曇り空のフラクタル その1
知らないということはそれだけで罪なのだと、大昔の偉い哲学者は言ったそうだ。たしかに、フグが毒を持つとも知らずにそのまま食べれば目も当てられないことになるし、相手の事情を知らないがゆえにふとした言動が傷つけてしまうことだってある。
けれど、自分にとっては全くの逆だ、と迅は思っている。
彼のサイドエフェクト、未来予知のことだ。
未来がわかるというのは誰しもが一度は夢見た能力であるが、同時に大きな責任と心労を伴う。
例えば、近界民に姉を殺されるかもしれない少年が居たとして。
道は二つある。
一つは、近界民から彼らを守ること。もちろん、彼らから感謝はされるだろう。人命を救った人物として、市民から賞賛されるかもしれない。
一方で、その未来を呑んで、他の人間を助けに向かったとしたら。
姉を失った少年は、近界民に復讐をするべく立ち上がり、後にはボーダー有数の実力者として成長する。
迅は悩んだ結果、後者を選択した。
今、目の前の一人の人間を救うことよりも、今後死ぬかもしれない多数の命を守ることを選んだ。
未来を知ることは、罪を背負うこと。
彼は、大多数の命を選んだ代わりに、一人の命を見捨てるという、一生消えない罪を償い続けることとなった。
「さて、敵さんはどう動くか…」
警戒区域、西地区。
迫り来る大量のトリオン兵を前にして、迅はひとり呟いた。以前から迅に見えていた近界からの大規模侵攻。それが今日、三門市を襲う現実となっている。迅が受け持つ西地区と、もう一人のS級隊員、天羽が受け持つ北西地区。この二つは問題ないと彼のサイドエフェクトが告げている。故に、迅が見据えているのは目の前の大群ではなく、もっと大きなものであった。
今回、彼の掲げる目標は二つ。
一つ、被害を最小限に抑えること。それはボーダー関係者しかり、一般市民しかりである。どちらかと言えば、全体目標とも言えるだろう。
そしてもう一つ。雨取千佳を拐わせないこと。彼女のその異常なまでのトリオン量の多さから、展開次第ではこの侵攻のキーマンになる。千佳が狙われれば、チームメイトの修や遊真は文字通り死力を尽くして守ろうとするだろう。まだ可能性は低い未来だが、それによって修と遊真の命の危険さえ見えている。だから、千佳を守ることが迅にとって目先の目標ということになる。
「………」
迅は一度、基地がある方へ振り返った。
思い出す。
一度目の大規模侵攻で迅が選択した未来を。今も背負っている、消えない罪を。
そして、今回の大規模侵攻でまた一つ、それが増えることを。
市民を守るために、遊真たちを守るために、迅は一人の人間の未来を切り捨てた。
☆
『だったら一度、正義の味方でもやってみないか?』
あの時の迅の言葉が頭を過ぎる。
正義の味方。なんと甘美な響きだろう。なんと正しい行いで、良い行動だろう。
心が揺れる。
(………わかってるよ、父さん。あの時みたいなことは、二度としない)
迅の言葉が頭の深くに染み込んで、引き金となる。父親の顔と、ボーダーでのある出来事が伊織の脳裏に舞い戻った。
『伊織くん。そっち付近にはトリオン兵が五体。隊長たちは今本部に居るから、合流は難しいかも』
加古隊のオペレーター、小早川杏から通信が入る。今回は全くの偶然だろうが、毎度丁度いいタイミングだ。
『了解。端から姉貴たちと合流するつもりはあらへんよ』
そっか、とだけ返ってくる。
隊長が『あれ』なだけあって、加古隊の隊員はボーダーの中でも個性的なトリガーをよく使う。その分、オペレーターへの負担も大きいはずで、そこへ伊織も加わるとなると相当な仕事のはずだ。全体への指示は忍田から全員へ通信が入るだろうし、何かあれば迅からも来るだろう。事前に断ったというのに、杏は頑なに辞めなかった。
『ま、特に気にせえへんでええよ。ボク、強いから』
それだけ言って、伊織は周囲のトリオン兵へ意識を向けた。
杏の言った五体は伊織からも目視できる。いずれもバムスター。難しい相手ではない。
両手から放たれる変化弾がトリオン兵たちの弱点を貫くのに、そう時間はかからなかった。
ふう、と一息つく。
敵なら今、キミの目の前に居るやろ。以前三輪に向けて、伊織が言ったことだ。
いずれにせよ、周りの人間を守ることに変わりはない。まずは目の前の敵に集中するべきだ。
「ふむ、もう終わってたか」
