人通りがまばらな大通りを外れた喫茶店。
定年退職をした叔父が趣味でやっているそこに、僕は働かせて貰っている。
とはいえ、立地が立地なので日々てんてこまいなんてことはない。
知る人ぞ知る名店、といった具合のお店で、来る客は常連客ばかりだ。
建物は軋んだ薄茶色の木を中心として出来ており、美的センスのない僕にもなんだか味があるように思える。
ただ、いくら金持ちとは言え自身の趣味をここまで金をかけてやろうとするその行動力には感服するばかりだ。
僕は、高い賃金の割に合わなすぎる少ない労働で助かっているから叔父には頭が上がらない。
ここまでのことをしてもらっているのだから、当然僕もいつも以上に仕事には真剣に取り組む。お陰様で、叔父と趣味が合うであろう高尚な常連客にも認めて貰えるようになった。
大学生活はこのやり得なアルバイトのおかげで不自由なくやっていけている。ただ、一つ文句があるとするならば、とある常連客が僕の頭をしきりに悩ませることだろうか。
そんなことを思っているうちに、チリンとドアベルが鳴って、やはり、彼女が来た。
「いらっしゃいませ」
これっぽっちも歓迎の意を含まない形式的な挨拶に、取ってつけたような愛想笑いをトッピング。またお前かよ、なんて口が裂けても言えない僕なりの最大限の譲歩である。
彼女が襲来するのは午後4〜6時の人が少ない時間帯。
いつもちょっとヘンな組み合わせの私服で、そんな時間帯に来るのだから、大学生かと問うたことがあるが、ニートだよ、と真顔で返されたので彼女の素性については考えないのが吉であると判断した。
「やっほ、ケー君、元気してた?」
「ご注文はいかがなさいますか?」
「相変わらず冷たいね、いつものを1つ」
いつも通りの僕の目の前にあたるカウンター席によっこらせ、と腰掛けながら、ニートはコーヒー豆を挽く僕をまんじりと見つめる。
この視線にも慣れたものだ。最初の方は気が散って仕方がなかったのだが、こう何度もやられると流石に耐性というものがついてしまう。
かといって彼女は迷惑な客かと聞かれればそこまででもない。
他に客がいる時は、ちょっとした悪戯はするが話しかけてこないし、今だって僕が注文されたものを作っているときに邪魔したりもしない。
だからこそ厄介なのだ。
例えるならば、目の前を小蝿が飛び回っているような、いや、流石に言い過ぎか、無視し辛いラインのど真ん中を渡って歩いてくるから僕は困るのだ。
これまで色々と御託を並べてきたが、何より僕を悩ませるのは彼女の美貌にある。凡そ日本人離れした高い鼻に大きな目、壊滅的なファッションセンスを除けば目を惹くようなスタイルの良さ。
一般人では中々お目にかかれないであろうような存在の彼女が、何故か分からないが一介のしがないカフェのアルバイトの僕にちょっかいをかけてくる、訳が分からない。
そう、彼女は大変可愛らしいのだ。僕だってちょっかいをかけられるのが言っちゃ悪いが、そこら辺を歩いている女の人だったら軽くあしらうことが容易にできる。
ただ、ここまでの美人となると気がひけるし、何より少し戸惑ってしまう。彼女に良いように弄ばれているのは重々承知しているが、それすらも許せてしまう自分が恨めしい。
仕返しにため息を一つ分マキアートに溶かし込んでやって、彼女が好きな雪だるまのラテアートを作ってカウンターに出す。
「わぁ、雪だるまクンだ。でも、こんなところにいたらすぐ溶けちゃうね」
そう言って笑いかけてくる彼女に、苦笑いを浮かべながらさっさと飲めよと視線で伝える。白のTシャツにカチューシャという奇抜なファッションがやはり目につくが、彼女が着ると不思議と似合っているように思えてしまう。
世の中の理不尽を憂いながら、小さな窓から外を見る。
外には、老夫婦が幸せそうに散歩をしているのが見えた。あんな余生を送りたいもんだと、ガラにもなくそんなことを考えてしまって、やはりどこか浮ついている自分を自覚する。
