「隊長、我が軍が撤退を始めました!」
「そうか」
部下の報告を受けて、大亜連合軍特務部隊上校・陳祥山は驚きも悔しさも意外感もなく、静かに頷いた。陳は味方が敗退する可能性が高いと予想していたわけではないが、作戦目標達成の為に、その可能性を視野に入れていた。作戦目標が達せられれば戦闘レベルの勝敗は関係ない。彼はそうして今日の地位を築いたのだ。
もっとも今日の作戦目標の達成の為には大きな障害が存在していることが判明している。その相手の名前は市丸ギン。九校戦という高校生の競技で日本の魔法師の名門である十師族を相手に互角以上の戦いをしたとして警戒対象として通達されていた。それでも、戦闘力にかけては陳が最も信頼する部下である呂剛虎をも圧倒するとまでは考えていなかった。
そして今日、市丸ギンは更なる実力を秘めていることが明らかになった。辛うじて残存していた無人偵察機の映像では、何らかの魔法を使って高層ビルすら両断していた。あれほどの破壊を行う相手を倒す術は陳にも思い浮かばない。
「我々はこれより作戦案二号を実行する」
不安要素はあるが、懸念事項があるからと作戦を中止することなどできない。陳に付き従う二十名の兵士は本国から呼び寄せた後方破壊作戦のプロフェッショナルばかり。最初に連れてきた潜入作戦要因とは練度が違う。そこに救出に成功した呂も加わる。
「呂上尉、個人的に思うところはあるかもしれんが、市丸ギンとの交戦は避けろ」
「分かっております」
その心中はどうであれ、呂剛虎は完璧な自制の効いた声で上官に答えた。その身に纏うのは彼本来の装備。「白虎甲」と名付けられた呪法具の鎧。
「行くぞ」
陳の号令により、部隊は静かに移動を開始した。
目指す先は横浜ベイヒルズタワー。日本魔法協会関東支部。
そうして進軍を始めた陳の部隊による奇襲は、完全に日本側の意表をついたようで、当初は順調に侵攻できていた。これは精鋭を温存した効果といえた。
海側から侵攻していた大亜連合軍は、今や完全な劣勢に陥っている。山手方面の部隊は義勇軍によって敗走し、関内方面の部隊は中華街の裏切りによって壊滅した。山下町方面でも漆黒の飛行兵団により壊滅状態に陥っている。兵力を温存している余裕はないと見ていたのだろう。
陳の率いる部隊の規模は小隊未満だが、一人一人の戦闘力は極めて高い。特に白い甲冑を身に着けた呂剛虎は装甲車の機銃掃射すらものともせず、何重にも築かれたバリケードを次々と突破して丘を登っていく。
呂が身に着けている白虎甲は皮膚の上に鋼よりも硬い鎧を展開する彼の鋼気功を増幅する中華古式魔法・道術の呪法具。表面積はオフロードバイク用プロテクターと大差の無い軽装鎧を纏っている時こそ、世界屈指の近接戦闘魔法師・呂剛虎の本領と言える。
バリケード代わりに並べた装甲車の機関砲が呂に向けて火を吹く。ハイパワーライフルと同等以上の威力を持つ銃弾を呂は軽々とはね返した。鎧の表面だけではなく、鎧に覆われていない部分でも。鋼気功を増幅するとはそういう意味だ。白虎が象徴する五行は「金」。この白い甲冑は、呂剛虎の全身を覆う鉄壁の防御魔法を更に強化する。彼が先頭となって築かれたバリケードを次々と突破し、奇襲部隊は協会支部へ迫る。
しかし、最後のバリケードを前に奇襲部隊は足を止めることになった。バリケードの前に立つのは薄い笑みを浮かべた一人の若い男。
「なんや、まだ隠れとったのがおったんやな」
それは陳が最も警戒していた相手である市丸ギンだった。そして、市丸がそう言ったときには先頭を進んでいた兵が伸びる刀で額を貫かれて絶命していた。
「陳上校はここを迂回して先に進んでください」
そう言ったのは珍しく緊張を露わにしている呂だった。
「頼めるか、呂上尉」
呂が頷くのを見て陳は部下十名を率いて別方向から協会支部へと向かおうとした。だが、市丸はそれを許してくれなかった。
