(新型が来ない……!琴吹先輩たちのおかげだ……!)
警戒区域外。伊織から離れた修たちは、特にこれといった敵と遭遇することなく逃げることに成功していた。伊織や、遅れて合流したレイジたち玉狛第一のメンバーの賜物だろう。出現した新型や人型といった強敵を彼らが足止めしているおかげで、とうとう視界には基地への入り口が見えてきた。
『嫌な予感がする』
「レプリカ?」
だが、そんな目的地を目の前にしたというのにレプリカは浮かない声だ。
修が思わず聞き返したところ、彼は続ける。
『敵の狙いはC級のはずだ。基地が目の前のところを、敵が手をこまねいているのは少しおかしい』
「琴吹先輩たちが敵を足止めしてくれているからじゃないのか……?」
『向こうは門を自由に開けるというのに、なぜここへ直接新型を送り込んでこない?』
レプリカの懸念はもっともだ。人型まで送り込むほど本気のアフトクラトルなら、この状況に焦りを見せて何かを仕掛けてくるはず。門を開くラッドは以前徹底的に駆除したとはいえ、攻撃を開始したタイミングで他のトリオン兵に隠して各地に散らばせることは出来ただろう。その気になれば、ランバネインを回収したときのように強引に転送することも可能だ。だというのにこの静けさは、奇妙にすら思えた。
『もしかすると、足止めされているのは相手ではなく……』
言葉を言い切るより先に、修たちの周囲に黒い稲妻が現れる。
基地を目前に、一息ついたタイミング。まるでそれを見計らっていたかのように彼は現れた。
「これより任務を開始します」
頭には二本の白い角。アフトクラトルの人型近界民だ。
そして、彼に引き連れられるかのように数体のラービットも姿を現す。
「ひ、人型……!?」
『なんだと……!?』
修のそれは単に敵が現れたという戸惑いと焦り。レプリカは人型をC級に当てたという敵の策に対する驚愕。二人の思考が一瞬止まったのを尻目に、人型は攻撃を開始する。
「
黒い鉄のような物体が人型を取り囲む。左手には動物の手を思わせるように硬く鋭い塊が。得体の知れないトリガーだが、危険だということは十分に伝わってくる。
「み、みんな逃げろ!」
修の号令と共に、C級たちは一目散に基地の方へと走り出した。
させまい、と人型のトリガーが襲う。それらはC級たちに当たりはしたが、破壊力はそれほどなさそうだ。このまま逃げ切れるのでは、と淡い期待を修たちは抱いたが、しかし。
「なっ!?」
次の瞬間、C級隊員たちの動きが止まった。目の前の基地へは向かうことは出来ず、何かの引力に吸い寄せられるように身体が宙へ浮いて、ラービットたちの目の前まで引き戻されてしまった。
「夏目さん!千佳!早く基地の中へ!」
恐らくは相手のトリガーの能力。破壊力は無さそうだが、一発でも喰らえばあの力で逃げることが出来なくなってしまう。敵の攻撃を受ける前に基地へ入らなくては。
「修くん……!」
「ほら、チカ子!早く!」
他のC級たちも同じことを考えたのだろう。先ほどよりも多くの隊員たちが一目散に基地へと走り出した。
これだけの人数、いくらかはそのまま逃げられるはず。抵抗策を持たない訓練生たちは、その一抹の望みを胸に足を動かす。
「所詮は玄界か」
だが、対する人型はそれを読んでいたかのように余裕そうな顔だ。
『なに……?』
「巣は目の前。中に入れば安全だ。お前たちはそう思っていたのだろう」
「何を……」
人型の腕を、鉄のようなトリガーがバレルを形成して取り囲む。レールガンのように勢いよく発射されるトリガーは、一心不乱に走るC級たちを尻目に、彼らの目的地である基地への入り口へ着弾していった。
やっとの思いで入り口へ辿り着いた一人の訓練生が、扉を開けるパネルへと手をかざす、が。
「お、おい!扉が開かないぞ!」
『しまった……!』
仕組みはわからない。どうやら敵のトリガーは何かしらの引力を操るようだから、それを利用して物理的に扉が開かないようにしたのかもしれない。だが、それに思考を割けるほどの余裕は、この場にいる隊員は誰一人として持ち合わせてはいなかった。
「心の拠り所を失えば、誰しも混乱する。まして雛鳥ならなおさらだ」
あまりに予想の埒外の出来事だったのか、C級隊員はみな、立ち尽くす。そうして足が止まったところへ、ラービットが無慈悲に向かっていった。
「だ、誰か助けて……!」
目前の退路は絶たれ、抵抗する手立てもない。そこに広がるのはただの蹂躙だ。誰かが零した助けを求める声に応える者はなく、ただ静かにキューブへ変わっていった。
(くそ、どうすればいい!?このままじゃ全滅だ……!)
