大規模侵攻で突如として現れたボーダー組織だが、四年が経つ現在ではそれなりに大きなものとなっていた。特に隊員に対するホスピタリティは、国内様々な大企業の社員に対するそれと比較しても遜色がないように思う。各部隊には専用の作戦室が与えられ、トリガーに関することならいつでも好きに試すことが出来る。定期的に食堂のメニューは一新され、隊員たちがくつろげるスペースも十分に確保がされていた。
A級部隊嵐山隊の隊員である木虎藍は、フリースペースで一人考え事をしていた。
広報部隊とはなんたるかを常に実践する彼女が、側から見れば一人ぼんやりと辺りを眺めている様子はらしくないように映るかもしれないが、それも無理はない。
日中に出会った三雲修とかいう中学生に、久しぶりにはっとさせられた。
C級にも関わらず規則を破ってトリガーを使ったとか、中学校を襲った近界民から学生を救ったヒーローとなったとか、現象に対する感情ではない。
彼は徹頭徹尾、誰かを救けることを考えていた。周りからちやほやされて承認欲求を満たしたい様子も、手柄を横取りしてそれをひけらかす素振りも全くない。白髪の少年が言っていたように、その辺の人間とは見ているものが違って、無意識のうちに彼を見直してしまった。
けれど、プライドの高い木虎にはそれを素直に認めることは彼に負けたような気がして、この感情を思った通りに呑み込むことが出来ずにいた。
ため息をひとつ、木虎はつく。
「藍ちゃん、何してはるの?」
ため息に合わせるかのように、後ろから声がかかった。
抑揚のついた特徴的な口調、一見無害そうな優しい声。木虎が今、一番会いたくない人間のそれだ。
「…っ! いきなり現れないでください」
びくりと、木虎は肩を一瞬震わせる。
振り返ると案の定、琴吹伊織の姿があった。
「そんなひどいこと言わへんで欲しいわあ。ボク、ずうっと藍ちゃんの後ろ居ったんやけど?」
けらけらと、本当なのか嘘なのかわからない表情で伊織は笑う。
仮にも年頃、ましてや異性。タイミングの悪さも相まって嫌悪感しか湧いてこない。
(なんでこんなのに双葉ちゃんは懐いてるのかしら…)
木虎は後輩の少女を慮った。
A級で唯一の女子の後輩であり、もともと年下には慕われたい願望が多いにあった木虎にとっては可愛がりたい存在だったが、何故か木虎は嫌われ、そして本当に信じられないことだが伊織は慕われている。
正直なところ、木虎が伊織を嫌いな理由の三割程度はこれが理由だったりする。
そんな木虎の脳内を知ってか知らずか、伊織は意地の悪そうに笑った。
「藍ちゃんも大変やったなあ。たしか、市内の中学校にイレギュラー門開いたんやっけ? その後の大型も藍ちゃん倒したんやろ?」
木虎の目が、少しだけ暗くなった。
嫌われ者の登場で、木虎を囲んでいた感情からある意味で気分転換になっていたというのに、その嫌われ者に再び引き戻されたからだ。
「どちらも後処理をしただけです。私は何も…」
恐らく木虎がここまでナーバスになっているのは、C級が出来る役目を果たしたというのに、A級の自分が何も出来なかったことに悔しさを感じているからだろう。ぽろりと本音が零れ落ちた。
「後処理?」
対する伊織は木虎の言葉にぴくりと眉を動かした。
聞いた話では、イレギュラー門は嵐山隊が処理したとあったはずだが、後処理という何とも引っかかる物言いだからである。
「ええ。ルールを破ってトリガーを使ったヒーロー気取りが一人、居ましたので」
やや低くなったトーンで伊織に聞き返され、木虎ははっとしていつもの調子で答えた。後処理──忍田にイレギュラー門事件の解決は三雲の功績が大きかったと報告したが、彼がヒーロー気取りだなんて、微塵にもそんなつもりはないのは木虎にもわかっていたことだった。けれど、心にかかった靄をやり過ごすには、こんな言い方しか出来なかった。
「へえ…。なんや、おもろそうなことやってるやないの」
木虎にしてみれば、機嫌が悪そうに言う様子から察してスルーしてほしいと思うところだが、そうなると余計にその貼り付いた笑顔を意地悪くさせるのが伊織である。
「あなたには関係ないでしょう?」
「そやなあ。ほんなら、関係あるのは…上層部とか?」
「さあ?」
誰が相手であろうとこんな人間、自分がきっかけで関わらせることになっては夢見が悪い。木虎は伊織の追及にとぼけた。
しかし伊織は、けらけらと笑う。
「藍ちゃんは嘘が下手やなあ」
ぞくり、と木虎の背筋を冷たい感覚が襲った。
「ルール破っといて上と関係あらへんわけないやろ。それでもとぼけるいうことは、ボクに何か隠したいことがあるのか、隠すように言われたか」
「……」
「あはは! 誤魔化すのはもっと下手やなあ!」
けらけらと笑ったまま、藍ちゃんは悪ないで?と伊織は続ける。
確かに、木虎は一つも失言はしていない。けれど、意地の悪そうにそう言われては、言外の意味が嫌でも読み取れて、思わず顔を歪めてしまう。
「だって藍ちゃん、
