あの朝のことを、わたしは今でも覚えてる。
特に理由もないけれどいつもよりちょっと早く、日が昇る前に目を醒ましたわたしが村を散歩していると、同じように早起きした誰かが歩いているのに気がついた。わたしは呼びかける。
「おはよう、ハルオ!」
空から降りてきてフツアの村に仲間入りした
「おはよう、ミアナ」
おはよう、ハルオ。だけどどうしたの、こんなに朝早く?
そう尋ねようとして、わたしはちょっと前に「綺麗な朝焼けが見られる場所」について話してあげたのを思い出した。ハルオはきっと朝焼けを見に行くのだろう、おそらくはあの不思議な空飛ぶ乗り物たちに乗って。
世間話を一つ二つしたあと、ハルオはこんなことを言った。
「……なあ、ミアナ」
なあに、ハルオ。聞き返すわたしに、ハルオは訊ねた。
「ミアナは、ゴジラが怖いか?」
ゴジラが恐いかどうか。唐突な質問にわたしは正直怪訝に思ったけれど、ハルオにとってそれはよほど重要なテーマらしかった。そういえば先日一緒に“花の季節”を見に行ったときも、同じ質問をされた気がする。
うん、怖いよ。わたしがそう答えると、ハルオは続けて訊ねた。
「じゃあ、ゴジラのことは“憎い”か?」
「『にくい』?」
にくい。『にくい』ってなんだろう。
ゴジラは怖い、竜巻や稲妻のように。だけど、『にくい』とはどういうことだろう。
意味不明な言葉として聞き流しても良かったのだけれど、一方で『にくい』がわかるかどうかがわたしとハルオ、フツアと
意味はよくわからなかったものの、わからないなりに率直に、わたしの思うところを述べた。
「ゴジラは怖い。竜巻も、稲妻も怖い。だけど『にくい』は、わからない。それ、フツアにはない言葉」
「……そうか」
そんなわたしの様子から、ハルオは何かを得心したらしかった。かすかに溜息を洩らしながらハルオは言う。
「それは良かった……」
その言葉は強い安堵を帯びていた。もはや思い残すことは何もない、そう言わんばかりだ。
そのときわたしは直感した。
ハルオは“ゴジラへ負けに行く”つもりなんだ。
じゃあな、ミアナ。そう言ってその場を去ろうとするハルオを、わたしは呼び止めた。
「ハルオ、行ってはダメ! それは、負け!!」
絶対に駄目だ、このまま行かせちゃ。
フツアの村へやってきたばかりの頃のハルオを思い出す。
『ゴジラを倒すためにやってきた』と語っていたハルオ。あのときのハルオの顔つきはとても険しくて、なんだか苦しそうにも見えたのをよく覚えている。あのままゴジラと戦い続けていたら、きっといつか捻り潰されてしまっていただろう。
それから一年。
……この人は本来、こういう優しい顔をする人なんだ。そんな風に感じた。
同時にわたしは安心した。
……よかった。きっとハルオもマーティン博士たちのように変わってくれたんだ。これならきっとゴジラに挑もうなんて馬鹿な真似はしない。わたしはそう思ったのだ。
だが、それはとんだ思い違いだった。
ハルオは変わってなどいなかった。それどころか、今もなおゴジラに挑もうとしている。
けれどそんなのは絶対に間違っているんだ。わたしは強い口調で言った。
「死ぬこと、消え去ること。ゴジラに挑むこと!!」
わたしの様子から、自身の目論見が見透かされたことにハルオは気づいたのだろう。
必死に説得しようとしているわたしを前に、ハルオは「……そうだな」と口を開いた。
「だけど、ただ勝ち続けるだけの命なら獣と同じだ。でもおれたちは、いざとなれば負け戦を選ぶことが出来る。それが人間だ」
……ハルオの言っていることが、わたしにはわからない。
ただ一つはっきりわかるのは『わたしはハルオを死なせたくない』ということ。ハルオ、あなたは勝つべき。これからを、わたしたちと共に。
なおも立ち去ろうとするハルオに、わたしは縋った。
「マイナはどうなるの?」
「……!」
マイナの名前が出たとき、ハルオは一瞬反応した。わたしは続ける。
「生まれる子供は? 一緒に育てようよ」
「…………っ」
そしてハルオは歩みを止めた。
そう、そのまま思い留まってほしい、お願いだから。
わたしはハルオに生きていてほしかった。誰よりも勇敢で、皆のことを大切に思いやってくれるわたしたちの優しいヒーロー、ハルオ。そんなハルオが、わたしは大好きだった。
このときわたしは『ハルオもテレパスで分かり合えたらいいのに』と思った。言葉でしか分かり合えないなんて、なんと不便なのだろう。わたしがどれだけハルオに生きていてほしいか、言葉だけでは到底伝えられそうにないし、逆にハルオが何を思ってわざわざ“負け”ようとしているのか、百万の言葉を並べられたとしても納得できそうになかった。
「…………。」
結局、ハルオが立ち止まってくれたのはほんの一瞬だけだった。ハルオはわたしに背を向けたまま言った。
「おれはゴジラが憎い。忘れられない。どんなに忘れようと思ってもな。だけどこの呪いを未来に繋ぐわけにはいかないんだ」
……わからない、わからないよ。だからって、どうしてハルオが“負け”なきゃいけないの?