唯一、修だけは解決策を必死に模索するが。明確な一手が見出せない。もはや詰みなのでは、とすら片隅で思ってしまった。
「扉をぼくのトリガーで壊せば……」
『焦るな、オサム。それはするべきではない』
呟いたその言葉はレプリカが否定する。確かに扉を壊せば基地には入れる。だが、それでは戦場が基地内部に変わるだけで、むしろ基地内の非戦闘員すら巻き込んでしまう危険性があった。
「ならどうしたら……!」
むきになって、少しだけ強い調子でレプリカに言い返す。だが、それを真正面から受け止めたレプリカは冷静だった。
『増援の到着だ』
その言葉と共に、一人の隊員が現れる。
ともすれば、修の中で迅よりも信頼しているかもしれない人物。玉狛に入ってから、戦闘とは何たるかを手取り足取り教わった師匠の姿が、そこにはあった。
「何とか間に合……ってはなさそうだな」
「烏丸先輩!」
京介は辺りを見渡すが、表情は険しい。強力な援軍の到着とはいえ、厳しい状況なのは変わらずだ。
「迅さんたちもこっちに向かってる。それまでの間、俺が敵を受け持つ」
「そ、そんな……。これだけの数を一人で……!?」
「迅さんたちが来るまで時間を稼げばいい。やれることはある」
弧月を強く握り、京介は手始めに近くのラービットへ向かって地面を蹴った。
(欲を言えば、もう一人腕の立つやつが欲しい……が。
ないものをねだっても仕方ない。レイジや小南、そして伊織に任されて京介はここに居る。弟子の前で無様な姿を見せるわけにもいかない。
京介の役目は被害を抑えて、迅たちが到着するまで時間を稼ぐこと。彼の全力を出すには絶好の状況だ。
「ガイスト、起動」
☆
『迅さん。聞こえてはります?』
警戒区域内、南西。エネドラを倒し、修の下へと急ぐ迅の耳に、伊織からの通信があった。聞こえてるよ、と返事をするが、表情は険しい。
(よりによってこのタイミングか……)
出来うる限り迅速に人型近界民を倒し、狙われたC級の救援に急ぐ。結果だけ見れば理想の運びだ。
問題なのはその後のことだった。一つ目。相手の人型近界民、エネドラはあろうことかアフトクラトルの同胞の手によって殺された。ワープのトリガーを持つ女が現れたところまではいい。望の戦場のように回収に来たものだと迅を除く全員が──恐らくエネドラも──思っていたところ、次の瞬間にあったのは、生身を刃で何度も突き刺されたエネドラの姿だ。流石に遊真は慣れた様子だったが、玲にとっては初めて見る『戦争』での出来事に酷く狼狽しているようで、こうして迅と共に走る今も顔が青白い。
二つ目。修の戦場に人型近界民が出現した。これは迅にとっても予測外の出来事だ。遊真には事前に『修が死ぬかもしれない』という最悪の未来を伝えてある。現実味を帯び始めたその最悪の未来を前に、遊真の年齢よりも幼い顔立ちは鳴りをひそめ、意識が段々と狭まっているように感じる。
エネドラの遺体処理は影浦隊に任せ、遊真と玲を引き連れて修の所へ向かう迅にとって、この二人のフォローが何よりも優先すべき事項であったというのに、このタイミングで伊織からの通信だ。表情が曇るのも無理はない。なぜなら、伊織が何を聞きたいのかは、この大規模侵攻が始まるよりも前に見えていた未来だったのだから。
