「さあ、来い」
頭に響く声だ。
優しさに溢れてて、殺気がなくて、さっきまで闘っていたのが嘘の様に感じる。
この差し出された左手も、実は和解の為なんじゃないか?
エッヂは笑顔だし、みんなも止めようとしない。
なんだ。もう闘いは終わってたのか。
エッヂが手を抜いてたのは、遊んでたんじゃなくて、俺の誤解を解く為だったのか。
俺1人だけ、勝手にムキになってたのが恥ずかしいな。
多分チープは帰ってくるだろうし、取り込んだと思わせたのも、冗談なんだな。
まあ、それにしては手の込んだ、タチの悪い冗談だったけど。
俺の身体は、差し出された左手に対して、自分の右手を伸ばす。
「それでいい」
なんだろう。気の所為かどうか分からないけど、一瞬エッヂが邪悪な笑顔をしていた気がした。
いやいや、そんな訳ないか。
だってエッヂは、俺と和解しようとしている訳だし。今更闘う気なんてない筈だ。
この手を取ったら、少し寝よう。
結構疲れたし、色々あったし。
ああ、それにしても本当に疲れたな。
帰ったら、ミラエラには悪いけど、寝るのが先だな。
——突然、視界が後ろを向く。
それと同時に俺は宙を舞った。
「テメェが折れてどうすんだ!」
数メートル飛ばされ、その衝撃と痛みに我に帰る。
見上げるとそこには、俺を蹴ったであろうラットが、こちらへ足音を響かせながら歩いて来ていた。
「負けそうになったらそれで終わりかよ!」
ほぼ同時に俺の胸ぐらを掴み、強制的に立たさせる。
「もがきもしねえで従って、それでどうなんだ。最後は自分勝手かよ。ふざけんじゃねえぞ! テメェの命1つ分が、他人の命何百個分もを犠牲にするんだぞ! ちゃんと分かってんのか! 能力者の強さを嘗めるな!」
今まで冷静だったラットが、嘘の様に怒鳴り響かせている。
それはもちろん俺に対してであって、決して現状に対してではない。
立ち上がった俺は、それ以上何も出来ずに、ただラットの怒りを受けるしかなかった。
「もういい。後は俺がやる」
俺を突き放したラットは振り返り、エッヂの方へと歩いて行く。
「……少しだけ、期待したのが馬鹿だった」
ラットがボソッと、そう言った気がした。
「そう気を取り乱すな。あいつは正しい事をしたまでだぞ」
エッヂは左手を下げ、ラットと向かい合う。
「その正しさってのは、キューズから見ての話だろ」
ラットの言葉に、一瞬静けさが訪れる。
「その通り」
その言葉の直後に、ラットの蹴りがエッヂの右脇腹へと放たれる。
エッヂはそれを軽く受け止めようとするが、足が右手に触れる瞬間に反転し、蹴りは標的を左腕に変えた。
「ぐっ」
蹴りが直撃した左腕は、人体が出せる最高の濁音を含みながら、粉砕されていく。
あのチープの能力で、再生するよりも速く。
「馬鹿な。どれ程の力があれ——がぁ」
エッヂが驚く暇もなく、次の蹴りが顔面へ放たれる。
その有無を言わせぬ攻撃は、俺を色んな意味でふるい上がらせた。
「くっ」
エッヂが一旦距離を取り、拳を握る。
その仕草は経験上、空気爆弾だと分かった。
エッヂが投げる様にしてそれを手放すと、ラットは走り出した。
そしてクイっと指を動かし、それと同時にエッヂの近くで空気爆弾が爆発した。
「なに!?」
一瞬の隙を逃さず、ラットの蹴りはエッヂの首元を正確に射抜く。
「かあはっ」
またもや骨の折れる音がし、エッヂは後ろへ吹き飛ばされる。
「なぜ、なぜ攻撃が効く」
地面に手をつき、絞り出した様な声で、エッヂは問いかける。
「気付いてねえのか。単純に、チープの能力が強大すぎて、テメェが対応出来てねえだけだ」
「——!」
それは盲点だった。
エッヂは左手を隠しながら闘っている所から、恐らく自然系。
それに対してチープは、常に発動しているフルオート系。
系統が違えば、能力も違ってくる。
多少の誤差なら、ある程度対応出来るだろうが、チープの様な能力が強すぎる場合、そうともいかないのだろう。
だから、身体が能力に対応出来なくなって来ている。
そして有り得ないはずの、骨折という怪我を負うことになったのだ。
「あの小僧か。これ程までに強大とは思いもしなかったぞ。だが、それだからこそいいのだ。能力は不十分だからこそ輝く。まだ磨きがいがあるな」
エッヂは立ち上がり、ラットに背を向ける。
「我を殺してみろ」
大きく手を広げ、エッヂは脱力する。
本気で全ての攻撃を受けるつもりだ。
罠とか、からかってる訳じゃなく、本気で攻撃を受ける事だけを目的にしている。
それは自分を試したいという気持ちからなのか、それとも単純に頭のおかしいやつなのか、俺には理解出来なかった。
「その必要はない」
エッヂの指がピクリと動く。
「今なんて」
聞こえているだろうが、エッヂは聞き返す。
「その必要はないと言った。理由は分かるだろ」
「いいや、理解出来ん。目の前に無抵抗の敵がいるんだぞ。攻撃しないで何をする」
エッヂ振り返り、ラットを説得しようとする。
妙な光景だ。ラットが不利というのは変わらないのに、なぜか立場が逆転している様に見える。
「無抵抗なら止めるも糞もねえ。動かねえならそれは敵じゃねえ。俺らの任務は完了される」
「任務だと? 貴様らの任務は、我を殺す事ではないか」
「確かにそうだ。だが、相手が降参しているなら、その命令はもう、有効じゃねえ」
ここでやっとラット以外の全員が、エッヂが見下されている事に気が付いた。
「き、貴様……。今なんて」
先程とはニュアンスが違い、殺意がある。
ラットから見れば、堂々と背中を見せたエッヂは、既に降参した敵と同等。
殺すべき標的ではなく、ただの頭のおかしい奴で片付けられていた。
「もうじき5分だ。もし耐えられたら、話の続きをしてやるよ」
ラットはサンの方向へ顔を向ける。
「もう準備は出来てんだろ? 早くしねえと俺が殺されちまう」
「は、はい」
サンは目を閉じ、何かに集中する。
「大体予想はついてる。1992年と言えば、誰でも分かるだろう」
「——!」
急にエッヂがサンに振り返る。
そして目を大きく見開き、こう言った。
「あの……地獄を……もう1度と言うのか……」
その時のエッヂは、今までが嘘の様に焦っており、あのチープを取り込んだ時の余裕は、冷静さはどこにもなかった。
「おっと動くなよ。まあ、動いても行かせねえけどな」
ラットは大きく腕を上げ、エッヂに向かって中指を立てる。
「マイクロデビルだ」