鬼人の初夜
完全を目指せ。
生きた証を残せ。
……本当に大事な人のお役に立ちなさい。
浮遊感のある暗闇に包まれていたけど、その言葉に送り出され意識が閃いた。ゆっくり目を開けると、影色の木の枝が天を覆っていた。
地に伏していた手の指を動かすと、鋭く伸びた爪が枯れ葉を刺す。今の自分の姿は見ていない。しかし、なんとなく鬼人になったのだとわかった。
鬼人は鬽素の注入によって生まれ、人を食べて生きる生物だ。悪用される危険性から、鬽素と鬽素を注入された生物の存在は秘匿されている。
知ることを許されるのは、一部の研究者と生物の討伐組織くらいだ。
しかし人食い生物の存在は公然の秘密と化している。
人々の間では、早く帰らないと化け物に食われる、と語り継がれてきた。
立場のある者は化け物など存在しない、文明国の恥と吐き捨てながらも、実際は発狂生物と言い換えて恐れている。
鬼人は常識では許されない存在。睡眠を必要としない、老いも病気もせず怪我はすぐに治り、その上妖術を使う尋常ではない生物だ。
人間を圧倒する能力を持ちながら、飢えると枯骸となり、日光を浴びると焼けただれ、体の一部にある生命線を断たれると死ぬ。完璧になりきれない哀れな存在だ。
鬼人となったならば会いに行かければ。尊いあの方に……
生前の私はこの山で、思い出したくもない無残な最期を遂げた。非力な少女であり、強い力に蹂躙された。
しかしあの方……鬼人の頭領は命を落とす間際に現れ、私を鬼人にしてくださったのだ。
私はまだまだこの世を楽しめることになった。さらに鬼人の力があれば簡単に死ぬこともない。
しかし私が目覚める前に去っていかれ、お礼ができていない。
瀕死だったため姿もおぼろげだが、ゆるく一つに束ねた黒髪と長い外套の軍服、そして威厳のある声を覚えている。
覚えているのがこれだけでもあの方を見つけ出す自信があった。
御恩があるなら報いるのは当たり前のことだ。今すぐ向かってもいいのだけど、体が出来上がったばかりで何も食べていないため心許ない。まずは適当に腹ごしらえしよう。
冷えた地面から体を起こすと荒い手つきで枯れ葉を払う。鬼人らしい営みに胸を高鳴らせ、赤い夕日を背にかけ出した。
道なき道を駆け下りると、木々の隙間に人里が見えた。冷めた夕空の下で女が一人、山側のあぜ道を歩いていた。周囲に人の姿はなく、一番近い家々も田を挟んで建っている。
かかるなら今しかないが、人を食べるなど尋常ではない。
流石にためらう……と思いきや、心臓が後押しするように脈打つ。次には大きく踏み込んで飛びかかっていた。
人間の頃の倫理観は鬼人の本能に上書きされていた。
首に食いつき、女の高い叫び声が震響する。無意識の内に女の頭へ手を回し、力強く横に押すと、折れ出た首をくわえながら茂みへ引き摺り込んだ。
女は喉を震わすことができなくなり、ただ口を動かすばかりだった。
冷めた茂みに腰を下ろし、女の柔らかい肉を貪り食う。
鬼人たちにとって何よりも重要なのが食事である。私のように初めから鬼人になる者もいるが、魔人が鬼人になる時は食事量が関わってくるのだ。
魔人は時間経過で鬼人に進化すると考えられていたが、捕獲した魔人に餓死寸前の食事量を強いたところ、鬼人になるまで通常の三倍の時間がかかったという。
年を重ねた鬼人が強いのも、経験の積み重ねもあるが、やはり多くの人間を食べているからだろう。
食事とは生命の維持だけでなく身体の強化になると考えられる。
私はというと、一人丸ごと食べ終えても満腹感はなかった。元が少食だったため期待していなかったが、なかなか優秀ではないか。
気を良くした私は骨を残してその場を去る。
ふと、どこかに向かわなければいけない気がしてきた。
考えすぎか、と思い直す間もなく歩き出し、分かれ道など選択肢があると気の向く方を行く。
突き動かされる様にして進み、開けた場所に出た。
都市に比べ密度の低い街灯の下、魔人と人間の男が三対揃って戦っていた。人間たちは濃緑色のだんだら羽織に廃されたはずの刀を持っており、戦い慣れているらしく魔人たちを苦戦させている。
一人食べただけの鬼人だが、同胞の邪魔は放っておけない。相手は少し強いくらいが記念すべき初陣に相応しいだろう。
こうしている間にも人間が魔人に刀を振り下ろさんとする。
背後から不意を突くように入ると、振り上げた後ろ手で人間の刀を防ぐ。食いこんだ刃が指の間を痛めつけるが、魔人が斬られるのは阻止できた。
「お前、何者だ!? この魔人たちの親分か!?」
「私は神辺 叡見意。ただの鬼人だよ。私たちの親分は、頭領ただ一人だ!」
刀から手を抜き、力任せに拳を突き出して迫る。人間は首を逸らして回避する。
突然入ってきた私に魔人も人間も目を向けてくるが、戸惑いがあり私に手を出す気配はない。
すると拳を避けた人間が、魔人を他の者に任せるような手振りをする。
そして正面から向き直り深呼吸する。
「東照大権現様、私に力をお貸しください」
神に祈らないとやってられないか。