『そろそろ大詰めってとこやろか?』
『どうだろうな。まだ敵の底は見えない』
『あ、そ。それで、ボクはどないしたらええの?』
伊織が誰かに指示を仰ぐのは珍しい。周囲に気を配り、その場で最適解を見出す能力に彼は長けているから、基本的に判断に困ることはないからだ。
迅にもそれはよくわかっている。だから、その言葉の真意にも気づいていた。
『目の前の相手に全力で戦ってくれれば十分かな』
けれど、迅は努めて間の抜けた声でとぼける。
『はあ。迅さんも性格悪いなあ。ボクに全部言わせる気かいな?』
『何のことかさっぱりだけど?』
『あんなガラクタ寄越しといて釣れへんなあ。どうやったってあの爺さんには勝てへんのやから、あれで道化でも演じろいうことやろ?』
伊織の声に変わりはない。いや。正確に言うのであれば、元に戻った。
間の抜けたイントネーションに薄っぺらさを貼り付けたような軽薄な声は、迅の言葉で不安定に揺れていたさっきまでの伊織ではなく、ボーダーで嫌われ者と忌避される琴吹伊織のそれだ。
『ボクの中で大規模侵攻はもう終わってんね。
それは、伊織がヴィザに敗北して緊急脱出することが、すでに彼の中で確信としてあるということだ。ではなぜ、彼はこうして迅に通信を送って指示を乞うているのだろう。それは、彼自身と迅にしか知り得ない。
『そやから、言うてんのはもっと先の話や。……もう一度言うで。ボク、どないしたらええの?』
息を吸い込む。迅はこれから、未来が確定した嫌われ者にとどめを刺そうとしている。そうするしかなかったとはいえ、彼から全てを奪うような未来を。
『……中学校で開いたイレギュラー門』
『はい?』
『あの事件、遊真が一人で解決したと思ってるだろ?メガネくんだってちゃんと戦ったんだぞ?』
『…………』
遊真の黒トリガーを巡っての一件で、伊織を利用しようとした城戸や唐沢に迅は珍しく怒りを露わにした。だが、今にして思えばそれは自分本位な馬鹿馬鹿しい理由だった。あれはただの同族嫌悪。口では伊織のことを思っているような素振りでも、迅だって未来のために伊織を利用している。あの怒りは、やり場のない迅が自分へ向けた怒りでもあった。
こうして決意を固める伊織をそう誘導し、場を整え、決断させたのは、紛れもなく迅だ。
(遊真だけじゃなくて、修も戦った……?)
ヴィザと戦闘を繰り広げる傍ら、伊織は思考する。
(あのモールモッドはきれいに真っ二つにされて、他に傷はなかったはず)
イレギュラー門事件のことはほとんど調べきった。中学校を襲ったトリオン兵は、修のトリガーを借りた遊真の鮮やかな一太刀で両断されて沈黙した。それは伊織の記憶からいって確実だ。
(いや。……修も戦ったけど、傷一つ付けられなかったってことか?)
修とランク戦を行った場面を思い出す。近界帰りの遊真には釣り合わないほど彼は凡庸だった。B級に上がりたての、箸にも棒にもかからないような実力。あの時彼はC級だったのだから、手も足も出なかったとしても特に疑問はない。そしてそれは、
(そうだとして、この侵攻と何の関係がある?そもそもなんで修の名前が出てきた?)
