これが宣教師のなせる懐に入る技とでも言うのだろうか。絶妙な間で聞かれたものだから、僕は思わず素直に否定してしまう。
「ああ、よかった。じゃあ、予定道り、来てくれたのね」
手を一度叩き、上柳霧子は口許を綻ばせた。
『じゃあ』『予定通り』『来てくれた』。彼女の一言一言が僕に謎を発生させているのに彼女は気づいていないだろう。僕は「これがソシュールの唱えた言語の線条性というやつか」なんて場違いに考え、後に、混乱の渦中なりに彼女の発言に、ある予想を立てた。それは道理立てることで、この不可解な状況に対して冷静さを取り戻すためであり、クソ美大生のなせる技でもあった。
つまり、この上柳霧子なるモダンな大和撫子は、僕の母親である石崎花笑の憧憬の的であった上柳先生の娘さんであり、僕の関与せぬ場で僕と彼女のセッティングが行われていたのではないか、と。また、もしかしたら僕はその知らせを知らず知らずの内に忘却していたのかもしれない。あるいは、溜まりに溜まったポストの中に置いてきてしまったのかもしれない。そんな風に考えたのだ。
先ほど、彼女は自分のことを『自分の母親の友達の娘』と称した。上柳先生は母の友人になったのかもしれない。それでもって、母はいつの間にやら自分に上柳霧子を迎えにゆくように言付けしていたのかもしれない。
そんな推理もなにもない、ただ一番ありそうで問題のない常識的なストーリーを編み出した。
しかし、そんなストーリーを育てれば育てるほど「自分が悪かったのではないか」「彼女を何十分、何時間と待たせたのではないか」という血の気が引きかねない可能性が見えてくる。まあそれも、これで僕に過失がなかったら、目の前の上柳何某が見知らぬ男に当てずっぽうの名前をラベリングする頭のおかしい女になってしまうのだから、当たり前の話なのだか。
気の良い自分が、自分の常識が、自分の良心を追い詰めていくのを脳裏でジクジクと感じた。
「……お、おまたせしなかったようでしたら、良いのですか」
そして、あっ、と気づいたには、幼少期よりの保身グセが、勝手にそんなでまかせを発していた。
そしてそして、あっ、と思った拍子に、そんな常識的なストーリーが明らかに破綻していることを確信した。なぜなら、そもそも僕は一人暮らしであったからである。つまり、彼女を案内するにもその行き先がわからない。それに、ほんの十数分前まで、僕の携帯電話にそんな連絡は来ていない。いくら母がドジであるとはいえ、憧れの先生に関する連絡をギリギリまで忘れるとは考えられないのである。
しかし、眼の前の女性は僕のでまかせな発言に不審な様子を見せることなく、やはり不器用そうにニコリと笑うと「それでは」と一言おいた。
……それでは? それでは、何というのだろう。
コンビニの誘蛾灯がジジッと、唸る。
妙な緊張感が周辺を漂う。
曖昧な笑みを浮かべて場をもたせまキョロキョロと僕は周りを見渡した。なにやら悪質なドッキリなのではないだろうか。いや、残念ながら僕にはそんなことを仕掛けるような愉快な友人を持ちはしない。そもそも、こんな可憐な女性とつながりを持てるような友人もいなかった。なんなら、友人がほぼいないのである。悲しいが。
そうして、テレビでは5秒以上の無言無動は事故として扱われるらしいが、それと同程度の沈黙を経て、僕は彼女の傍に意味深に大きなバッグが置かれていたことに気がついた。
そのバッグは旅行鞄だった。
「……バッグ?」
「多すぎますか? 一応、最小限にまとめてきたのですが」
「はい?」
「ええと、六畳一間、と聞いていましたので。石崎くんは簡素な暮らしを好むとも仰っていましたし……」
誰が言ったかは知らないが、言われてみれば確かにそんな気質があるかもしれない。けれども、なんともな言い回しじゃないか。まるで、これじゃあ彼女が今から僕の家に来るかのようでは……いや、まさか。
本当に?
「ええと、迷惑は掛けませんので、どうぞ、短い間ではありますが、よろしくおねがいします。石崎くん」
もはや狼狽を隠さぬ僕がおかしかった否か。彼女はナチュラルに笑ってそう言った。