千葉エリカは兄の部屋の前で立ち竦んでいた。エリカにしてみれば、自分にこんな気弱なところが残っていたことは、全くの予想外で予定外だった。
母屋に入るのに気後れはないが、父親や関係のよくない異母姉と会うのは避けたい。その二人ほど抵抗は無いが、長兄の千葉寿和と顔を合わせるのも気が進まない。けれど、次兄の千葉修次だけは家族と感じられる相手であったはずなのに。
とにかく、他の家族に会わないためには、さっさと用件を済ませて離れの自室に戻るのが最良で、廊下でグズグズしているのは最悪だ。今日はこの後の予定もあるのだから。
「次兄上、エリカです」
そう声を掛けると、修次はエリカを自室に招き入れてくれた。
「こんな時間にどうしたんだい?」
「兄上は、第一○一旅団、独立魔装大隊という名前の部隊をご存知ですか?」
「何故エリカがその名を知っているんだ?」
エリカの予想以上に、修次はその名称に強い関心を示した。
「実は……兄上の護衛対象である私のクラスメイト、司波達也くんは、その独立魔装大隊の特務兵なのです」
「何だって……?」
「申し訳ございません。本来なら先日お話をうかがった際にお伝えしておくべきだったのですが、風間少佐と仰る方より、国家機密に属する事項だと固く口止めされていたものですから」
「風間少佐……? 『大天狗』風間玄信か!」
「大天狗、ですか?」
兄の反応に、今度はエリカの方が驚きと共に首を傾げた。
「ああ、山岳戦・森林戦における世界的なエキスパートとして知られている古式魔法師だ。空挺部隊の運用においても、現在、国内屈指の名指揮官と言われている人だよ」
修次の顔と声には興奮と畏怖が混在していた。
「大越戦争は知っているね? あの紛争で、インドシナ半島南進を目論む大亜連合を相手にゲリラ戦を繰り広げていたベトナム軍に加わって、大亜連合軍、中でもその先遣隊の高麗軍から悪魔か死神のように恐れられたそうだ」
修次が小さく息を吐いた。興奮は憧憬に、畏怖はため息に変わった。
「それが二十代前半、今の僕とそれほど変わらない年頃でのことだというのだから、ある意味で伝説の人物だね。もっともその所為で、大亜連合との正面衝突を回避したかった当時の軍中枢部から睨まれ、出世コースから外れてしまったそうだけど」
功労者が事なかれ主義の犠牲になる構図がここにもあった。
「噂の独立魔装大隊は、風間少佐の率いる部隊だったのか……ならばあの、都市伝説じみた数々のエピソードも頷ける。そして司波達也君がその部隊の一員だというなら、年に似合わぬあの技量も少しは納得できるというものだ」
修次は自分に言い聞かせるように呟いていた。
「兄上。私が風間少佐にお目に掛かったのは横浜事変の折です。あのような非常時でもなければ、司波くんの秘密を明かされることはなかったでしょう。それほど重要度の高い機密なのだと、私はその時に感じました」
「うーん……独立魔装大隊自体が、秘密部隊の性格を持っているからね。そこに高校生が非正規兵として加わっているとなると、確かに、余程の理由が存在しているんだろうな」
「私が禁を破って兄上に司波くんのことをお伝えしたのは、まさにその事を分かっていただきたかったからです」
「つまりエリカは、これ以上、彼の内情に踏み込むべきではないと言うんだね? ところで市丸ギンという少年にも何かあるのかな?」
横浜事変直前に修次は大亜連合の工作員、呂剛虎と戦った際に市丸の実力の一端を見たと言っていた。そこから市丸も何らかの特殊な立場にあると感じたのだろう。
「市丸くんは吸血鬼退治を専門としている組織に所属しているようです。それ以上のことは私もよくわかりません」
こと近接戦に限れば市丸の戦闘能力は達也をも上回る。だが、それが吸血鬼退治を行う組織に由来するものなのかはわからない。
「ともかく藪をつついて蛇を出す結果になっては、兄上の為にも、千葉家の為にもならないと存じます。ましてやその蛇が、猛毒を持つ大蛇かもしれないとなれば」
「ふむ……確かに、エリカの意見は理に適っている。しかし学生とはいえ、僕は既に軍属だ。正式な命令には逆らえない」