整理しよう。迅の言う通り、中学校でのイレギュラー門事件では遊真だけでなく修も抵抗した。思うに、恐らく最初は修が立ち向かったのだろう。けれども傷一つ付けられずに返り討ちにされ、今度は修のトリガーを使って遊真が戦った。迅の言葉から推測できるのはそれくらいだ。
だが、伊織が聞きたかった『これから自分は何をするべきなのか』という問いに対する答えとは程遠い。迅の口ぶりからして、あれが伊織をはぐらかすための冗談だったとは考えにくく、間違いなく答えに至るまでの重要なピースのはずだ。
もう一層、深く思考の海に沈もうとしたところで。強烈な殺気が表層まで伊織を引っ張り上げる。
(クソ、思考に集中できない……)
ヴィザの刃が伊織の喉元をわずかに掠めていった。
向こうも向こうでこちらの足止めが目的だからか、激しい攻めは見せてこない。だが、これ以上の熟考と戦闘の両立は難しかった。あと少しで道筋を見出せそうなもどかしさと、抽象的な言葉だけを残していった迅への恨めしさを感じていたところ、徐にヴィザが口を開く。
「どうやら、私の仲間が雛鳥たちを追いつめているようだ」
「……だから何なの?」
小南がヴィザを睨みつける。
京介が助けに向かったとはいえ、恐らくは間に合わないだろう。修や千佳は無事のようだが、C級の何人かは犠牲になってしまったはずだ。
「私どもの目的は当然理解しているのでしょう?であれば、貴方がたが置かれた状況も自然と見えてくるはずだ」
「だからもっと攻めてこいって?見え見えの挑発ね」
こういう時、小南のような素直な人間は便利だ。敵とのどうでもいい会話は彼女に任せて、攻め手の止んだこの時間に再び伊織は意識を沈ませる。
やはり、敵の狙いはC級。そしてヴィザの役割は、彼らと伊織たちを引き剥がすための足止め。伊織はそうさせない為にラービットに苦戦する素振りを見せていたが、ここへ真っ先に合流するのが玉狛だろうというもっともな予想は伊織の意識からすっかり抜け落ちていた。誰かから『メガネくんが危ない』だの『正義の味方にならないか』だのと言われて、思考の視野が著しく狭まっていた。結果、伊織は修たちから引き剥がされ、そこへ敵を送り込まれるという最悪の状況が出来上がっている。
と、今一度状況を整理したところで。伊織は一つの見落としに気がつく。
(雛鳥……。C級のことか)
それは前提条件であり、ヴィザの言う通り両者にとって周知の事実であったから、見過ごしていた。彼らの言う雛鳥とはこちらの言うC級隊員のこと。そう。繰り返すが、敵の狙いはC級だ。
なぜなら、訓練生であるC級に緊急脱出は使えないから。
(待てよ。いくら向こうが調べたからって、どこでそれを知ったんだ?)
