「米屋先輩、調子どうですか?」
ある昼下がり、三輪隊の米屋と古寺は二人、建物の屋上で双眼鏡を覗いていた。アパートと呼ぶには少し規模が大きく、マンションと呼ぶには些か物寂しい。そんな中途半端な住宅が付近には並んでいる。
川のせせらぎが心地いい。
古寺からの質問に米屋は双眼鏡を外すと
「全然出てこねー」
ため息をついた。
もう少し気温も上がってくれば気持ちのいい行楽にもなったかもしれないが、あいにくの寒空だ。トリオン体にでもなれば解決するだろうが、許可はまだしも敵の根城近くでそんなことをする訳にはいかない。
二人の退屈な心を嘲笑うかのように、スズメの鳴き声が響いた。
「飛んでる鳥眺めてた方がよっぽど有意義だぜ」
米屋は鳴き声のした方へ、再び双眼鏡を向ける。もう二匹が合流して、建物の屋上の室外機へ羽を休めた。
見覚えのある室外機から、双眼鏡を下に下ろす。例の白い少年は今ごろ、小南のカレーでも食べているのだろうか。
米屋と古寺に課された任務はただ一つ。
玉狛に匿われた近界民の監視だ。
伊織が会議室を後にしてから、迅や三雲と上層部との間で話し合いが行われ、そこで彼の身柄は玉狛で預かることが決められた。しかし、近界民友好派の玉狛支部が城戸司令の思うように動くとは考えにくい。他の派閥との協議はせずに、彼らは強硬手段へ踏み切ることにした。
決行の作戦は遠征部隊が帰還してから詰めるとして、それまでの少年の動向を二人は把握しておく役割を与えられたというわけだ。
とはいえ、当然ながらその少年が不用意に外を出歩くことはない。
退屈なバイトだ、と米屋は一度双眼鏡を下ろした。
「──ん?」
一度自分たちも昼休憩でも取ろうかと、鞄に手を伸ばしたときである。
「ど、どうかしましたか?」
「…見つかった」
地上から一人、こちらに向かって手を振る姿があった。
☆
「えらいのどかやなあ、二人とも」
白い息を辺りに舞わせて、伊織は言った。
手が悴んでいるらしく、赤い両手を擦らせてぶるぶると震えている。
「あの白チビ、外出てくる気配全くねえんだよ。暇で暇で仕方ねー」
少年のことも把握しているし、ここまでやってきたということは二人の任務も大方察しているだろうから、米屋は隠さずに白状した。
先日の駅での一件といい、伊織のこういったことへの嗅覚は呆れを通り越して感心さえ覚える。
「二人仲良くピクニックかいな?」
お偉いさんは今ごろ忙しゅうしてるやろうに、と伊織。
確かに暇していたのは事実だが、曲がりなりにも司令直々の命令に手を抜いていたわけではない。古寺が少しムッとした顔をする。
「時期外れもいいとこだけどなー」
それを知ってか知らずか、米屋は涼しい顔で口笛を吹いた。
伊織がつまらなそうに相槌を打つ。
「で、何の用だ?」
「ボクだけ仲間はずれなんて、寂しゅうて仕方ないわあ」
かれこれ伊織とは一年近くの付き合いになる。
ずけずけと嫌なことを平然としゃべる伊織と、色々と気難しい隊長とは犬猿の仲のはずだが、そうなるとかえって絡んでくるのがこの琴吹伊織だ。
こういった遠回しな表現も、おおよその文脈を読みとれるようになるくらいには米屋は慣れてしまった。
つまりは伊織は、黒トリガー奪取に向かう城戸の部隊に自分も入れろと言いたいのだろう。先日の旧弓手町では三輪隊二人を攻撃した伊織だったが、その後の行動を見ると、どうやら近界民を打倒するという目的は一致しているらしい。
「わかったわかった、司令に伝えとくよ。俺たち監視で忙しいんだ」
まるで疫病神を払うかのように米屋は手を振る。
「あれ、さっき暇や言うてなかった?」
「下っ端がピクニックしてたら、上に悪いんだろ?」
米屋は肩を竦めた。
しばらく視線が二人を行ったり来たりしていた伊織だったが
「あ、そ。まあええわ」
素直に引き下がった。
寒いのは苦手やなあ、とかぶつぶつ言いながら、白い息を吐いて階段を降っていく。
「い、一体どこに…」
やけにあっさりした幕切れに、思わず古寺は呼び止めた。
連絡手段ならいくらでもあるというのに、これだけのためにわざわざ苦手な寒さの中やってくるとは、真意は如何に。
「迅さんにもお願いせえへんと、仲間外れやないの」
「どうしてそんなことを…?」
古寺は困惑した。
近界民を倒すという目的が一致しているから、伊織は協力を申し出たはずだ。それなのに、どうして。
伊織はぱっと振り返って古寺の表情を見ると
「あはは! その顔見るために決まってるやないか!」
笑った。