「イケメンは何をしても絵になるねぇ」
茶化すように彼女が声をかけるが、そんな言葉に騙される程僕は未熟じゃない。親戚や近所のおばちゃんと、彼女からの褒め言葉なんてものはアテにすべきものではないことは痛いほど知っている。
そもそも、彼女ほどの美人に容姿について褒められても、お世辞が透けて嬉しくもなんともない。
なのに、少し鼻がこそばゆくなってしまって照れ隠しのように愚痴を零す。
「絵になるイケメンならとっくのとうに絵にも写真にもなってる」
「そりゃそうか」
ははは、と軽快に笑う彼女に、不思議と苛立ちは感じない。
こんな風にゆるりと滑らかに滑り落ちていく時間はなんだかんだいって嫌いじゃない。時計の針はまだ4時30分あたりを示している。いつもの彼女ならあと1時間くらいは居座りそうだ。
彼女は頬に手を当てて、ぼんやりと見飽きたであろう店の内装を見つめている。話すことはないが、別にそれで気まずさは感じない。お互いの沈黙を共有しあうことで、そこにいることを許しているような気持ちになるからだ。
「ケーくんはホントにテレビ見ないよねぇ」
ふと彼女が溢す。だから、いいんだけどね。
テレビや昨今流行の動画サイトなどはあまり見ない僕は、それがどうやら彼女の琴線に触れたらしく、僕の無知加減をちょくちょくからかってくる。
彼女にからかわれると、悔しさから僕も新しい情報を取り入れて勝ち誇りたくなる気持ちと、そのままでいたい気持ちでごちゃまぜになっていつも思考放棄してしまう。
そうしないと、彼女のお気に入りが別のところへ行きそうな気がしてなんだか胸がモヤモヤしてしまうから。
正直に言えば、彼女と過ごすこの時間を、1番好ましく思っているのは事実である。嫌なことを吹き飛ばしてくれるお笑いや、胸をドキドキさせてくれる映画、一緒にバカをやれる友人といる時間よりも、彼女との時間は何か言葉にできない充実感と、どろどろにとけた夏の雲のような掴み所の無いふわふわとした感情をもたらしてくれる。
幸せってこれ? かななんて、馬鹿げたことを考えて鼻で笑い飛ばす。そんなセンチなことは考えるだけで小っ恥ずかしくなる。
彼女はスマホの通知を無視し続けている。
静かな店内に、不自然に規則正しく鳴動するバイヴレーションの音。
彼女は眉を潜ませて、投げやりに携帯の電源を切り、マキアートを一口。
「ため息の味がする」
「失礼な人だ」
携帯の通知について詳しく聞かない。彼女も彼女で、ここに自身の非日常を求めているように思えたから。勘違いかも知れないけど。砂漠にあるオアシスを見つけたような弾ける笑顔で入店してくる彼女を、少しでも喧騒から離れていて欲しいという些細な気遣い。
きっと誰もがそうだ。誰もが知り得ない一面を隠し持って生きている。ならば僕は知り得る一面を最大限に尊重しようと思うのだ。かつてそんなことを叔父に話したことがあった。その時に紹介されたのがこのバイトだ。
少しの会話と沢山の沈黙。時が止まったかのようにゆっくりと進む時間の中、いつの間にか窓から差し込む斜陽は幾分かその影を長い物にしていた。
「ねぇ、あっという間だね」
しんみりとした表情で彼女は呟く。
言外に帰宅を告げるその言葉に僕は少しのサービスをしようと思いつく。
彼女がいつもより悲しそうな表情をしていたから、なんだか居てもたってもいられなくなって、些細なことでも力になりたいと、心のどこかで何様だよと一人で突っ込みながら思った。
可愛らしい兎の絵が描かれた小袋に彼女の好きなコーヒー豆を厳封して、ate' logo!! (またね)と小さく書いて、会計に並ぶ彼女に手渡す。
「いつもご利用頂きありがとうございます。些細なものだけど、コーヒー一杯分。君がいつも飲んでるヤツ」
「随分と粋なサービスだね」
「どうも」
「Te vejo mais tarde」
そう言って微笑んでから彼女はクルリと後ろを向いて出口に向かう。