C級隊員は基地以外でトリガーを使用することを禁じられている。理由は緊急脱出が使えないからだ。つまり、C級隊員がトリオン兵と戦うことはない。そこに、今の状況の矛盾があった。
恐らくトリオン兵を送り込んで調査をしたであろうアフトクラトルが、それを知る術はないのだ。まさかトリオン兵が基地まで侵入するはずがなく、考えられるのは内通者が居るか、
(……まさか)
迅の落とした一滴の水が、伊織の意識の水面を波打つ。波紋のようにざわざわと、伊織の中のピースが揺れて一つの結論を描いていった。
(修を守ってやってくれ、か……)
一度、目を瞑る。
『もう一戦、お願いします』
『ちゃんとボーダーで、ちゃんと玉狛の隊員やった』
暗くなった視界に浮かぶのは、修のこと。そして、もう一つ。
『仲間を大切に思わないわけないじゃない』
共に戦う、かつての相棒のこと。
決断を済ませて、伊織は目を開いた。
これから自分は何をするべきか、その最適解は……。
☆
「いお……り。いおり。……伊織。こ、これで平気なはず……」
時間は遡り、本部主催のタッグトーナメントが明けた翌日のこと。玉狛支部の入り口の前で、小南はぶつぶつと呟きながら行ったり来たりを繰り返していた。
『ねえ、いつになったら伊織くんのこと名前で呼んであげるの?』
『伊織先輩、けっこう気にしてましたよ』
頭の中に、いつだったかに宇佐美と京介から言われた言葉が蘇る。
「そうよね……。玉狛来てしばらく経つのに、かわいそうよね……」
昨日の決勝戦の前、伊織の様子が急変した。今まで見たこともないくらい低い声で、感じたことのないような剣幕で小南を一蹴した伊織のことが心配であった。自分が何か悪いことでもしたのではないだろうかと考えを巡らせる中、行き当たったのが宇佐美と京介の言葉である。京介のそれは単純に面白がって適当に言われた嘘なのだが、別段疑いようもなく小南は信じていた。
彼が来てから一ヶ月半。小南は、伊織をまだ一度も名前で呼んだことがない。『あんた』ならまだ良い方で、『ねえ』だとか『ちょっと』とかで呼びつけることもザラだ。普通に考えれば、それを快く思う人間は居ない。溜まりに溜まった鬱憤が、あの時に爆発した。そう考えれば、小南なりに納得はできた。
「いや、でも……」
ぐるぐると玄関前を回っていた足が止まる。
だが、小南も悪気があってそうしていた訳ではないのだ。伊織との一件で『桐絵ちゃん』と呼ぶなと言った手前、こっちが彼のことをファーストネームで呼ぶのは気が引ける。かと言って今更『琴吹』では余所余所しすぎる。そんなわけで、小南はいつも中途半端な呼びかけで伊織と話していた。
「あーもう!なんでこんなことでいちいち悩まなきゃいけないのよ!」
あまり思い悩むのも柄じゃない。そう言い訳つけて、沸騰しそうな脳を冷ますかのように玄関の扉を開く。騒がしくどたどたと足音を立てて、足早にリビングへと向かった。
「ねえ!いお……あいついる!?」
「……小南」
またもや言い淀んだが、リビングに伊織は居なかった。迅が一人でぽつりと立って、やけに真面目な顔をしている。
「あいつは?」
「……伊織は居ない」
「え、そうなの?珍しいわね……。買い出し?」
「いや。もう、こっちには戻ってこない」
望に強引に家を追い出されて、伊織は玉狛に住み込みとなっている。いくら騙されやすい小南といえども、流石に嘘だとわかるし、迅にしては珍しく笑えない冗談だ。
「やめなさいよ、そんな変な冗談────」
言いかけて、迅の顔を見る。彼の表情は、とてもではないが嘘なんてついているようなふざけたものではなかった。
「何があったの」
「ねえ!居るんでしょ!?またとりまると変なこと企んでるだけだって……」
ぎしり、と床を軋ませながら小南は伊織の部屋へと駆け足で向かう。先ほどとは違い、焦りが滲み出ていた。
「う、そ……」
目的地へ着いて、ドアを見る。琴吹、と書かれていた名札は綺麗さっぱり取り外され、まるでそこには初めから誰も居なかったかのような静けさがドアの奥からすきま風のように漏れていた。
