あれから少しの日が経った。いつの間にか修を取り巻く噂は消え、むしろ周りが心なしか優しくなったような気もする。
さておき、今日も今日とて、修は玉狛支部で烏丸と共に訓練を行っていた。
「聞いたよ。伊織先輩にやられたんだってな」
「…はい。手も足も出ませんでした」
伊織との一件から、修の中で何かが変わったということはない。もっと強くならなくてはという意識が強まっただけで、周囲から同情されるほど落ち込んではいなかった。
ただ、玉狛では伊織の話は御法度だと思っていたから、烏丸からこの話が出たのは意外だ。
「あの人の新人いびりは恒例行事だから、気にするな」
それでも、あそこまでやったなんてのは初めて聞くが。そう言って、烏丸は息をつく。
「どうしてそんなことを…?」
そういう性格だから、と言われたら呑み込むしかないが、ああして迅が気にかけている様子や遊真の話からは、そんな人だとはどこか思えずにいた。
烏丸は修の言葉を聞くと、目を伏せた。
「…わからない。もう少しで、わかりそうだったのに」
普段からポーカーフェイスを崩さない彼にしては珍しく、後悔が色濃く出た表情だった。
「……?」
「…少し、休憩だ」
☆
「ふむ…。ことぶき先輩も玉狛だったのか」
一方、玉狛支部内のリビング。遊真はいつの間にか補充されていた来客用兼お子さまのご機嫌取り用の茶菓子を片手にくつろいでいた。
師匠の小南は学校の行事やら防衛任務やらで今日はここへ来るか怪しいらしい。ちょうどいいタイミングだから、ここ最近心の中に幾分か居座っていた疑問を宇佐美に投げかけてみた。
「うん。半年以上も前かな?東さんと加古さんの紹介で転属してきたの」
「ほう、転属…」
オサムみたいなかんじか…と遊真は頷く。
「ちょうどレイジさんのチームが一人分空いてたから、いきなりA級部隊にランクアップ!って感じだね」
宇佐美の口調は、いつものように優しく弾んだものだった。
修と同じく、伊織の話を出すのはまずいのではないかと遊真なりに気を遣っていた──レプリカに止められたというのももちろんある──が、思いの外ポジティブな返事だ。
「でも、その割にこなみ先輩と仲悪そうだったけど?」
ならば、と核心に迫ると、宇佐美はばつの悪そうな顔をした。
「うーん、ちょっと色々あって」
けど、その色々をわたしたちは知らないんだけどね。珍しく、彼女は自嘲気味に笑った。
「ふむ?」
「突然辞めてっちゃったんだ、伊織くん。わたしたちには何も言わず、
紹介で転属して、何も言わずに本部へ戻る。突拍子のなさは、あるいは伊織らしいと遊真は思ったが、宇佐美にとっては違うらしい。遊真の来る前に、決定的な何かがあったような、そんな認識の差が感じられる。
「だから、小南は裏切られたと思ってるんじゃないかな。伊織くんと一番仲良かったの、小南だったから」
☆
「あの二人の仲が良かった…?」
正直なところ、そう言われても信じられないくらいには小南は伊織に攻撃的だった。烏丸の表情といい、修の思っている以上に伊織と玉狛は複雑に絡み合っていて根深いのかもしれないし、彼らがこれまで進んで話してこなかったのもわかるような気がする。
「ああ。うちでは伊織先輩と小南先輩二人が前衛だったってのもあって、自然と関わる機会は多かった。気も合うみたいだったしな」
「けど、琴吹先輩ってぼくと同じシューターじゃ…」
修の言葉に、烏丸は少しだけ笑う。ちょうど数分前に、射手の基本は味方の支援と教えたからだ。
それから、「あの人は特別だ」と付け加えた。
「小南先輩と伊織先輩。個人の強さは太刀川さんや二宮さんが上かもしれないが、二人が組んだときはボーダーで右に出る者は居ない。そんな話が出回るくらい、二人の息はピッタリだった」
「そういえば米屋先輩もあの時…」
米屋のあの言葉は伊織と小南を指すものだったらしい。だから「玉狛なのに」と米屋は言ったのだろう。
しかし、それでもまだ信じがたい。なぜ迅ではなく小南となのか。そして、それほどの仲だったのにどうして今のようになってしまったのか。
「けど、その話はすぐになくなった。……出回ってすぐに、伊織先輩は玉狛を抜けていったから」
☆
おおよそ同じ時刻、ボーダー本部。上層部が集まるような会議室のある、人気の少ない廊下で、伊織は天井を見上げた。