そうして一つ、息をついたところへ、見知った二人がやってくる。
伊織の顔が歪んだ。
「あれ、メガネくんに遊真くんやないの。奇遇やなあ」
繕って、伊織はいつもの薄っぺらい顔を浮かべると、演技臭く右手を上げる。
あれだけのことをしたというのに、遊真も修も伊織に対する態度はあまり変わらない。
揺れるな。揺れるな。そう言い聞かせて、遊真に向かって切り出した。
「遊真くん、ボクのトリガー使う?ちょうど一つ余ってるんやけど」
「おかまいなく。…やばくなったらこいつがあるから」
右手を見ながら遊真は言う。
結局のところ、彼の黒トリガーが一体どんな能力を持つのか分からず終いだったが、静かにそれを見つめる様子は自信に満ちあふれているようだ。
「あ、そ。そないなら、二人で頑張りや──」
二人を置いて、足早に次のポイントへ向かおうとした。
しかし。
突然の杏からの通信で、倒したはずのバムスターの方へ振り返る。
「はあ。空気読めへんなあ…」
バムスターの中から、一体のトリオン兵が姿を見せた。
口の中から悠然と歩くその様子は、まるで列車が駅に着いて、ドアから下車するかのようにゆったりと、最初からそのつもりだったかのような振る舞いだ。
今までのトリオン兵とは訳が違う。
それは、B級上がりたての修にすら感じられたようで、彼は冷や汗をかきながら伊織を心配する声をかけた。
「ああ、ええて。ボク一人で十分や」
調子は変えず、伊織は答える。
『ユーマ、あれは……』
「わかってる」
何やら遊真はレプリカと話し込んでいるようだが、気にせず伊織はトリオンキューブを展開した。
バイパーを射出。やはり反応はバムスターよりも早い。
初手は右腕の装甲で防がれた。
今度は両手にアステロイドを展開。二宮ほどとはいかないまでも、生半可な装甲なら押し切る自信がある。
先程と違い、愚直に弱点の口元を目掛けて真っ直ぐそれは飛ぶ。
間違いなく防がれるだろう。バムスターよりも何段も格が上のトリオン兵に対して、軌道が真っ直ぐすぎる。
だが、それでいい。
トリオン兵相手に小細工なんてするまでもない。防ごうとして向けた腕の装甲をアステロイドで破壊して、そのまま押し切る。そう思った。
伊織の予想通り、トリオン兵は難なくアステロイドに反応し、何の躊躇もなく腕で防ごうとした。
「え、全然攻撃通らへんやないの」
だが、トリオン兵の腕に傷はほとんど付かなかった。
ぎょろり、と向こうの眼が伊織を見据える。ゆったりと腕を下ろす様子は、この程度か、と言っているように感じた。
「うーん。その顔、気に障るなあ…」
薄っぺらく伊織は笑うと、再び両手にトリオンキューブを展開する。
両脇に控えるのは同じくアステロイド。
そのまま放ったところで、結果は目に見えている。トリオン兵もどこか余裕そうな佇まいをしていた。
だが。ここで終わる伊織ではない。
「アステロイド+アステロイド」
伊織の両手がクロスすると、手のひらの真下にあったキューブもその動きに従ってクロスする。途中で衝突したその二つは、混ざり合って一つの大きな塊となる。
合成弾。射撃トリガー二つを組み合わせて、性能を上げた一つの弾とする、シューターの特権の一つだ。
今回組み合わせたのはアステロイド二つ。純粋な弾の威力強化だ。消費は激しいが、伊織ほどのトリオン量ともなれば、その威力は計り知れない。
再び、射撃は弱点目掛けて真っ直ぐ飛ぶ。あのトリオン兵に感情というものがあるのかどうかは知らないが、動きの傾向は把握した。
トリオン兵は同じように右手を射撃の軌道上に置く。こちらを見下したように、必要最低限の防御だ。しかし、それは予想通りでもある。
一撃目は防がれた。やはりとてつもなく硬い。だが、硬いものは同時に脆いと相場は決まっている。
遅れて続く二撃目が、一撃目の着弾した部分に寸分の狂いもなく着弾する。表面に綻びが生じた。
そして三つ目以降が、同じように敵へ襲いかかる。七つ目にして、トリオン兵の右腕は粉々となった。
『見事だ』
「…やるね」
「ま、キミらが手も足も出えへんくらいには強いで、ボク」
賞賛には皮肉で答え、伊織は笑う。
だが、まだ終わりではない。右腕を破壊したとはいえ、向こうの攻撃がやってくる。
右足を踏み込んで接近。伊織が思っていたよりもスピードがある。
左腕の薙ぎ払いにはテレポーターは使わず、盾で受けた。
(この破壊力…!)