「行かせるわけないやろ」
陳の隣に立っていた護衛の兵が市丸の伸びる刀を受けて絶命した。その直後、呂が雄叫びをあげながら市丸へと突進する。その隙を突いて陳は古式魔法・鬼門遁甲を使った。
鬼門遁甲は方位を操る魔法で、術者の望む方向へ人々の認識を誘導する秘術だ。
方位を狂わされた人間は、目標へたどり着くことができない。例えば真っ直ぐ進んでいるつもりでグルグルと同じ所を回っている人間には、並足で進む馬車がいつまで経っても追いつけない不可思議な速度で進んでいるように見えるだろう。裏の鬼門遁甲は方位に特化した精神干渉の呪法なのだ。
それは何も緯線・経線を基準とした地理的な方位に限らない。意識の向かう行き先をねじ曲げるのも鬼門遁甲の基本技術。呂が気を引いている今は鬼門遁甲で陳の意識を市丸から外させる絶好の機会だった。
「射殺せ、神鎗」
しかし、完成している鬼門遁甲をものともせず、市丸は陳の護衛を伸びる刀で攻撃した。しかも、呂の攻撃を躱しながら、寸分たがわず額を貫いてだ。
「行かせるわけない、言うたやろ」
「どうやって鬼門遁甲を破った?」
酷薄な笑みを浮かべる市丸に、回答はないだろうと思いながらも、陳は聞かずにいられなかった。
「方向を狂わせる魔法なら、慣れとるんや。せめて上下くらいは狂わせてもらわんと」
上下の感覚を狂わせるなど、意味があるのだろうか。そんなことをすれば感覚が狂わされていると明確に理解させてしまうだけではないか。
「ぐっ……どこまで馬鹿にするつもりだ!」
この間も呂は市丸に対して攻撃を仕掛けている。しかし、市丸は呂の攻撃をものともせずに陳の言葉に答えている。呂は世界でも屈指の近接戦闘魔法師と見られていた。その自負は呂自身にもあったはず。それなのに、市丸には相手にもされていない。
映像で市丸の攻撃力は理解していた。けれど、呂が全く追いかけられないほどの速度を有しているとは想像すらしていなかった。
「どこまでっ……馬鹿に!」
「そろそろ邪魔やな」
市丸がついに呂に対して反撃の刃を振るった。その刃は白虎甲を纏い、強化された呂の防御をものともせず、その身体を両断した。
高層ビルを両断したことで、市丸の攻撃力が呂の防御力を上回ることは想像できていた。しかし、実際に目の前で世界最高峰の近接魔法師が何ら抵抗できずに葬り去られる場面を見ると、衝撃を抑えることができなかった。
「さて、残った君らはどうする?」
陳が率いていた二十名の精鋭たちは、呂と共に市丸に向かった者たちが全滅し、陳の周囲に残る者たちも八人だけになっている。
「投降をすれば受け入れてもらえるのか?」
はっきり言って、市丸を倒すどころか、市丸から逃れることさえ不可能だろう。
「そないな面倒なこと、するわけないやないの」
この横浜襲撃が発生するまでなら、陳の情報には価値もあっただろう。しかし、実際に襲撃が起こり、それが失敗した今となっては、さしたる価値はない。ましてや、情報のとおりなら市丸は単なる高校生だ。その割には躊躇なく人を殺し過ぎている気はするが、高校生が陳の情報に価値を見出して見逃してくれるかというと疑問だ。
「さて、そろそろお喋りはええか? 死ぬ気で抵抗した方がええで」
「こうなっては是非もなしか」
逃げられないのなら、戦うしかない。陳は生き残りの部下八名と突撃を敢行する。
「陳上校!」
陳に向かって伸びてきた刀を庇って、部下の一人が絶命する。その部下に心の中で礼を言いつつ、弔いのためにも残りの部下のハイパワーライフルでの援護を受けながら市丸へと迫る。
「卍解、神殺鎗」
しかし、陳が攻撃を加える前に市丸が滅びをもたらす言葉を口にした。その次の瞬間には、陳の身体は腰で両断される。
自分と同様に、纏めて両断されて頽れる部下たち。それが陳が最後に見た光景だった。