僕はバレないと思ってカッコつけたポルトガル語の意図がバレたことの恥ずかしさから、彼女が今僕の顔を見ていないことに心の底から安堵した。
未だ不明の彼女の素性を知りたいという気持ちと、知りたくない気持ちとのもう何度目かわからないジレンマに相変わらず頭を悩ませた僕は、扉を開けて、此方を振り返ってばいばいと手を振る彼女の不意打ちの笑顔にただただ面食らってしまって、手を振り返すのを忘れて後悔することになった。
ところで、彼女は僕をケーくんと呼ぶが、全く以って本名とは関係ない。何を以ってして彼女は僕をケーくんと呼ぶのか、それは彼女のみぞ知る謎の一つである。
彼女がいなくなったことで、なぜか、わざとそういう造りをしている哀愁漂うノスタルジックな店内がより虚無的な無力感を伴い始める。
ぼんやりと遠距離恋愛のカップルが、新幹線に乗って旅立つ片割れを見送った後、きっとこの倍以上の虚しさを感じるに違いないなんてことを考えながら、チリンとまたドアベルが鳴り、くたびれたサラリーマンが入店してくる。
僕は気持ちをサッと切り替えて、今度は歓迎の意を込めていらっしゃいませと言う。店内には未だに彼女の残香が漂っていた。
◆
休憩時間を終えて、スタジオへと戻るこの道は、いつも物悲しい色をしている。暖かな暖色系の色に包まれたあの喫茶店とは程遠い、突き放すような冷たい灰色。
喫茶店に勤める彼の、ややぶっきらぼうな、それでいて暖かい突き放すような言葉の数々を思い出して、少し口角が緩む。
「君も少しはジョークを言ってくれたっていいのに」
アスファルトは何も答えない。
適当に言葉を投げつけられて、呆れたように黙る彼とは違って。
同じ沈黙でもこんなに違うのね、なんて、もう幾度目かも分からない失望をアスファルトくんに伝えても、ため息すら出てこない。
「いけずだねぇ」
ふと、携帯の電源を切ったままであることを思い出す。
あちゃー、やらかしちゃったなぁ、なんて心の中で呟きながら、明るくなった画面を見れば、心配性なマネージャーからの通話の嵐。
この履歴の量はオバケよりも恐ろしいね。と頭に浮かべた白くて手をだらんと下げる幼児に見せるようなデフォルメされたオバケと、怒髪天のマネージャーの顔を比べて1人納得しながら電話をかける。
開口一番何してたんですか、何も言わずに、とやや声を荒げたマネージャーが喋る。おぉ、倒置法だ、文学的だね。なんて返すとより怒らせてしまった。彼ならなんて言うだろう。やっぱり、呆れたような苦笑いかな?
私としてはそっちの方が好みだぞ、青年。先程渡された紙袋をギュッと握ってみて、少し恥ずかしくなる。
これじゃ恋する乙女みたいだ。
少し笑い声が溢れてしまってよりカンカンになるマネージャー。
そう怒られると、なんだか申し訳なく思っちゃうから辞めて欲しいとあざとく伝えてみると、絶対零度の声でやめてください、と言われてちょっと悲しくなる。
まーたあの喫茶店に逃げてやろうかなんて頭をよぎるけれどそうも言ってられないから黙ってお小言を聞き流す。あ、そろそろ日が落ちるや。
オレンジが群青になるのって絵具じゃあり得ないから面白いと思うんだけど、きっと今伝えても分かってくれないし怒られるだけだから辞めとこう。
やっぱり夜は世界の彩りが減っちゃって寂しいなぁ、とか夜はいつも藍色だね、なんてことを今度彼に言ってみよう。なんて答えるかな、そんなことを考えて耳に流れ込んでくるマイナスオーラをプラスパワーで打ち消す。いつだってお説教は悲しくなるから嫌いだ。
お説教ラジオのコーナーが漸く終わったと思えば、もうスタジオの前。
現実は無情だ。暗澹たるこの世に救いあれ、と意気込んで階段を蹴っ飛ばして今度は金属製のドアの前。
「失礼しまーす」
とっっても重いドアを開ければカメラや照明だらけのいつもの風景。
色んな人が私に気付いて挨拶をする。まるで、人気者になったみたいだ。
人気者は画面に映る時だけでいいというのに、皆んな、気いつかいで優しいから、私はいつも困ってしまう。だってそんな大層な人間ではないもの。