米屋たちが居た建物から少し歩いたところ、川のすぐそばに玉狛支部はある。川の水質調査をする施設をそのまま流用したとかで、支部の壁には苔が生え、周囲は自然に溢れている。佇まいから玉狛支部という雰囲気が読み取れるようで、伊織は顔を顰めた。
「どうもー、お客やでー」
インターホンを押すと、出迎えたのは玉狛のオペレーター、宇佐美栞だった。
「あ、伊織くん!久しぶり〜!」
「おー、栞ちゃんは元気いっぱいやなあ」
別にインターホン押さなくても、伊織くんだったらトリガー認証で入れるのに、と間延びした声で宇佐美は言う。
もう半年以上も経つというのに律儀なことだ。
何かいたずらしてやりたくなった伊織は、トリガーを没収されたことを伝えると、宇佐美はぎょっとした。
宇佐美の後ろについていった先に到着したのは、一階のリビングである。米屋たちがああして屋上に居たということは、少年の姿があることは予想していたが、しかし。
三人とも勢揃いだ。
「な…」
三雲が冷や汗をかいた。
想定外の来客に、旧弓手町に居た三人の間に緊張が走る。
値踏みするかのようにゆっくりと伊織は一人一人を眺めて
「三人とも元気そうでよかったわあ」
と言った。
特にキミなんか、悪いことしてしもうたなあ、と近界民の少年へ手を伸ばす。
「遊真に手出すんじゃないわよ」
伸ばした手は、女性隊員──小南によって振り払われた。
ふわりと、カレーの残り香が鼻をくすぐる。途端に伊織は薄っぺらい表情を浮かべて
「……へえ。名前、遊真くんていうんや」
呟いた。
小南がこちらを睨みつける。
取っ組み合いでも始まりそうだ。
「よう、待ってたよ」
険悪なリビングだったが、迅の一言で待ったがかけられた。
伊織は取り直すように咳払いをすると、小南や遊真たちに背を向ける。
「おはようさん。話あって来ました」
まるで興味を失ったかのように、伊織の顔がもとの軽そうな笑顔に戻った。
後ろの方で、小南が舌打ちするのが聞こえる。
「いいよ。でもその前に、こいつらの稽古つけてくれない? 京介もレイジさんも居なくてさ、人手足りないんだ」
この実力派エリートも、普通なら思いさえしないようなことを平然と言う。
琴吹伊織は、警戒区域内で二人を狙い、そして遊真を攻撃した張本人だ。普通なら、そんな危ないやつをかわいい後輩に関わらせたりしない。
「ええ…。気ぃ乗らへんわあ」
伊織は首を横に振る。
先ほどはパフォーマンスで遊真に握手を求めたが、本気で仲良くなろうなんてつもりは全くないし、その資格もないと思っているからだ。
「おれは別にいいけど」
しかし、遊真は予想に反して肯定的だ。
「あんたも勝手なこと言うんじゃないの!そいつ、人の困った顔見るのが趣味なんだから!」
小南はぎょっとして、一歩前に出た遊真を下がらせる。
どうやら、三人との関係は良好らしい。
「………」
伊織から守るかのように遊真の前に立つ小南を見て、伊織の頭には思い出したくもない記憶がフラッシュバックした。そういえばあの時も、「チームメイトを大切に思わないやつが居るわけないじゃない」と、伊織を背に言ったのだったか。
記憶の逆流を止めるようにして、繕って伊織はまた薄っぺらい表情を浮かべる。
「…確かに、人手足りへんいうのもほんまやろなあ。
「ちょ!?」
小南がボーダーではオペレーターをやっていると学校で嘘をついているのは有名な話だ。お嬢様校で猫を被っているという噂もあるが、果たして被りきれているのかどうかは結構微妙なところである。
後輩にそんな恥ずかしいことを知られて、小南はわたわたと慌てている。
「あはは、桐絵ちゃんええ顔やなあ」
頭の中が少し落ち着いたのを確認して、伊織は再び迅へ向き直った。
「そやけど、稽古は遠慮させてもらいます。ボクに何の得もあらへん」
「そうか…。それなら話は聞けないな」
迅は肩を落とした。残念だよ、とわざとらしく呟く。
「この場でベラベラしゃべってもボクはええけど?」
伊織もわざとらしく、明後日の方向を見て言った。
「……」
「……」
しばらく沈黙が続く。
折れたのは迅の方だ。
「……わかったよ。向こうでいいか?」
「さすが実力派エリートさんやわあ」
お互い素に戻って、階段へ向かった。
迅が先に歩いていく。
伊織もそれに続こうとしたところで、呼び止められた。
「ことぶき先輩」
遊真だった。
三雲修とあの時は偽名を教えたはずだが、あれだけ印象に残る接触をしたのだから迅あたりにでも本名を聞いたのだろう。
ちゃんと会話をするのは夜の中学校以来だ。
あの時とは、二人の関係も違う。
「ことぶき先輩は何が目的だったの?」
それは、伊織が今まで幾度となく投げかけられてきた言葉だった。
何のために?どうして?