天井には、トリオンをエネルギーとして灯る蛍光灯がいくつも並んでいる。しばらくそれをぼんやりと眺めていると、誰かの足音が聞こえてきた。
「はあ。やっとボクんとこ来はりましたね」
顔を上へ向けたまま伊織は言い放つ。
この時間に会議が行われないのは調査済み、伊織にしては珍しく人通りの少ないところへやってきたのは、ある人物を待っていたからだ。
「なんだ、気づいてたのか?」
「他人に見られるのは慣れてるからなあ」
「で。やっとこさボクんとこ来てまさか、しょうもない話ちゃいますよね?迅さん」
視線を下ろす。そこには、やはり迅の姿があった。
葉子とのことも、修や遊真とのことも、迅に『見られていた』のは確実だろう。皮肉はいつも通り間の抜けた笑いで流された。
「メガネくんたちはどうだった?」
修が風間と引き分けたという噂は、彼が伊織に完敗したことで沈静化した。代わりに、『有望なルーキーをまた琴吹が潰した』という尾ひれのついたトピックが出回っている。玉狛支部所属の修が本部までわざわざやってくることは稀だから、彼らには伊織のせいで修がボーダーから姿を消したと映っているのだろう。
「メガネくんは弱くて、遊真くんはそこそこって感じやったなあ」
薄っぺらい表情で伊織は吐き捨てた。
こうして迅が当たり障りのない話題から入るときというのは、大抵の場合重要な話が後に控えている。早く本題に入れと、口調に乗せた。
「それだけじゃないだろ?」
涼しい顔で続ける迅に、伊織は少し苛立った。
しばらく無視したが、それきり迅は話を進めようとしないから、伊織は仕方なく口を開く。
「…二人とも、ちゃんとボーダーで、ちゃんと玉狛の隊員やった」
「…そうか。お前がそう思うんなら、きっとそうだろうな」
だって、伊織も紛れもなく玉狛の一員だったんだから。
触れたら絆されてしまいそうなその言葉を、伊織は無視した。
仕切り直し、とばかりに迅は息を吐く。
「もう少ししたら、近界民が攻めてくる。それも、四年前より多分大きい」
恐らくこれが本題。伊織の顔が神妙なものに変わった。
さすがの伊織といえど、そこまでの機密情報は得ていない。迅が関わっているのなら、伊織が知る可能性を徹底的に潰したのだろうから尚更だ。
「へえ。…それで?」
「メガネくんが死ぬ未来が見えてる。だから、助けてやってほしい」
たしか、可愛い後輩なんだろ?と迅。伊織はため息をついた。そのために修たちの印象を話させたのだろう。
伊織が修たちに抱いた感情を言語化したのはこれが初めてだ。そしてそれは、消えない記憶となって、伊織に積み重ねられたということでもある。もちろん、迅にサイドエフェクトのことを話したことはない。けれど、事情は知らずともそう言われて伊織が何をするのか見えているはずだ。
「ボーダー最強部隊とかいうご自慢のお仲間に頼めばええやろ」
玉狛が独自に開発したトリガーを使う木崎隊は、その実力やトリガーの特異性から『ボーダー最強部隊』と呼ばれている。
そして、かつてその一員であり、小南とともにつけられた称号を捨てた伊織がそれを言うのは、強烈な皮肉だ。
「もちろん、レイジさんたちにも頼むよ。でも、手数は多い方がいい」
「あはは!それで頼むのが
いくら嫌味たらしく言っても、迅の表情は全く変わらない。
迅はいつだってそうだ。飄々として胡散臭そうな佇まいなのに、『未来』のこととなると頑なになる。
「そうだな……じゃあ、言い方を変える」
それは、伊織が玉狛を抜けると伝えたときの林藤の雰囲気とよく似たような、ともかく、伊織の心をざわざわと揺らすものだった。
どうして今、そんなことを思い出したのだろう。それは、伊織にもわからない。
「ボーダーは近界民から市民を守る組織だ。四年前の惨劇を繰り返さないために、ってね」
一音一音を聞き取らせるかのように、ゆっくりと迅は言う。
それが引き金となって、伊織の脳内にある映像を溢れさせる。転属初日に小南に完敗した記憶。レイジと一緒に夕飯を作った記憶。宇佐美の実験台にされた記憶。烏丸といたずらを画策した記憶。
どうしてそれを思い出したのか、もう伊織にはわかっていた。
「そこへ突然やってくる侵略者。敵が誰かなんてわかりきってるだろ?」
メトロノームのように、心が揺れる。次の言葉を聞きたくない。
「今回だけは、
水面に石を投げ込んだように、心が波打つ。
「だったら一度、正義の味方でもやってみないか?」
次回、大規模侵攻編です