やや広め、脇腹の辺りを守るように展開した盾がひび割れて、崩壊する。守りも攻めも、一筋縄ではいかなそうだ。
だが、一筋縄ではいかないのはこの嫌われ者も同じである。
遊真たちに軽口を言う傍ら、バイパーを相手の背後に向かわせておいた。いくら反応が早いといっても、視角外からの攻撃は避けられないはずだ。
と、思ったが。
「…それ避けるんかいな」
完全に死角だったはずだ。背中の装甲が割れるとは思っていなかったが、体勢くらいは崩せる。少しでも崩すことができれば、そこから詰め将棋のように少しずつ勝負を決めに行ける。そうプランを立てていたが。
新型は、背後からやってくる伊織の射撃を振り返ることなく回避した。
(目だけじゃなくて、レーダーみたいなのもあるってことか…)
三度目、両者は見合う。この新型、伊織が戦ってきた中で間違いなく一番手強い。
(
新型を倒すことだけを考えれば、いくらでもやりようはある。
右腕を破壊したときのように、合成弾を使えば恐らく危なげなく倒せるだろう。
だが、そうするわけにはいかない。
敵の戦力を考えれば、この新型を一体倒したところで侵攻は終わらないだろう。新型ももっと居るだろうし、何より人型が出てくる可能性がある。迅の言っていた通りの展開になるのであれば、その時までトリオンを温存しておく必要があった。
(………)
そうしている間に、新型がやってくる。
仕掛けは先ほどと全く同じ。伊織の盾が簡単に破壊されたのを見て、戦法を変える必要はないと踏んだのだろう。
伊織も同じように盾を展開する。違う点とすれば、先ほどよりも盾を薄く、広く展開したことだろうか。
(香取の時よりも火力は強く…!)
そして、新型の左腕が盾に衝突する……前に、メテオラが緩衝材となった。あの巨体に、あの固さ。いつかに見せた葉子の攻撃を防いだときよりも、メテオラの威力は強くした。そのために展開しておいた盾を貫通して、伊織自身も体が爆風で吹き飛ぶ。
だが、新型の体勢は崩した。
「アス────」
四の五の言ってはいられない。今が好機だ。
唯一、新型の守りを破った合成弾を、伊織は放とうとしたが。
『伊織くん!』
トリオンキューブが伊織の側に現れた瞬間、脳内に杏の声が反響する。
「…はあ。
伊織の周りからトリオンキューブが消えた。
合成したわけではない。そのまま放ったわけでもない。攻撃をする必要がないから、キューブを消したのだ。レーダーをちらりと見て、こちらへ向かってくる三つの点を確認すると、伊織は大きくため息をついた。
直後、体勢を崩した新型の弱点目掛けて、狙撃が二つ飛来する。
それには反応して、左腕で防いだ新型だったが、その分胴体ががら空きだ。
間髪入れず、別の方角から無数の弾丸ががら空きの胴体を貫く。
狙撃が二発に、射撃が複数。顔を見なくとも、誰がやってきたのかは明白。
「嵐山隊、合流した!」
やはり、応援に駆けつけたのは嵐山隊だ。
嵐山は新型が沈黙したことを確認すると、伊織に向かって「よくここまで削ってくれたな」と明るい笑みで労う。
「遅れてくるところは一丁前に
対する伊織は、薄っぺらい笑みで皮肉を返した。
ボーダー広報部隊にして、A級五位。市民からの人気も厚い正真正銘の『正義の味方』なのが彼ら嵐山隊だ。
「忍田さーん。なんか中からけったいなの出てきはったんやけどー」
鋭い目で睨みつけてくる木虎を尻目に、恐らく嵐山隊に援護を求める通信を送ったであろう杏には「いらんことせんといてや」と釘を刺しつつ、伊織は忍田へ通信を送る。
『各所から報告があがっている。どうやら隊員を捕らえるような動きを見せているようだ』