「嫌。嫌よ、そんなの……。冗談だって、むかつく笑顔で、またそう言ってよ……」
恐る恐る、ドアを開ける。考えたくない最悪の出来事がどうしようもないくらい確実に存在しているような気がして、ノックをすることすら忘れていた。
「だって、まだ一度もあんたの名前を────」
その続きは小南の頭の中で消えて、発されることはなかった。
しんとした部屋。無機質なくらい何もない荷物。その静寂が、迅の言葉は嘘ではなかったという事実を何より物語っていた。
あはは!と、後ろから馴染んだ笑い声が聞こえてこないかと現実逃避を頭の片隅でしながら、一歩、また一歩と奥へ。
現実を受け入れられずにふわふわとした頭が、進むごとに固まっていく。次に支配したのは困惑。そして、だんだんと怒りが。
なぜ。どうして。あの時の自分の言葉は。
小南の視線はある一点で固定されていた。
「なに、これ……」
部屋の角に、机があった。元からこれといった私物はなく、勉強をしている素振りすら見られなかった机だったが、周囲が空っぽだとそれに引きずられて寂しく写る。そして、その隣には小さなゴミ箱が一つ、置いてあった。
なんて事ない、木製のゴミ箱だ。消しくずやティッシュといった、ちょっとしたゴミを入れるための小さなゴミ箱。どの部屋にも置いてあるようなそれに、小南の視線は固められている。
「…………」
中にあるべき紙くずだとかはこれっぽちもない。伊織がここを出るときに処分したのだろう。代わりにあったのは、ゴミ箱にあるべきではないものだった。
玉狛の一員であることの証。嫌なことも楽しいことも、全てを経て今があると小南が言って渡した、ずしりと重みがある黒い直方体。
小南に勝負で勝った、その報酬であったはずの、伊織の玉狛トリガーが。部屋の角の、取るに足らないゴミを捨てるための箱の中に、捨ててあった。
「……そう。炒飯を作ってくれたのも、一緒に戦ったのも、タッグトーナメントで優勝したのも。
何かが小南の中で崩れ落ちて、消えていく音がする。
小南の中にも大切な思い出としてあった伊織との記憶が、バラバラに砕けて粉々に踏みにじられたような気がした。
「お前のこと、名前で呼ばなくてよかった」
ついぞ小南は彼を名前で呼ぶことはなく、現在に至る。
そんな、ただ事ではない小南の様子を見てか、迅や林藤を除く玉狛のメンバーは伊織を気づかうことこそすれ、呼び戻そうとはしなかった。
『なあ、桐絵ちゃん』
戻って、警戒区域外、南西。
『小南』と直させた呼び名は彼が玉狛を辞めたとともに『桐絵ちゃん』へと戻っている。やはり、伊織にとって玉狛にいた時のことはただの冗談だったのだろう。
『話しかけないで』
『そう邪険にせんといてや。実はな、メガネくんが危ないって、ボク事前に知っとったんね』
『あっそ。どうでもいい』
返事をするのも嫌だという調子で、小南は答えた。
こんなのを一時でも相棒だと思っていたなんて、今でも信じられない。
『そやから、今のところボクと桐絵ちゃんの目的は一致してるいうわけや』
『その言葉を信じると思う?』
修を助けるために伊織は行動している。その言葉はそういう意味なのだろう。だが、それを鵜呑みにするほど小南も馬鹿ではない。玉狛を踏みにじった人間が、玉狛の人間を助けるだなんて質の悪い冗談だ。
と、ここで。
伊織の通信が止まった。これといって嫌味を吐き捨てるわけでもなく、まさか雑談に興じるつもりだったわけでもないだろう。家を出るころには忘れてしまうような、朝の挨拶程度の会話で、伊織は黙りこくってしまった。
ヴィザと刃を交わす小南には、後ろから弾を放つ伊織の表情は見えない。けれど、冗談だったとしても共に時間を過ごしてきた小南には、彼が何か伝えることを躊躇っているかのような、そんな印象を受けた。
『ボクの両親は、小さい頃に離婚した。それもボクのせいで。母親とはそれきり会うてへんし、父親は病んで今も入院してはる』
