記憶というのは曖昧なようでいて、それは人間にとっては必要な塩梅だったりする。
昨日の情報番組の食レポを子細覚えていたところで何の意味もない。忘れてしまった方がいいこともある。忘れていくからこそ、本当に必要なものを取捨選択することが可能だ。
人は強い痛みやショックを受けても、一種の防衛本能からかすっぽりと記憶から抜け落とすことがあるという。けれど、伊織はそうではなかった。
完全記憶能力。
伊織の持つ特異性である。便宜上、伊織はそれをサイドエフェクトと呼んでいるが、ボーダーでそれを知るのは彼の従姉妹である加古望だけだから、果たしてそれが本当にサイドエフェクト──トリオンの影響なのかはわからない。どうやら広い世間では伊織と同じ特異性を持つ人間が居るようだから、単純に産まれ持った個性だという線も否定できないからだ。
一ヶ月前の天気予報から先週着ていた服、果ては今日学校の教師が瞬きした回数まで伊織は記憶している。昨日の食レポを一字一句文字に起こすなんて朝飯前だ。
しかしそれ故に、伊織は忘れるということを知らない。それが忘れるべきものかどうかもわからない。何かの折に、昔の苦い記憶がフラッシュバックするという経験は、誰しも一度はあるだろう。もちろん、伊織も例外ではない。例外なのは、全て覚えているが故にフラッシュバックが止めどないことと、忘れないが故に最終的に行き着く先がいつも同じということだ。
何かに取り組む際、「今までの積み重ね」と人は言う。しかし、完全記憶能力を持つ伊織にとって、その積み重ねた量はあまりに膨大だ。
これは伊織がまだ積み重ねて間もない頃、そして積み違えてしまった頃の話である。
伊織は三門市内の小さな家庭で生まれた。
両親が共働きでようやくの暮らしをしていたことを除けば、何の変哲もない、いたって普通の家庭だった。
いつ変わったのかは当然はっきりと覚えている。伊織が言葉を発するようになってから、一ヶ月が経った時のことだ。まだ保育園にも通わない年だというのに、妙に物覚えがいい。危ないから近づくなと言われた台所には決して近づかず、年に一度しか会わない親戚をしっかり認識し、テレビのリモコン操作も両親を見て勝手に覚えた。
それを毎日間近で目の当たりにして、伊織の両親は彼が天才であることを確信した。その日から、伊織の教育方針を巡って対立が見られるようになった。
家計は依然苦しい。けれども、それはどうにか都合をつけて、息子の能力を更に伸ばせる環境を作るべきだ。私立の幼稚園へ通わせようと言う母親。
私立校へ通わせることはなんとかすれば出来るかもしれないが、それでは伊織の欲しいものを与えてあげる余裕はなくなってしまう。そして、物覚えはよくとも判断力はまだ年相応な息子に、早くからレールを敷いてしまっていいのだろうか。せめて中学校までは、家の身の丈に合った学校へ通わせるべきだと主張する父親。
入園というタイムリミットが迫るにつれて、言い争いの頻度は高くなっていった。物心がついて間もない赤ん坊にとって、両親が喧嘩をする光景はとてつもない不安と恐怖を与えただろう。けれど、伊織の脳は忘れるという防衛本能を発揮しなかった。十七歳となった今でも、それは彼にとって積み重ねた記憶の一つである。
度重なる言い争いに疲弊して、結局両親は離婚した。話し合いの結果伊織の面倒は父親が見ることになったが、共働きでようやくの生活をしていた琴吹家がどうなったのかは想像に難くない。そして、段々と増えていく労働と家事の二足の草鞋を履くには、些か伊織の父は優しすぎた。どれだけストレスが溜まっていようとも、父は決して息子にはあたらない。別の場所で発散しようにも、平日は早朝から深夜まで働き、休日は伊織の世話で一日が終わる。徐々に限界は近づいていき、伊織が小学校に入る頃、とうとう父は壊れてしまった。
「父さんも母さんも、誰も間違ったことはしてなかったのに…。何で、こうなっちゃったんだろうな…」
実家で最後に聞いた父親の言葉である。
離婚する前と比べて格段に増えた皺からは疲弊の様子が見てとれるのに、かたかたと歯を震わせても笑顔は決して崩さない。その表情が、伊織の記憶の中核を占めている。
父はその後、体調を崩して入院し、最終的には精神病院へ送られた。
入院費のために賃貸契約は解除され、小学生の伊織は市内に住む従姉妹の家に預けられることとなった。
父と母、どちらも伊織のためを思っていたことは彼自身がよく理解していた。父親と居る時間の方が結果的には長かったが、母親が伊織にしてくれたこともちゃんと覚えている。幼稚園のことだってどちらの意見も正しくて、どちらかに決められても不満を言うことはなかっただろう。
けれど、どちらも正しくとも衝突は防げないと、六歳にして伊織は悟った。
しかし、世の中がそういうものだと割り切るには、絶対に忘れることのない、あの時の父親の顔が邪魔をする。いい人が悲しい顔をするのはもう見たくない。
争いは防げない。でも、みんなの悲しい顔は見たくない。
その矛盾を下敷きに、伊織は日々を積み重ねていく。