『シノダ本部長、それは恐らく『ラービット』というトリオン兵だ。バムスターと違い、トリガー使いを捕らえることを目的として作られている。A級といえど油断すればやられるぞ』
道理であそこまで強い訳だ。
遊真の周りを浮遊するレプリカの言葉に、内心伊織は頷いた。伊織でこれでは、恐らく並のB級単体では全く歯が立たないだろう。
そして、敵がこの初動でラービットを全て投入するとは考えにくい。的確なタイミングでそのカードを切られれば、あるいは隣のメガネの少年は……。
心がまた、揺れ始める。
『…そのようだ。今しがた、B級が捕獲された報告が入った』
息を呑む。恐れていたことの足音が、少しずつ聞こえてくるようだ。
『全隊員に通達!新型はこちらを捕らえようとする動きを見せている。少人数での相手は分が悪い。よって、B級部隊は東と南の二つに集結せよ!繰り返す!B級部隊は二方角に固まって迎撃せよ!』
『し、しかしそれでは他の地域の避難が疎かに…』
『A級およびそれに相当する部隊は遊撃、B級の指揮の二つに分ける。遊撃部隊がそれを担えば問題はない。…城戸司令も異論はありませんね?』
『よかろう』
揺れる伊織を尻目に、話はとんとん拍子で進む。それほどの早さでなくては、刻一刻と変わる戦況に対応できないということだろう。
はっと我に返って、伊織も状況を整理した。A級の、それもソロ隊員である伊織が担当するのは、十中八九遊撃。そもそも部隊の指揮なんて『ボーダーの琴吹伊織』には不可能だ。
「忍田本部長!ぼくと空閑にC級を援護させてください!」
C級に居る雨取千佳は玉狛の隊員であり、彼らのチームメイト。入隊日にアイビスで基地の壁をぶち抜いた通称トリオンモンスター。
C級である彼女には、市民の避難誘導という任務が与えられていた。もちろん、訓練用のトリガーしか持たない彼女たちに戦闘は禁じられているが、これほどまでの規模の侵攻に対しては貴重な人手なのだろう。
しかし、ラービットの実力を目の当たりにした修からすれば、緊急脱出のできない千佳が心配になるのは当然のことだ。
『確か、雨取隊員は君たちのチームメイトだったな。よし、なら二人はC級の援護に……』
『待て』
修の申し出を快諾しかけた忍田だったが、ボーダーのトップが待ったをかけた。
『向かうのは三雲隊員だけだ。空閑隊員は嵐山隊と共に新型の遊撃に当たってもらう』
「なっ!?」
修は城戸の言葉に驚きを隠せずにいるが、当然の考えだと伊織は思う。
迅は「ボーダーは近界民から市民を守る組織だ」と言った。なら、黒トリガーという強力な武器を持つ遊真を、新型の撃破に向かわせるのは自然な流れだ。
しかし、修の主張も理解できる。あるいは、どちらも正しい言い分かもしれない。
「おれ、一応C級なんだけど」
一応C級である遊真は、他と同じく市民の避難誘導へ向かう任務を受けてはいる。しかし、それを無視してここまでやってきたという事実が、遊真の言葉が詭弁であることを示していた。
『右手の指輪は飾りではないだろう』
「使っていいの?」
『許可する。ただし、警戒区域内でなら、だが』
「使わなきゃチカのところ行っていいの?」
両者ともに引かない。だが、これ以上正しい者同士が衝突するのは伊織には見過ごせない。
…ここらが潮時だ。
「それでチカちゃん守れるんならええんちゃう?」
遊真の言葉が止まった。いくら使い手が強くとも、道具には限界というものがある。彼自身にも訓練用のトリガーではラービット相手には勝てないことはわかっていただろう。
「………」
そしてそれは、修にもわかっていたはずだ。沈黙が何よりの証拠である。
「思い悩む必要はないぞ、三雲くん」
「え…?」