そういう時はいつも決まって伊織は煙に巻くが、遊真の目は嘘を吸い込んでしまいそうなくらい、黒くて深い。
「目的なら、さっき桐絵ちゃんが言うてたやろ」
伊織は吐き捨てた。
「ボク、間違った悪い人間やから」
☆
進んでいった迅を急いで追った先、支部の屋上で二人は足を止めた。
折角暖かい室内に居たというのに、わざわざ寒空の下へ繰り出す根性は伊織には理解できなかったが、絡まった頭を文字通り冷やすにはちょうど良かったのかもしれない。
迅は気温なんて全く気にする素振りをせずに、この前のことだろ?と言った。
「話早くて助かるわあ。単刀直入に、ボクもそっちの仲間に入れてくれへん?」
未来予知のサイドエフェクトを持つ迅に前置きは不要だろう。
城戸が遊真の黒トリガーを奪取するために部隊を動かすことは間違いなく内密の話だろうが、それも予知しているはずだ。
迅は伊織の申し出になぜとも聞かずに、ただ首を横に振る。
「冷たいこと言わへんで欲しいわあ。嵐山さんとこより役立つ思うけど?」
苦笑いが返ってきた。何で知ってるんだ、とでも言いたげだ。
「そんなんあっこしかあらへんやろ」
あの場での話し合いを嫌ったあたり、迅が玉狛の隊員を巻き込みたくないのは明らかだ。なら、残る相手は忍田派しか居ない。後々の事を考えると、広報部隊の嵐山隊には処分をしづらいのも迅からしたらありがたいはずだ。
…つまり、この戦いはボーダー三大派閥全てが絡んだ重大なものとなる。
返事に淀む迅を置いて、伊織はもう一つお願いや、と指を差した。
「風刃、ボクにくれへん?」
迅の顔が少しだけ神妙になる。
血筋なのか、はたまた単なる偶然なのか、加古と同じく伊織も風刃の適性がある。攻撃手のトリガーは使ったことがないが、そんなことはあまり問題ではない。
「黒トリガーのバランス悪なるから喧嘩してるんやろ? そやったら、どっちかボクが持ってれば解決や」
感情を全くの度外視すると、遊真が玉狛に所属することの問題点は戦力のバランスにある。城戸と玉狛で黒トリガーは一つずつ分けあっていたが、遊真が入った途端にその天秤が崩れるからだ。
そうなれば、戦力的な差は逆転し、二つの派閥の力関係は一変する。それが客観的な火種となっていた。
しかし仮に今、この場で風刃を伊織に渡したとして、それでは解決には至らない。玉狛の戦力が削がれたと、意気揚々に城戸派は遊真を襲うだろう。相手は近界民だという彼らの思想の免罪符があるから、何だってしてくるはずだ。
だから、風刃を伊織に託すのなら一度彼らを黙らせておく必要があった。それゆえの協力の申し出である。
しかし、迅はわかりやすく難色を示した。
あまりに伊織に虫が良すぎるからだ。そもそもが嵐山隊の加勢が確定しているなか、あえて伊織を取り込むメリットが迅には全くない。
「そやからボク、お願いや言うてるんですよ?」
伊織はけらけらと笑った。
最初から交渉のつもりはない。
「けど、迅さんも悠長にしてられへんと思うけどなあ…」
笑ったまま、伊織は言う。
これは交渉ではない。けれど、額面通りお願いでもない。
「別にボク、揉め事に首突っ込めれば何でもかまへんね。迅さんあかん言うなら城戸さんとこ行くだけやし」
敵側に回るにしては、迅は伊織に情報を与えすぎた。
それを手土産にすれば十分向こうと取引ができるだろう。
つまりこれは、伊織から迅への脅迫に近い。
しかし迅は、頑なに首を縦に振らない。
「あ、そ。ほんなら、話はそれだけです」
伊織の背が遠くなっていく。
…一体どこで読み逃してしまったのだろう、と迅は奥歯を噛んだ。
なるべく伊織が遊真たちに接触しないように手を施し、警戒区域の一件での謹慎中に事を済ませる算段だったはずなのに。
伊織が階段の手すりに手をかけたところで、迅はようやく口を開いた。
「…風刃は悪いけどあげられない。城戸司令との交渉で差し出す予定だから」
伊織の足が止まる。
彼は今、黒トリガーを交渉の材料に使うと言った。
確か風刃は、迅にとっては師匠の形見のはずだ。風刃の所有権を巡っての選抜では、他を圧倒して勝ちとったとも聞いている。
「こっちにつきたいって言うなら、おれからの条件を受け入れてくれるなら構わないよ」
迅の中でどんな逡巡があったのかはわからない。
損得だけの交渉にはならなそうな言い草に、伊織は少し息をついた。
「遊真がなんでこっちに来たか、知ってるか?」