第1話 囁きの森 『……うーん、クレイジー』
最初に感じたのは、森特有のあの絡み付くような匂いだった。
次に鳥の鳴き声や木々が騒めく音が聞こえ、その次に草が生い茂る大地を踏みしめる感触。
それを受け、眩く降り注ぐ日差しに注意しながらゆっくりと目を開ければ、辺り一面に広がる木々の姿が、そして──。
──こちらに向かって突進してくる猪の姿が見えた。
「──へっ!?なんで猪!?」
慌てて横へ飛び退きその場を離れる。
たかが猪と思うなかれ、奴らは鉄製の檻など簡単に破壊できる突進力を持っている。そんなのの突進を受けたら人体など一たまりもないだろう。
飛び退いた先で元いた場所を振り返れば、猪がものすごい勢いでそこに突っ込んで行く様が見えた。
そして繁みの向こうへと消えていく猪。
……うーん、クレイジー。何が何だかさっぱりだ。おそらく今の僕ほど訳が分からない状況になっている人はいないだろう。なんせ気付いたら森にいて、しかも猪に轢かれかけられたなんて状況、そうそうあるものじゃないからね。
そんな、未だ混乱している頭で記憶を引っ張り出す。
引っ張り、出す。
引っ張り……。
……。
…………。
え、なんも思い出せないんだけど。
「どうしよう……」
そんな僕の疑問は、誰からも答えを得られずに森の奥へと消えていった。
▼▼▼
それから数分思案して、いくつかわかったことがある。
まず、どうやら僕は記憶喪失のようなのだ。
で、ここで重要なのが、全ての記憶が無くなっているわけではなく、僕という存在についての記憶のみが無くなっているということだ。
それも、僕についての全てを忘れているというわけではない。
しかしながら、僕という存在を形成してきた記憶などはほぼ消えてしまっているのだ。例えば、僕がどんな会社に勤めていたのか、どんな友達がいたのかなどだ。当然親兄弟のこともさっぱりだ。
僕がさっき、何故こんなところにいるのか思い出そうとしてできなかったのはそのせいだろう。
そのためここが日本なのか、あるいは外国なのかも分かっていないし、どうしてこの森──もしかしたら樹海とかかもしれないが、とにかく、ここに来た理由さえも思い出せない状況だ。
これでは記憶喪失の原因の特定もできやしない。
──といっても、僕はほぼ確定でこの森でなんらかの衝撃を受け、記憶喪失状態になっていると考えているけどね。中でも落下による衝撃が特に怪しい。お誂え向きに、背後に崖がそびえ立っているからだ。ただ身体を軽く調べてみたのだがこれといった外傷もなく、頭がズキズキと痛んでいたりもしない。
また周囲にも落下の痕跡が残っていないため確信には至っていないといったところだ。
……しかし。
しかし、正直心細くて泣きそうだ。なんなら自分が本当に相馬優弦という人物なのかも分からないからね、こんな記憶が虫食い状態じゃあ。
……もっとも泣いていたところで何かが変わるわけではない。切り替えていかなければ。少なくとも僕は今ここにいて生きているのだ。それだけで生きようとするには充分だろう。
……でも記憶戻んなかったらどうしよう。免許証とかの身分証も持ってないし、というかなんも持ってないから本人確認もできない。質問による本人確認もできないし、成りすましかと疑われても否定できないよ……。
「はぁ……」
ハードモード確定の未来に溜め息を一つつくと、地面の草を靴の踵でグリグリ削り土を剥き出しにする。
そうして憂さ晴らしも兼ねた印を作ると、僕は辺りの散策に乗り出したのだった。
目的は生命維持に必要な──水と食べ物だ。
▼▼▼
森だわ。
わかっていたけどここすっごい森だわ。心折れそう。どっかの公園とかだったら良かったのに……!!