見かねた嵐山が、黙って俯いてしまった修へ声をかけた。
彼もまた正しくて良い人間だ。暑苦しい発破をかけて、修がまた正しい道へ戻るよう導いてくれるのだろう、と遠巻きに彼らを眺めていた伊織だったが。
「たしかに遊真が居ないのは痛手かもしれない。けれど、心強い仲間がここに居るじゃないか」
そう言って嵐山は伊織を見つめる。それに倣って修が振り返り、遊真が頷き、木虎と時枝も伊織へ顔を向けた。
嵐山の提案はつまり、伊織がC級の援護に向かえば問題ない、というものだった。
「ふむ、それならおれも安心して任せられる」
「いやいやいや。ボクほど遊撃に向いてるやつ居らへんやろ」
実力だけ見れば、伊織はボーダーにとって優秀な駒であることは自分でも理解している。大規模侵攻を前に、素行には目をつむるくらいのドライさを上層部──特に城戸司令だ──は持ち合わせているだろうから、伊織に都合の良いことを言ってくれるに違いない、と期待していたが。
『C級のもとに新型が出現しないとも言い切れない。…それに、君を自由にしておくリスクは重々承知している』
肝心の城戸は伊織に助け船を出すどころか、嵐山の提案に同意してしまった。
伊織は顔を歪める。城戸がそう決断した理由に、遊真を巡っての一件が間違いなく影響しているはずだ。近界民の侵攻に加えて、隣には命を落とすかもしれない少年。前々から少しずつ外堀が埋められていたことに、今になって気がついた。
「遊真くん連れて早よ行ってくれはります?暑苦しゅうてしゃあないわ」
珍しく、苛立った口調で伊織は言った。
「言われなくてもそうします」
「さすが、広報部隊さんは頼もしなあ」
「じゃあ、あとは任せたよ」
また突っかかってきそうな木虎を連れて、時枝は嵐山たちと共に新型のいる方へ向かっていった。
修と伊織だけが残され、一気にしんとした戦場。向こうも戦闘に入ったのか、杏から通信もない。
迅の言葉や、修の未来。両親との記憶や『ボーダーの琴吹伊織』。相反するものたちが絡まり合って、伊織の心を埋め尽くしている。
伊織の中ではもう、修は正しくて良い人間として存在していた。それだけで、修を守るには十分な理由だ。けれど、近界民に命を脅かされているという分かりやすい危機から救うには、伊織が正義の味方にならざるを得ない。だが、世界に一人必要な間違った悪い奴は、伊織でなくてはならない。
そも、一年前にボーダーに入った伊織にとって、近界民がこちらへ攻め込んでくるという状況も、仲間が死ぬかもしれないという事態も初めてのことだ。自分から手放すことはあっても、自分の手から零れ落ちることは両親のとき以来経験していない。迅の一言が引き金だったとはいえ、伊織の心がここまで揺れるのも当然の出来事だったのかもしれない。
「……あの」
思考に沈んでいたところ、修からの声で静まり返った警戒区域内へ意識が戻る。
「琴吹先輩って、少し前まで玉狛に居たんですよね?」
誰から聞いたのかはわからないが、今さらすぎる問いかけと、事情を知ってなお本人に直球で聞くという馬鹿正直さに伊織はため息をついた。
何だか、修という人間が少しずつわかってきたような気がする。
「どうして玉狛を抜けたんですか?」
「知ったところでキミに何かあるわけとちゃうやろ」
どうして。なぜ。そう聞かれたとき、伊織は決まって煙に巻く。
けれど、今回の伊織のそれは、明確な拒絶だった。
「それは…そうなんですが……」
修は冷や汗こそかいているものの、伊織に食い下がる。
伊織が言うまで引くつもりはないらしい。冷や汗をかいた表情とは真逆な態度の修に、伊織は再び大きくため息をついて、ついぞ口を開いた。
「…楽しかったから、だよ」