アサギリ ヒナ、この世界での私の名前。知らない人の方が少ないその名前は、なんだかとってもむず痒くて仕方がない。毎日毎日アサギリ ヒナを演じていると本当の自分が飲み込まれてしまいそうになる。
だけど、彼だけはアサギリ ヒナを知らないでいる。ヨアケ チヨを知っていてくれる。だから私は私でいられる。皮肉屋でニヒルな、ちょっとへんな私でいられる。
すぅと空気の塊を飲み込めば、私はヨアケ チヨではなくアサギリ ヒナへと。
カメラはヒナを撮って照明はヒナを照らして。チヨはその影でぼんやりとそれを見てる。
まるでもう一人の自分を見ているかのように。冷めた目で、それを見てる。お互いを見ている。
「「オマエは誰だ」」
返事はない。
◆
「さっき、女優の朝霧 雛にすごくよく似た人とすれ違ったんですよ」
サラリーマンがコーヒーを片手にそう言う。湯気越しにみる彼の顔は心なしか上機嫌そうだ。
あんな美人そうそうにお目にかかれない、と何やら感動している彼に、その女優よりも恐らく彼女の方が可愛いに違いないと勝手に対抗しつつ、街中をよく見れば美人ってなんだかんだ言ってたくさん居ますよね、と無難に返しておく。
「いーや、あれほどの美人は見たことないですよ。イイ時代になったものです」
あなたまだ40代でしょう、何言ってるんですかと軽く突っ込みつつ、俺は相変わらずウダツの上がらない毎日で後退する前髪と枕の臭いばっか気になっていけない、といつものように愚痴を吐き出したサラリーマンに、ここは居酒屋じゃ無いんだけどなぁ、なんて思いつつ、テーブル席にて本を読む老人がそんな彼を見て、時々おかしそうに顔を歪めるモノだからまぁいいかと思い直して洗い物をする。
叔父が気を利かせてジャズを流し始める。そろそろディナーの時間だ。
これからちょっと忙しくなるなと、ふぅと一つ気合を入れて奥の厨房へと向かう。
僕はさっきも言ったようにテレビなんてちっとも見ないから朝霧雛に似てるなんて言われても正直ちんぷんかんぷんだ。
叔父がコーヒー豆の並んだ部屋で一人何か云々と唸っている。新しい組み合わせでも考えているのだろうか。とりあえず、在庫の確認をして問題ないことを確認した後再びカウンターに戻る。
「ところで山城くん、君、彼女いるのかい?」
サラリーマンがワッフルとサンドイッチを注文しながらそんなことを僕に尋ねる。山城くんイケメンだから相当可愛い子でしょ。と変な邪推をしてくるサラリーマンに居ませんよ、それ、性別違ったらセクハラですよと苦笑いで返して、叔父に注文内容を伝える。
全く困った人だ。優しそうな人では勿論あるのだけど、スケベ親父感が否めない。きっと会社でもあんな感じなのだろう。ウダツのあがらない日々だと本人は言うけれど、なんだかんだ言って愛されているに違いない。
彼の困ったような笑顔とキャラがあれば多少のセクハラは許容してしまうような感じがするからだ。
ドアベルがまたチリンと鳴って今度は七三分けの紺のタキシードのよく似合う若い男性だ。彼はいつも小難しそうな顔をしてパソコンをパタパタと叩いている。ただ、いつも、ご馳走様でした。美味しかったです。と必ず帰り際に言ってくれる客だ。
彼が来るとサラリーマンも空気を読んで僕に話しかけるのを辞めて、スマホで何やら調べながらニヤニヤし始める。
彼の邪魔にならないように配慮している姿勢は素晴らしいと思うのだが、カウンター越しにサラリーマンのニヤケ顔と相対するのは、こう、心に来るものがある。
そんなこんなで、少し慌ただしくも、いつも通りの時間が過ぎていって気づけば午後10時、閉店時間だ。
流れていたジャズも止まり、すっかり静かになった店内を、洗い物のガチャガチャとした音が響く。テーブルを拭いて、椅子を片付けた僕は仕事終わりを叔父に報告して、叔父のお疲れさん、という声と共に外へ出る。
コーヒーの匂いが染み付いた鼻に、少しの排気ガスと冷たい空気のスンとした匂いが染み渡る。