そして。決心をつけたであろう伊織から、通信が飛んでくる。
『急に何?』
どうでもいい、と。少し前と同じように切り捨てるつもりだった。だが、玉狛時代ですら自分のことは全くと言っていいほど語らなかった伊織が、しかも大規模侵攻という戦争中にそんなことを言うとは、素直に驚いた。
だから、まるで続きを促しているかのような返事をしてしまった。
『それからや。ボクが今みたいになってしもたんは』
間の抜けたイントネーションに薄っぺらさを張り付けたような声が、少しだけ震えている。こんな様子の伊織を見るのは、初めてだ。
──案外許せちゃったりすると思うよ
自分の中に生まれるはずのない感情とともに、宇佐美の言葉が思い起こされる。
なぜ。どうして。何より大切な玉狛を、最悪の踏みにじり方をして去っていった彼のことを、憎いとすら思ったのに。
どうして自分は、彼に同情してしまっているのだろう。
『失ってからじゃ遅い。遊真や千佳、
『その口調……』
どこで学んだのかわからない似非関西弁ではない。小南が初めて聞く、恐らく伊織の心の底からの言葉だ。
人間というものは、つくづく矛盾した生き物である。
大切なものを踏みにじられて憎しみを覚えたというのに、あの時粉々にされた思い出を、小南はゴミとして捨てることが出来ずにいた。
宇佐美は伊織が玉狛で過ごした日々を『本物』だと言ったが、そんなこと小南にだってわかっている。B級上がりたてだった伊織が小南と渡り合えるほどまで成長したときは自分のことのように嬉しかったし、言葉や振る舞いとは裏腹に他者を思う気持ちを確かに持ち合わせていることも段々と気がついていた。他愛のない会話をして、心地の良い言い合いもして。些細な日常だったかもしれないが、それを簡単に捨てられるほど小南も割り切ることはできなかった。
けれど、相棒だと思っていた人間に一番大切だと思っている場所を踏みにじられれば、いくら事情があったとしても許せないこともまた事実だ。
伊織のことは嫌いだ。顔も見たくない。
だけど、彼が玉狛に居たときは楽しかった。また、あんな日々を送れたら……とも思う。
結論は見出せない。折り合いの付け方もわからない。だから、この矛盾した感情を怒りや嫌悪といった強いもので覆って、見えないようにしている。
だが。初めて見る伊織の弱さに。初めて聞く伊織の本心に。小南の心は少しずつ、奥底へこじ開けられていた。
端的に言って。小南は伊織と、向き合おうと思い始めていた。
『……あんたの気持ちはわかった。で、結局何が言いたいわけ?』
『ここはボクに任せて、桐絵ちゃんはメガネくん助けてやってくれへんか?』
嫌われ者に正義の味方は似合わへんから。再び繕われたその口調が、小南には、ひどく寂しそうに写った。そして、そう感じたことに自分自身で驚く。
『……あの日のこと、まだあたしは許してない。あんた一人に任せられるほど信用できないわ』
「
通信を送ることも忘れて叫ぶ伊織に、小南は驚いた表情を見せる。
他者への気遣いは薄っぺらい声と嫌味たらしい態度で隠す伊織が、これほどまでに感情を露わにするとは。
迅からもっと重大な何かを伝えられたのだろうか。切羽詰まった声だけでは想像もつかない。ただ、修を助けたい気持ちは本当なのだと、小南は思った。
「……わかった。今回だけよ」
ヴィザをあしらって、小南は一歩下がる。中距離から弾を撃ち込んでいた伊織と並んだ。
「おおきに」
こちらへ顔を向けて、伊織はいつもの表情で笑った。
この場を小南が離れたとして、伊織に勝算はあるのだろうか。京介と小南を取り逃がしたのをまずいと思って、向こうが全力で伊織を倒しにきたりしないのだろうか。そんな頭の中が顔にまで出てしまったらしい。
伊織は「心配せんでええよ」と薄っぺらい声で言った。
「桐絵ちゃんはこっちのこと考える必要あらへん」
気の抜けた笑い声が小南から漏れる。今も昔も、伊織はこちらの予想なんて腹が立つ笑い声で軽々と超えてくるのだったか。