元いた場所から少し進んだところに、一応池のようなものがあったのが唯一の救いだろう。水場を得るのが、遭難した際に生死を分ける一番重要なポイントだと聞くからね。もっとも飲めるのか分からないけど。まぁ腹を下すのを覚悟でいけば飲めなくもないだろう。
その池の周りには、すすきのようなものや、白い蕾から赤い花弁が咲いている奇妙な花などがいくつか生えていて、また、池の中にはカエルがケロケロ鳴いていた。
……カエルは流石に食べれないな……。雑菌の塊だと聞いたことあるし……。というかそうでなくても好き好んで食いたくはないな。
──いやはやしかし、いざ遭難してみて分かる火の大切さ。もし火があれば、この池をを見つけたときも素直に喜べていたというのに。
水を煮沸すればほぼ飲んでも問題ない状態になるし、カエルも皮を剥いで焼いたら鶏肉みたいな味になって美味しく頂けるらしいからね。
まったく、どっかに都合よく火でも落ちてないものか。いや落ちてたらまずいんだけどね。
あと、いくつかの木の周辺にキノコが生えているのも見つけたけど、そもそも僕キノコ苦手だし、そうでなくとも毒の可能性が高いものなんて食べてみようとは思えなかった。
僕の中では、キノコといえば毒、毒といえばキノコだからね。
とまぁ、散策の収穫はその程度だ。覚悟を決めればなんとか摂取できるといったものばかりである。でも実際のところ、どんなに美味しそうな木の実とかが成っていたとしても、野生のものだった場合、それを食すのには相当の覚悟は必要だろう。本当に食べても問題ないかなんて判断できないのだから。
……しかし、本当にここどこなんだろう。
全然人が通りかからないんだよね。日本の辺境にある森の奥深くとか?
うわテンション下がってきた。もしそうだったら、もうどうしようもないじゃん。日本の田舎とか、人は少ないくせに土地は無駄にだだっ広いんだぞ?そうしたら相対的に人に出会える確率は低いに決まってる。どうすんだよ、この、……う、うんこッ!!
……けど今いるこの場所、つまり池の近くなんだけど、どこか道っぽくなっているんだよね。何かに削り出されたのか段差になっていて、周りよりも低くなっているし。ということは、ある程度人の出入りがあるということではないだろうか。もし途絶えていたなら、道なんてすぐに荒れ果ててしまうはずだからね。
……でも川が枯れた跡っていう可能性もあるんだよね……。ほら堆積、運搬、侵食のあれ。で、その川水の残りがこの池とか。
……や、普通に有り得そうだな。
うーむ、この道っぽいのを調べるか、それとも他の可能性を探るべきか。
今の時刻は……まぁよくわからないけどたぶん午後二時くらいだろう。この森の中で気付いたときと比べ、日が少し傾いているから、おそらくそんくらいの時刻。
ちなみに太陽の位置で時刻を測るなんて僕には無理です。そもそも現代日本で生きている限りはほぼ無縁のはずの技能なんだから。スマホ見れば一発だ。なんなら太陽の位置で時刻を調べているうちに五十発くらいいけるだろう。
まぁ時刻の小話はおいといてだ。
先のことを考えておくと、日が沈む前には活動を終えていたいところだ。夜の森なんて危険しか感じない。
となると、活動できるのは三、四時間程度になる。その間にこの道を調べ終えられるだろうか?もし何もなかった場合、ここに戻ってくることも考えると更に使える時間は半分になる。
んー、厳しいな……。この道がどこまで続いているかも分からないわけだし、変な所で留まることになるよりかは、下手に動かない方がいいだろう。
けど他の可能性を探るといったって、いったい何をすればいいのか。
近場はだいたい調べ終わったはずだし、あとは──。
「──崖、登ってみようかな……?」
▼▼▼
というわけで戻って来ました最初の場所。地面に目印を刻んでおいて正解だったね。そして目の前には岩肌が剥き出しの見事な崖がそびえ立っています。
──さっきも言った通り、僕は崖から落下し、今の状況に陥っていると考えているが、未だ確信には至っていない。
だとすれば、それを確かめるためにも、崖の上は最初に調べるべき場所ではあるわけだが──。
「──どうにもきな臭いんだよね……」
そもそもだ。普通、森に一人で訪れたりするものだろうか?いや、もしかしたらそういう人もいるのかもしれないが、僕の性格上、こういう場所には一人で来たりはしないはずだ。