ふぅ、疲れたと思わず溢れた呟きに、周りの人がいないことを確認しようとした時、後ろに人影。
「おつかれさま」
その人影はそう言って僕の頬に何やら冷たいものを押し付ける。
冷たっ、と驚きとともに言葉が漏れて、街灯に照らされた人影の全貌が露わになる。
「君は……」
「また会おうって言ったでしょ?」
僕がさっき手渡した紙袋をさんさんと振りながら相変わらずの弾ける笑顔でこちらを見る彼女。僕は、コーヒーの匂いと、彼女の匂いが混ざって、よく分からない情緒にむずむずしてしまって少しぎこちなくなってしまう。
頬に押し付けられた栄養ドリンクを礼を言って受け取りながら、彼女がどうしてここに来たのかを聞く。
「お仕事、お仕事、あ、ここでビックリ仰天のニュース! 実は私、ニートじゃなかった!!」
「嘘をついたんだな、僕に」
歌うように喋りながら彼女は今度は舌を出してゴメンゴメンと平謝りする。とは言え、大学生ではなくて、この時間まで仕事かと余計な勘繰りをしてしまう自分に気づいた僕は慌てて詮索を辞めて、別の話題を探しながら、栄養ドリンクの金属の蓋を捻る。
ぷしゅりと心地の良い音ともに、エナジードリンク特有の独特な匂いが鼻にきて、さっきから色々な匂いを経験するな、と思わず言葉が溢れる。
「匂いっていやらしいことを言うね」
「君は花に欲情するのか?」
そりゃあもう、尻尾振り回すくらいに、と笑顔のまま答える彼女。
何を言っても彼女はのらりくらりと飄々としたまま返してくる。ここでドギツイ下ネタでも言って困る姿を見たいなんて退廃的なことを考えてしまうが、普通にアウトなので辞めた。
それより、余計な親心からか、彼女がこんな時間に出歩いて大丈夫なのかと心配してしまう。これじゃあ僕もサラリーマンと変わらないなと思い直して心の中で、あの陽気なサラリーマンに謝りつつも彼女と歩みを揃えてゆっくりと暗く大きな都会の街並みを歩く。
「オオイヌノフグリって、犬のタマキンに似てるらしいよ」
とんでもないことを突然言われて思わずエナジードリンクを吹き出しそうになる僕は思わず当惑そうに彼女を見てしまう。
「なんてことを言うんだ。急に」
「ふふ、勿忘草とオオイヌノフグリ、間違えたら大変だね」
「とんだブラックジョークだよ全く……」
相変わらず彼女に振り回されっぱなしな僕は、それでもいいと思えるくらい穏やかな気持ちのまま、電車に乗った時とは違って、ゆっくりと追い越してゆく景色になんとなく趣を感じたりもする。
隣で細く綺麗な彼女の鼻歌、およそ20年くらい前に流行ったバンドのメロディを口ずさむ彼女にずっこけそうになるも、それもまた彼女らしくていいやと思える。
僕はそれに口笛を合わせてみたりして、それに気づいた彼女が驚いて少しズレた音程が、そこに堪らなく幸せを感じてしまってどうしようもない。
「夜はいつも藍色だね、って言おうと思ったけど、なんだか今日は違う色してる」
「そうかな、僕は、相変わらずくたびれた色をしているよ」
「ふふっ、何それ」
「空が僕らに同情してるみたい」
「確かにそうかもしれない、いや、そうはならないでしょ、疲れすぎだよ」
そうやってお互いに顔見せあって笑いあって、相変わらずのんびりと時間は過ぎてゆく。ふと思った。特殊相対性理論がうんたらかんたらみたいなことを。高校生の頃変にかじった量子力学のペラッペラの知識で、この現象と重ね合わせてみたりして、そんな下らないことをやれるうちが華だとか、あのサラリーマンが言ってたような気がする。
どうあがいても一方通行で、保存もやり直しも効かない時間という存在が、今回ばかりはそれを恨めしくも、愛しくも思えた。
僕は相反する感情を抱えるのが好きだな、なんてひとごとのように思いつつ、やっぱり一方通行な僕らは駅についてしまう。
「大人になると、ゴール地点に着いても、嬉しいって思うことが少なくなるよね」
「山頂に着いたと思って見上げてみたら、その先に続く道が見えるからねぇ」