ある時は学校の授業参観。そしてまたある時は道端を仲睦まじく歩く親子。伊織の日常には、父親の顔を思い出す引き金で溢れていた。そして思い出してしまったという経験も積み重なり、またそれが新たな引き金となる。
伊織の限界もまた、一歩ずつ、確実に近づいていた。
しかし転機は、突如として訪れる。
従姉妹が忘れていった教科書を届けに、彼女のクラスへ向かった時のことだ。
教室のロッカーの上にある、透明な水槽。そこに二匹、金魚がいた。一方は赤く、もう一方は黒い。どちらもやや痩せているようだったが、綺麗な水槽から判断するに手入れを怠った様子は感じられない。
伊織のクラスでもカメが一匹飼われていたから、それ自体は何ら珍しいことではない。
ただ、赤い方の金魚の背びれが、ぼろぼろに破けていた。
従姉妹にそれを尋ねると、飼育係が餌やりをしばらく忘れていたから、共食いをしてしまったらしい、と返ってきた。
人工的に整備された透明な水槽の中には、生きるか死ぬかという、剥き出しの野生がそこにはあった。その矛盾にも似た違和感が、伊織を捉えて、離さない。
餌が無いから仲間同士で食い合う。なら、餌を絶やさなければいい。
なんと単純な答えだったのだろう。
正しい人間しか居なかったから駄目だったのだ。彼らが互いに食い合わないための餌──間違った悪い人間が、そこに居ればいい。
今にして思えば、伊織の限界はとうに訪れていたのかもしれない。
無理もない話だ。幼少期の両親の喧嘩、父親が精神を壊してしまった瞬間。それらを鮮明に覚えているだけでなく、嫌でも勝手に思い出してしまう。精神は年相応だった伊織に、耐えろと言うのも酷だろう。
口調は胡散臭い関西弁に、そして性格は他人が嫌なことを率先してやるように。
矛盾した願いに出した結論は、矛盾した答えだった。
☆
「琴吹」
いつも通り伊織がランク戦ブースで一人モニターを眺めていると、正面から女性が近づいてきた。
声も態度も、怒りを隠そうとしていない。
「あれ、今度は友子ちゃんが来てくれはるの」
嬉しいわあ、と諸手を挙げて伊織は喜んだ。
昨日の出来事も、そして目の前の熊谷の表情もまるで目に入っていないようで、ますます彼女の眉間が険しくなる。
「あんた、玲に何したのよ」
気がつくと熊谷は、伊織の胸ぐらを掴んでいた。
シャツの裾を強引に持ち上げられ、伊織の体がよろける。手を払わずにそのまま、熊谷を見下ろすかのように伊織は視線を下ろした。
「人聞き悪いこと言わへんでや。困ってたから席譲ってあげただけやないの」
どうやら熊谷は、昨日の出来事を事細かには把握していないようだ。どんな様子で玲が作戦室へ戻ったのかは想像のしようがないが、友人の傷を抉るようなことはしたくなかったのだろう、と伊織は思った。
「人の困った顔見るのが趣味のあんたが?」
「困った人居ったら助けるんが人情やで?」
「どの口が…!」
シャツを握る力が強くなった。もしも彼女がトリオン体であったなら、生身の伊織を孤月で躊躇なく突き刺してしまいそうなほど、目には怒りがこもっている。
「あはは!冗談やて、本気にせんでや!」
視線を熊谷へ下ろしたまま、伊織はけらけらと笑った。
「ちゃんと忠告もしたで?ボクにあんまり近づかん方がええって。そやけど玲ちゃん関係ない言うから、楽しなって少し遊んでもうたわ」
「あんたね…!!」
熊谷の感情は頂点に達した。
それを煽るような涼しい伊織の表情を見て、思わずシャツを上に持ち上げる。放っておいたら延々と喋り続けそうな伊織の口が、シャツを持ち上げられた勢いで閉じられた。
伊織は一度目を閉じてから、再び熊谷を見下ろす。
変わらない伊織の表情に、喉元へ熊谷の指が伸びかけたが、ざわつきはじめた周りの声にはっと我にかえった。
「次、玲に何かしたら許さないから」
けほっ、と伊織が一度咳をする。
もう一度そのへらへらとした面を見てしまったら抑えが効かなそうだ。熊谷は、一度伊織に背を向ける。
いくらなんでもやり過ぎた、と少しだけ反省した時だった。
「どうやろなあ…。未来は無限に広がってるんやない?」
握った右手を、伊織目掛けて思い切り振りかぶっていた。
まさに伊織の頬を吹き飛ばそうとする寸でのところで、右手は止まる。理性が遅れて、何とか働いた。
「二度目はないわよ」
友人の事を傷つけられて、ここまで怒れる人はそう居ない。
それは災難だった、で慰めるのが関の山だろう。
恐らく熊谷も玲にはそう声をかけたはずだ。しかしそれだけでなく、玲には内密で伊織に詰め寄り、二度とするなと迫る行動力を他人のために行使できるのは、誇れることだと伊織は思う。彼女は間違いなくいい人だ。
もしもまた玲に何かあったら、熊谷は真っ先に伊織を疑うだろう。
それでいい。
入ってから一年ほどが経つが、ボーダーには驚くほど悪い人が居ないのだ。例え何かあっても、それは一時のすれ違いに過ぎないはずだ。不要な軋轢は、自分とのだけでいい。
どこかへ歩いていく彼女の背を見て、伊織は小さく息をついた。
「…ボク、間違った悪い人間やから」
そうして漏れる一言を拾う人間は、周囲に誰も居ない。