ともすれば、一緒にここへ来た同行者もいるはずだ。それなのにも関わらず、僕はその人物を見てもいないし、声も聞けていない。普通同行者が崖から落ちたら、上から呼びかけたり、あるいは助けようと駆けつけたりはするはずだ。少なくとも僕が逆の立場だったらそうしている。それに荷物も一切持っていないというのも不可解だ。着の身着のままここに来たとしても、流石にスマホやら家の鍵やらがないのはおかしい。
──こう状況を羅列してみると、事件の匂いがプンプンして来ないだろうか?僕にはしてくるよ、それはもうすっごい匂ってる。
まぁそういうわけで、散策を後回しにしていたわけだが、どうしたものか。
「──ま、いっか。登ろ登ろ」
分からないことをいつまで考えていても時間の無駄だ。もしかしたらこの事件の匂いも気のせいかもしれないしね。
それに実は、同行者が高所恐怖症で下を覗けないんだけど、上で待ってくれているとか、向こうが少し離れている間に僕が目覚めて、散策に出かけてしまっていてすれ違いになっていたとか、そういう可能性もなきにしもあらずだし。や、多分ないな。
そんなことを考えつつ、目の前の崖を見つめる。
──それにこの崖、そこそこ高さがありそうだから、もしかしたらあの道がどうなっているのか上から確認できるかもしれない。
危険はあるが、それを加味しても登ってみるべきだろう。
崖の様子は結構凹凸は激しめだけど、崩れてくる心配はなさそうだ。
ほっと一息をつき、気合いを入れて崖を登り始める。
うんしょ、うんしょ、うんとこしょ。
登っては少し休み、登っては少し休みを何度繰り返しただろうか、ようやく終わりが見えてきたので一気によじ登る。
……ふぅ、やっと着いた。
こんなに疲れたのは何年ぶりだろうか。や、記憶喪失なんで分からないんですけどね。
とにもかくにも、今はこのヘロヘロな身体を休めたい。どっかに良い場所はないだろうか。
そう思っていると、どこからかパチパチという音が聞こえてきた。何かが弾けているような、そんな音だ。
キョロキョロと辺りを見回して音の出所を探す。
あっちかな……。ん?あれは──そうか火か。成る程納得──え、火!?
よくよく目を凝らしてみるが、当然変化はない。火だ。圧倒的に火だ。それも篝火だ。っていうか篝火なんて初めて見たわ。現代日本じゃ滅多にお目にかかれないからね。
──いやそうじゃない。今はそんなことよりも重要なことがある。それは──。
「──人……いるのかな?」
古今東西、どこを見回しても、火を扱える生物は人間だけだ。
そんな火が今、ここにあるということはつまり、それを扱う者がここにいるということに他ならない。
要するに、人がいるかもしれないのだ。そして上手くいけば、今日中に家に帰れ──は家の記憶がないから無理だろうけど、森から抜け出すことはできるかもしれない。他にも安全な水や美味しい食糧を得ることができるかもしれないのだ。
やったね、もう勝ちだ。なんで負けたか明日までに考えてきてください。
……もしかしたらこの先にいる人物が友好的ではない可能性もあるが、虎穴に入らずんば虎児を得ずだ。更に言うならば、毒を食らわば皿まで。ここまで来て何も得ずに戻るという選択肢はありえない。
そんなわけで、篝火の側──人がいると思われる場所へ、草花に覆われた地面を踏みしめて歩を進める。
霞がかかっていてよく見えないな……。人、本当にいる?
そうやって歩くこと暫し、ようやく人影が現れる。未だ霞でボヤけていてよくは見えないが、三人ほどが座っている姿が確認できた。
えー、どうしよう、緊張してきた。なんて挨拶しよう?こんにちは?や、でも今が本当にお昼頃かも分からないしなー。実はおはようかもしれないし。
取り敢えず笑顔で元気よくだね。あとこちらは助けてもらう立場だし、丁寧にいこう。
「やぁどうも、はじめまして!わたくし相馬優弦と申し──ッ!!」
──そこにいたのは。
不気味な仮面を被り、黒い肌に
「ya!」
「「ya!」」
こちらの姿を視界に留めるや否や、すぐさま立ち上がり、威嚇をしてくる。
お、おおお落ち着け、会話だ、会話をしてコミュニケーションをとるんだっ……!
「こ、これはなかなか、随分個性的な格好で……コスプレ、だよね?ねぇコスプレだよね?コス──」
「yaaaaa !!」
「「yaaaaa !!」」
「きゃーーッ!!」
野生の化け物が、棍棒を片手に襲いかかってきた──!!