「無邪気にはしゃげた麗しき少女の頃に戻りたいものだよ」
「思い出ってすごいよね、どんなツラい過去もいつのまにか綺麗になってる」
「きっと神さまが綺麗にしてくれてるんだよ」
「手洗いだといいね」
「ちょっとシュールだけど」
そんなはずは無いなんてことは頭では分かり切っていることだ。だけど、もし、そんなことが僕の知らないところで起こっていたとして、そこに、母親の手料理のような暖かさを求めてしまうのはおかしなことだろうか。
しかも、それが神様だって言うのなら、たしかにシュールかもしれない。
ただ僕は、自分の生きてきた軌跡を、洗濯機で洗うように機械的に扱う神様は何かとロマンやらイメージが壊れるやらでそうであって欲しくないと勝手に思うのだ。
階段を降りた先のホームに着き、電車が到着する旨の無機質なアナウンスが鳴り響く。
彼女は僕とは反対の方向になるから、必然的にここで別れることになる。
1人になった僕は何を思うのだろう。
すぐ分かるちょっと先の未来ですらあれこれと考えてしまうのは、やはり今が楽しいからだろう。
「さて、明日も頑張らなくちゃね」
「はぁ、毎日がテスト3日前みたいな気分だ」
「追い込まれてるねぇ」
「毎日なんにも考えずに適当に過ごしてるからね」
「そういえばテストなんて、久しぶりに聞いたよ」
「誰が名付けたんだろ、その3文字が憎くて仕方がない」
「私も赤点とるたびに1発いれてたからね」
「勝手な想像だけど、ボコボコになってそう」
「ひどいけど、間違ってないよ」
目を細めて、くしゃりと笑う彼女の笑顔。彼女の笑顔も見慣れたものだが、飽きることは無い。そもそも笑顔に飽きなんて無いと思うけど。毎回毎回新鮮? こういうとなんだか気持ちが悪い。
とりあえず、よく笑う彼女は、やはり笑顔が1番素敵だ。
自由という言葉が、擬人化したら彼女になるのかななんてことを頭の片隅で思いつつ、そんな彼女だってきっと僕の見えないところで色んな苦労をしているのだろう。
少しだけ、やつれたように見える目元がそれを物語っている。
なんだか、遊園地の着ぐるみの中身を見てしまった時のような、見てはいけないものを見てしまったような気がして、思わず視線を逸らす。
ちょうど電車がホームに辿り着こうとしていて、不自然さをいくらか誤魔化せたような気がした。相変わらずじっとこちらを見つめる彼女の視線がそれを咎めているようで苦しくなる。
「私だって疲れるんだよ」
やはり、お見通しかと苦笑しつつ、軽くゴメンと謝罪する。
肩を竦めて笑う彼女が、なんだかいつもよりか細く感じられて、思わず背中に手を回して、こちらの胸に彼女の頭を押し付けるようにして、お疲れ様、と声をかけてしまった。
恥ずかしいことをしたとすぐに気付いて、ゴメン、キモいことした、と慌てて謝罪する。
抱き寄せる手を離して、彼女から離れようと後ろに下がろうとする僕の服の袖を彼女の今にも折れてしまいそうな細い手が引っ張った。
俯く彼女の表情は見えない。
僕は、そんないじらしい彼女の仕草に、直視出来なくなって慌てて顔を逸らす。
「仕返しだ、ばーか」
彼女は俯いたまま後ろを向いて、今さっき到着した電車に向かって駆けて行く。あっ、と情けない声が漏れて、思わず伸ばした手は空を切った。
「勝ち逃げされた気分だ」
ドアの向こうで、窓越しにちょろっと舌を出す彼女の姿を見て、そんなことを呟く。
美人がそんなことをしても可愛いだけだからやっぱずるいよな、なんて思いつつ、彼女の頬が少しだけ赤くなっていることに気づいた瞬間に、電車はどんどん加速してどこかへ行ってしまった。
そして、すれ違うように反対側のホームに電車が到着する。
容赦なくやって来る明日を、なんだか今日は前向きに受け止められるような気がして、フッと笑って電車に乗る。
2倍の速さで過ぎゆく彼女は、また、2倍の速さで僕に近づく。
それが、損をしているようにも、得をしているようにも思えて、やっぱり相反している、と突っ込んだ。