非力な人間をそう憐んだ直後、力強い踏み込みで迫り、刀を振り下ろしてきた。鬼人の目でも見切れぬ早技に、思わず左手で顔を守るしかなかった。
腕が落ち、刃が鼻先に迫る。
「いっ……たいじゃないか!」
怒りのあまり爪を立てた右手で刀を叩き払ったところ、風切り音がして刀どころか人間の腹が割かれた。
叫び声と他の人間が名前を呼ぶ声。残された人間たちは獣のように荒い息を吹かしていた。
「大権現様ぁ!」
一人が叫んだ途端、不思議なことに刀が緑色の光を帯びた。淡い光だったが、闇に覆われた目に焼きつくようだった。
目に焼きつく程度はどうてことない。しかし先ほどの攻撃を思うと警戒しなければ。
向かってくる男をしっかりと見据えて備える。私の右に刀を回してくるのを認め、左に大きく飛び寄った。
しかし私が避けた途端軌道をぴたりと打ち止め、刀を縦にする。大きく振り上げ空に振り下ろすと、刀と共に宙回りした。
一連の動作は少しずつ遅れて処理される。
私の動きが定まらない内に、男は私の上空を飛び越え、後ろ足で私の背を蹴り倒した。
愕然としていたとはいえ人間の蹴りに倒されるとは……とっさに右手を地についたが、それは人間でも出来ることだ。
男は倒れた私の上に乗ると、地につかなかった左手を掴み上げた。そして芝を刈るように腕を付け根から斬る。腕の付け根には吹き抜けるような痛みがあった。
信じられない気持ちで後ろを振り向くと、何やら持っていった腕を折り立てて地に置いている。
折り曲げた肘を刀のない手で押さえつけると、薪を割るように骨ごと縦に叩き切った。生前からの細腕とはいえ、薄く繊細な刀で骨を真っ直ぐ断つ様子に戦慄した。
斬り別れた腕を傷みつけた後、残った右腕に手をかけてくる。なぜこんなことをするのかというと、生命線を探しているのだ。
生命線は妖術を放つ部位や、人間からの変化が激しい部位にあることが多い。しかし私の生命線は腕にない。
斬られたところでたちまち死ぬことはないが、回復するまで反撃出来ないのが厄介だ。
正直なところ、今すぐにでも逃げ出したい。しかし相手は説明のつかない能力を持っており、五体不満足の今、下手に逃げても再び捕まる。
「鬼人……お前はどうして魔人たちを助けた? ただのお人好しかと思ったが、うちの隊士を平気で殺した辺りそうではないようだ……」
腕を痛めつける間に問いかけてくる。
「鬼人は同類を嫌い、魔人を下僕にすることはあっても仲間意識を持つことはない」
指をばらし終えると、肩に突き立ててきた。これより下れば生命線がある、とひやりとする。
「あの魔人を助けて貴様に何の得がある」
自分のことに気を取られていたが魔人の状況を思い出す。
向こうから聞こえてくる風切り音も鋭くなった気がする。あの不思議な現象が起きているのだろうか。魔人の叫びが聞こえる。畳み掛けるように砂を蹴る音がした。
このままではいけない!
「自分の損得なんて知らない! 魔獣も魔人も鬼人も、等しくあの方から生を頂いた! 私たちがすることはただ一つ。頂いた命をありがたく使い、あの方に報いることだ!」
生前の私は何もなせずに死ぬところだった。しかし奇跡的な出会いが私を鬼人にし、第二の生が開かれた。
あの魔人たちも様々な過去を持ち、今に至る。危機に立たされる魔人を捨て置くのは、あの方から賜った、またとない奇跡を無碍にすることだ。
欠けた腕をたちまちのうちに伸ばし、後ろに振り抜いて飛び上がる。刀よりも伸びやかな風切り音がした。
置き去りにした地上を見下ろすと、腕を斬っていた隊士は胸を斬られて倒れ、魔人と戦っていた隊士は飛んできた斬撃を避け体勢を崩していた。
自分の妖術というものを理解した。腕を振れば風に乗るように飛び、斬撃を飛ばす。
姿勢を低くし地上を見据えると、つま先を伸ばして着地する。最後の隊士と目が合い、満面の笑みを見せる。
危機感に塗りつぶされた目をする隊士に、腕を振り下ろした。
絶命を確認した後、殺したまま置いていた二人を回収しに戻る。二人重ねて背負ったが、重さはなんてことない。
人間が鬼人じみた力を使おうと、本物の鬼人には勝てないのだ。未知の現象の考察は好きだが、今日の祈りの現象は馬鹿馬鹿しくて興味も失せた。
私は腕を斬った人間を選んで、残りは魔人にやろうと思い見やると、魔人たちは死んだばかりの人間に群がっていた。やがて唸り声を上げ、取り合いを始める。
背負いながら歩み寄り、食べない方を地に降ろす。魔人たちは突然地面に置いたことに驚き、恐る恐る私を見上げる。
横たわる二つの肉を指して目安をつける。手を振って中心で割った後、横に三等分して一二片の肉を作った。これで皆どの部位も食べられるし、残りの三片は有無を言わさず分配した。
魔人は人間や鬼人と比べて知能が低く、相談して分け合うことが出来ないのだ。
魔人たちは肉をその場で黙々と食べ、私は人のいなさそうな場所を探し歩くことにする。
すると突然魂を抜かれるような寒い心地に襲われ、思わず目を閉じた。