この考えは杞憂だと、振り払って小南は背を向けた。そして、「任せたわよ」と、一言残して。戦場から離れようとした。
その時、だった。
「だって、桐絵ちゃんはここで倒されるんやから」
その声ははっきりとは聞こえなかった。
何かを呟いたな、としか思わなかった。
そして、次の瞬間。来るはずのない攻撃が。受けるはずのない衝撃が、小南の腹部に強くやってくる。
「────え?」
視界の先には、一筋の弾丸。背後からやってきて、小南の腹を突き破って、目の前を通り過ぎていく。
「はは!あはははは!!!」
それと同時に、大きな笑い声が聞こえてきた。ヴィザはこんな射撃、撃ってこない。この時まで隠していたとも考えられるかもしれないが、何よりこの軌道は。この弾丸は。玉狛で何度も何度も対峙して、隣で何回も何回も援護してもらった、伊織のバイパーだ。
なぜ。なぜ。……なぜ。
呑み込み始めた状況に、小南の感情が追いつかない。
「その顔!!最っ高やなあ!!」
伊織の笑い声は止まらない。これまでの思い出も、つい先ほどまでの心境の変化も、全てを消し去ってしまうかのように。
あまりの突然の出来事への困惑を表に、小南は伊織を見つめる。
「親がどうとか、ぜ〜んぶ信じてしもたの?」
けらけらと薄っぺらい笑みを浮かべる伊織を目にして、ようやく小南は事態を理解した。……裏切られた。それも、二回も。過去と向き合って、もう一度信じてみようと一歩踏み出したところを、全くの躊躇なく。
そして。小南の心の奥深くに、大切にしまっていた思い出の破片が。伊織の笑い声と共に、曇り空へと消えて、なくなっていく。
「感謝するわ。あたしの中の無駄な感情を、これできっぱり捨てられる。……修に何かあったら、絶対に許さないから」
そう言い残して、小南は緊急脱出していった。
これで、小南と仲を戻すことは間違ってもありえないだろう。この様子を見た玉狛の人間は伊織を擁護できないだろう。迅も、二人の仲を取り持つなんて馬鹿げたことは止めるだろう。
玉狛との関わりは、これで終わりだ。
「……修は守るよ。俺にしかできないことだから」
繕わずに呟いた二度目の伊織の言葉を聞く者は、一人もいない。
「いやはや。こうなるとは全く予想していませんでした」
百戦錬磨の老兵も、目の前で起こった光景に少なからず困惑しているようだ。仲間割れなのか、投降の意思表示だったのか。こちらの意図を測りかねているようで、何も攻撃をしてこない。
「ボク的にはあんさんの驚いた顔見れて二度おいしいけどなあ」
「これでは曲芸とは言い難い。どうやら私の過大評価だったようだ」
敵意を向けた伊織を見て、ヴィザは心底落胆したかのように肩を落とした。こちらへ降るつもりではない。阿吽の呼吸を見せていた仲間を自らの手で倒して、あろうことか一人でこちらへ立ち向かうつもりらしい。艇から見ていて気になった伊織が見据えるもの。ヴィザの個人的な目的はそれを確かめるためでもあったが、ただ訳のわからない行動に出た伊織を見て、それへの興味はゼロに等しくなっていた。
「それは悲しいなあ。今からおもろいもん見せれるってのに」
張り付けたような、見る者を不快にさせるようなじっとりとした笑みを伊織は浮かべる。
「一人で勝てるとでも?」
「うーん、ズレてるなあ。ボクの役目はさっき終わってんね。だから、勝ちとか負けとかそんなんボクの知ったこっちゃない」
ヴィザの眉がぴくりと動く。
さっきから話が噛み合わない。仲間へ攻撃したと思えばヴィザの前に立ちはだかり、そのくせ勝ち負けなんてどうでもいいと言う。役目は終わったとすら言い放った。一体、この青年は何がしたいのだ。
「後は嫌われ者らしく、一人で道化でも演じるだけや」
伊織の両手にトリオンキューブが浮かぶ。
身に纏うは、あの時迅から預かった、かつて最強の名を勝ち取った引き金。小南を撃ち抜いた後にこれを使うなんて最高に皮肉で、嫌われ者には相応しい。
「フルアームズ、起動」