▼▼▼
走る、走る、ひたすら走る。何があろうとも今足を止めることは許されない。もし足を止めてしまったら、待っているのは──え、待っているのは何だろう?もしかしてワンチャン、さっき襲いかかってきたのってドッキリじゃね?で、今その誤解を解くべく僕を追いかけているとか。
いやもう絶対そうでしょ、間違いないよ。だいたい現代日本にね、そう簡単に化け物が居てたまるかっていうの。まったく、チビるかと思ったよ。まぁ、これを餌に上手いこと森から出してもらえればいいや。
そうして再び会話をすべく立ち止まった僕の近くに、彼らから何かが放り込まれる。
なんだこれと思いながら眺めていると、それは段々と膨らんでいき、やがて──。
──爆発した。
「……」
……ドッキリじゃ、なくね?これ、ガチでヤバいやつじゃね?
「yaaaaa!! 」
「「yaaaaa!!」」
「チクショぉぉぉぉッ!!」
追いかけっこ、ラウンド2開幕!!
▼▼▼
走る、走る、ひたすら走る。何があろうとも足を止めては──ってこれさっきやったよ!!
足を止めずに、首を少しだけ捻って背後を確認。
彼らは依然として僕を追いかけてきている。もっとも数は二体へと変わっている。爆発物を投げてきた一体は気付いたら消えていたのだ。おそらくそいつだけは置き去りに出来たのだろう。爆発物を投げるために一々立ち止まっていたしね。距離が開くのは当然だ。
しかし残る二体が面倒だ。僕の方はもういつ倒れてもおかしくないくらい疲弊しているというのに、向こうは少しもその様な素振りが見えない。体力化け物かよ、化け物なのは見た目だけで充分だよ。
そんなことを考えつつ、息を切らせながら走っていると、再び僕の目が前方に人影を捉えた。
一瞬、追いかけてきているあいつらの仲間ではという考えが脳裏をよぎるも、人影の周囲を見てその考えを打ち消す。
人影の周囲には、木箱や樽といった、おおよそ人が扱う物が乱雑に置かれていた。更には中央に
か、勝った……!絶対人いるってこれ、間違いないよ!それに櫓もあるってことは、戦える人がいるはず。櫓っていうのは敵の動きを見張るためのものだからね。ならば当然、それを守る人もいるだろう。よし、そうときたら恥も外聞もかなぐり捨てて助けてもらうとしよう。
「た、助けてーッ!!助けてくださいお願いしま──ッ!!」
──そこにいたのは。
不気味な仮面を被り、黒い肌に鬣を生やした、化け物とでも呼ぶべき姿の生物だった。
「──チクショウ天丼かよぉぉぉぉッ!!」
「「「「yaaaaa!!」」」」
最近の化け物は人間の道具も扱えるんだね!!
▼▼▼
ヤバい。もうマジでヤバい。何がヤバいって言ったら僕の体力もだけど、それよりもヤバいことがあって、それは──。
「──だ、断崖絶壁……」
そう、奴らから逃げ回っているうちに、気付いたら僕は、自分が登ってきた方角へと向かってしまっていたのだ。
そして今、遠い遠い地面を眺めているわけで。
「終わった……終わったわ……」
後ろを見やれば、こちらへと向かってくる奴らの姿が目に入った。火事場の馬鹿力か、随分距離を取ることができたが、奴らを引き離すには至らなかった。直にここへと辿り着くだろう。
とはいっても僕にはもうどうしようもない。崖から飛び降りたら当然死ぬだろうし、立ち向かおうにも武器がない。僕に出来るのは最早遠くを眺めて現実逃避するくらいだ。
恥の多い生涯を送ってきました。まぁ、記憶ないので分かりませんが──ん?あれは……街?
視界の奥。崖の下にある、僕が最初にいた森を抜けた先に、城壁に囲まれた街があるのを見つける。沢山の風車と巨大な教会が目立つ、中世ヨーロッパのような雰囲気の街だ。
なんだろう……まず間違いなく見たことないはずなのに、どこか見覚えを感じる。既視感、デジャブというやつだ。もしや夢で見たのだろうか?それとも失くした記憶に何か関係が……?
……いや待て違う。そうだあの猪、あの怪物、あの街──。
「──や、ここもしかして原神の世界じゃね?」