「でしたら、表向きの命令にのみ従えばよろしいのではありませんか? あくまでも護衛として振る舞い、彼に対する攻撃があった場合に、対応するに止めるのです」
「なる程……分かった。その線で考えてみよう」
何とか、「四葉」の名を出さずに次兄を説得することができたようだ。エリカは安堵した顔を見られぬように一礼し、目を合わせぬまま修次の部屋を辞去し、自室に戻った。
離れにある自分の部屋に戻ったエリカは、机の上で着信サインを点滅させていた情報端末のメールを読み「青山霊園か」と呟いた。そのまま椅子に腰を落ち着ける間も無く、着ている物を脱ぎ捨てる。良家の子女にあるまじき御行儀の悪さだったが、修次の説得で消耗した心を鼓舞する為にあえてやったことだ。
エリカは手早く身支度を整えて離れの外に出る。そこには「エリカ親衛隊」の面々が控えていた。彼らは今回の「吸血鬼事件」における千葉家の部隊の中核、つまりエリカの手足となって働いている。彼らと共にエリカは戦場へと足を運ぶ。
青山の高架駅から地上第一層の歩道に降りたところに、幹比古、レオ、一条と吉祥寺の四人が待っていた。そして、青山霊園の脇で更に達也と深雪と合流する。独自の行動を取る市丸以外の全員で今日は吸血鬼が潜伏していると予測される青山霊園を捜索することにしている。これで準備は整った。
「おい、そこで何をしている!」
だが、いよいよこれからというところで、警察の制服を着た二人の若い男が街灯の向こうに自転車を止め、大声で詰問しながら駆け寄ってきた。
「アンタたち、何者? 知らない? 現在この区画に警官はいないの。そういう命令が出ているからね。ウチのバカ兄貴も、こういう所で抜かったりしない」
そう言ってはみたものの、エリカの言葉は何の根拠も伴っていない。
本物の警官であれば、鼻先で笑い飛ばして然るべきセリフだった。
それなのに、エリカの前に立つ若者は動揺を見せてしまった。
「ミキ!」
偽警官を用いる作戦が失敗したと判断したのか、その直後に黒い影が頭上から幹比古に襲い掛かってくる。霊園を囲む塀を飛び越えて襲って来たのだ、と認識した時には、迎撃が間に合わないタイミングに思えた。
だが、その黒い影を迎撃する者がいた。それは、いち早く襲撃を察知した達也だった。
達也に振り下ろした棍棒を撃ち払われた男が着地する。その直後を狙ってレオが風を切る勢いの鉄拳を叩き込んだ。
しかし、その拳は、襲撃者の身体を浅く捉えただけで引き戻された。
襲撃者は、接触する相手に高圧電流を流し込むスーツを身に纏っていた。
「レオ、離れて」
レオを襲った男へ向けて幹比古が援護の術を放とうとするが、何か輪のような物が横合いから飛んできてCADにぶつかった。CADを落とすことはしなかったが、術は中断を余儀なくされる。
それが一種のブーメランだと、投擲した敵の手に戻ってようやく分かる。もちろんただのブーメランなら、標的にぶつかれば運動エネルギーを失って持ち主の元へ戻ることなどあり得ない。何らかの魔法武器なのだろう。
敵はそれだけではなかった。建物の陰に気配を感じたと同時に、プシュッ、と圧搾空気の解放された音が聞こえた。道路の向こう側から飛んで来たのは、昔のジュース缶二つをつなげた程もある砲弾だ。
一条が風の塊を放ち、砲弾を叩き落とそうとする。だが、砲弾は空中で停止すると、中から網が現れる。八角形の網の八つの頂点では、超小型のロケットモーターが火を噴いて運動量を補っている。
今日の襲撃者たちは、色々と特殊な装備を持ち込んでいる。そして、エリカに最初に声を掛けてきた二人も、演技の方はお粗末だったが、荒事の方はかなりの腕だ。
だが、それでもエリカたちの優位は揺るがない。こちらには達也、深雪、一条に吉祥寺と強力な魔法師が四人もいる。更に戦闘力ではエリカ、幹比古にレオもそれなりだ。そして、エリカの親衛隊四人もいる。緒戦こそ奇襲で攪乱させられたが、時間が経つ毎にエリカたちの優位は広がるばかりだ。
だが、その前に事態は予想外の方向に動いた。