琴吹伊織。やはり木虎はこの男が、嫌いだ。
☆
顔を歪めて木虎はどこかへ行ってしまった。
ちょうど誰もいなくなったフリースペースの座席に腰かけて、伊織は徐に鞄からタブレット端末を取り出す。
「お疲れさまです、伊織先輩」
ボーダー専用のサーバーで隊員の情報を開こうとしたところで、伊織の正面から少女がひょこりと顔を出した。
A級部隊加古隊の隊員、黒江双葉だ。
伊織の従姉妹が隊長を務めているだけあって、ボーダー内で双葉との関わりは多い。最初の頃は木虎と同じように嫌われていたはずだったが、とある日を境に双葉は伊織に懐くようになっていた。
「ボクに何か用かいな?」
一瞬だけ目線を双葉へやったが、再びタブレットに戻す。
気安く話しかけるなと雰囲気で伊織は伝えたが、双葉はどこ吹く風だ。
「用事がないと先輩に話しかけちゃいけないんですか?」
「はあ。別にええけど…」
伊織は堪忍して、一度タブレットから手を離した。
顔を向けると、にこりと双葉は笑う。それがあまり良くない笑顔だということは、伊織には十分すぎるほどわかっていた。
「あの人と何か話してましたよね」
「あの人? 誰のことかわからへんなあ」
伊織も笑った。
双葉が名前を呼ばない──いや、呼びたくない隊員は、伊織の記憶では数人しか居ない。随分と性格の悪い受け答えだが、それが琴吹伊織だ。
「…木虎先輩です」
渋々といった表情で双葉は言う。
笑顔で詰め寄ったり、双葉は見た目から受ける印象にしては意外と表情が豊かだ。一応敬称を付ける辺りは偉大な従姉妹さまの教育の賜物ということにしておく。
先日の熊谷然り、誰かと話したからという理由で伊織を責める人間は多いが、双葉のそれはまた意味合いが違うように伊織は思える。けれど、それがどんな意味合いを持つのかは、あまり考えないようにしていた。
「ああ、藍ちゃん。他愛のない世間話やったで?」
「嫌われ者の先輩が?」
「ボクかて、友達の一人や二人居るけど」
「…友達………?」
怪訝そうな様子で双葉は呟いた。
自分でも笑ってしまいそうなくらい、陳腐な嘘だ。普段であればそんなこともないが、ある程度近しい間柄の双葉に対してそんな嘘を口走ってしまったことに、後から少し恥ずかしさがやってくる。
「いや冗談やて、本気にせんでや」
お決まりの台詞も、なんだかキレが無かった。
「……伊織先輩の、女友達…?」
しかしそんな伊織を置いて、双葉は自分の世界に入ってしまった。
段々と双葉の目からハイライトが失われていく。
「…もしもーし。双葉サーン?」
伊織が垂らした糸も虚しく、双葉は戻ってこない。
このまま放置して情報収集に戻ろうか、と伊織は思ったが、そんなことをすれば彼の『女友達』にどやされて、余計に双葉と彼女の関係が拗れるのは明らかだった。
「はあ。おもろそうなことしてはったから、ちょっかい出しただけやって」
「面白そう、ですか」
やっと伊織が白状すると、双葉は何事もなかったかのように戻った。
そういえば、双葉はそれを聞きにきたのだったか。
茶番を挟んでするりと引き出す術は、一体どこの誰から学んだのか。
「イレギュラー門から中学校を救った訓練生やと。えらいおもろそうやない?」
ちょうどいいタイミングだったから、伊織は再びタブレットのページをめくった。木虎の「ルールを破った」という言葉から判断するに、イレギュラー門を解決したのは訓練生で、収束の迅速さからその中学に通う学生のはずだ。しかも、その中学校に正隊員はまだ居ないだろう。居たら訓練生が出張ることはない。正隊員が通う学校は全て記憶している。それら以外の中学校に通う訓練生であれば、絞るのにそう時間はかからないはずだ。
「どうして伊織先輩はいつもそうなんですか?」
貼り付いた笑みで端末を操作する伊織を見て、双葉は思わずそう口にした。
どうして。いつも。そう。
恐らく一番近くで伊織の趣味を見てきた双葉にとっても、彼の行動は理解しがたいものだ。いや、一番近くで見てきたからこそ、余計に疑問に思ったのかもしれない。
「…双葉は、世の中に必要なもんって何やと思う?」
伊織から返ってきたのは、何とも抽象的な問いだった。
けれど、貼り付いた笑みはそこにはない。
双葉はあまり自信のない自らの頭を総動員して必死にその答えを探した。
「……お金とかですか?」
「わーお。えらい生々しいなあ」
予想外の答えに吹き出しそうになるのを抑えて、伊織は言う。
やけに真面目に考えた結果出てきたのがそれとは、本人に言ったら怒られそうだが微笑ましい。
「ボクはな、世界に一つ、必要なものがあると思うんね」
「世界に一つ…?」
相変わらず抽象的だが、伊織の言葉には重みがあった。けれど、重すぎるが故に、少しでも重心を誤ればすぐに崩れてしまいそう。そんな危うさを伴った不安定な重みである。
すうっと、一定の間隔でスクロールする伊織の手が、少しして止まった。
「まあ、教えへんけど」
三雲修。
伊織が指さした先に、その名前はあった。