戸惑うことしか出来ないわたしに、ハルオは振り返り「いいんだ」と言った。その面持ちは相変わらず穏やかで、やっぱり優しいハルオだった。
「わからなくていい。おれがこのままいたら、きっと君たちもわかってしまう。だから、行かないと」
幸福に暮らせよ、さようなら。
そう言ってハルオは、わたしを振り切り行ってしまった。
ハルオ、ハルオ、どこに行ったの、ハルオ!
わたしがハルオを探して村中を駆けずり回っていると、マーティンから呼び止められた。
「ミアナ、ハルオとユウコ君を見なかったか!?どこにもいないんだ!」
マーティンもハルオを探していたようだった。わたしが先ほどハルオに出会ったこと、そしてそのときの会話について説明していると、そこへジョシュもやってくる。
「博士、ヴァルチャーもありません!」
「なんだって!?」
マーティンが動かそうと四苦八苦していたあの金属仕掛けの乗り物、ヴァルチャー。それがいつの間にか無くなってしまったらしい。
マーティンは一つの可能性を口にした。
「まさかハルオの奴、ヴァルチャーに乗って……」
マーティンの言う『まさか』。その場にいる皆が一斉にそれへと思い至った、まさにちょうどそのときだ。
頭上から『咆哮』が響いてきた。
音の源は、集落から遠く離れた森の方。だけど一度耳にすれば強く印象に残る、あの特徴的な鳴き声。
あれはゴジラの雄叫びだ。それも勝鬨、勝利の咆哮。
「ハルオ……」
ぼくのせいだ。そう聞こえた呟きに振り返ると、マーティンが愕然と立ち尽くしていた。その表情から滲み出ているのは驚愕、そして強い後悔だ。
マーティンは放心した様子で言った。
「ぼくが、『ヴァルチャーを再起動する』なんて言ったから……」
……いや、きっと違う。
ヴァルチャー、つまり『禍々しいもの』の復活を阻止するだけだったら、別にハルオ自身が“負け”なくたっていい。
マーティンが自身の顔を覆って悔いる一方、わたしは先ほどのハルオの言葉を思い出していた。
『いざとなれば負け戦を選ぶことが出来る』
『この呪いを未来に繋ぐわけにはいかない』
『幸福に暮らせよ、さようなら』
ハルオがどうしても捨てきれなかった『ゴジラがにくい』という『呪い』。
ハルオはそれらすべてを一人で背負って、自ら負けを選んだのだ。その他の人たちの幸福、つまりは“わたしたちを勝たせる”ために。
だけど。
「ハルオがいなかったら幸せになんかなれないよ……!」
わたしは声を上げて泣いた。
人類が“負け”てから、月日が流れた。
マーティンもジョシュも、ワタリガラスの人たちは銘々に自分の命を繋いで、穏やかに人生を終えて逝った。彼らから命のバトンを託されたわたしたち:フツアは相も変わらず、地上の怪獣たちを避けて地下洞窟を棲み処に、森の中で狩りをして暮らしている。
変わらない部分もあれば、変わったものもある。
変わったもののひとつは、雨季と乾季しかなかった季節に新しい名前が加わったこと。名前がついたのは雨季の合間、暖かな空気が心地よい花盛りの季節。その季節は、『人類最後の英雄』の名前に因んで“春”と名づけられた。
それともうひとつは、その春の季節の始まりに行われる“お祭り”だ。マーティンたちが死ぬ前に遺していった、ワタリガラスたちの遺産。
今日はその“お祭り”の日だった。地下洞窟の最深部の神殿で松明に照らされる中、踊り手たちが神楽を舞い、フツアの子供たちが組紐を作っている。
「びょうき に なりませんように」
「こわいゆめ を みませんように」
「むし に さされませんように」
「きのぼり で けが を しませんように」
そうやって、各々の“怖いもの”を吹き込みながら組紐を撚ってゆく子供たちと、その様子を見守る大人たち。
子供たちが組紐を作り終えた頃合いを見計らって、当代の巫女が声をかけた。
「さあみんな、怖いものを封じ込めたかな?」
「はーい」
巫女の声掛けに元気よく答えた子供たちは、続いて巫女の指示で撚り合わせた組紐を、眼前の“オイカリ様の像”へと結びつけた。
寄木で組み上げたオイカリ様の木像。翼を持った巨人の姿は、かつてワタリガラスたちが乗っていた不思議な乗り物:ヴァルチャーを模して作ったものだ。無論そっくりそのままとはいかなかったけれど、長い手足と背中の大きな翼はなるだけ似せるようにしてきた。
子供たちがオイカリ様へ組紐を括りつけ終えると、巫女は松明の火をその像へ移した。
松明の炎は、十二分に乾かした木材で出来たオイカリ様へと燃え移り、轟々と音を立てながら、火の粉を散らして盛大に燃え上がる。
さあ、お祈りを唱えましょうね。巫女の合図で、子供たちは炎に向かって祈りを捧げ始めた。
「オイカリさま、オイカリさま。どうか ことし も おきよめください。ほのお で のろい を おわすれください」
この儀式は、オイカリ様の像を燃やすところで完結する。神楽を舞い、祈りの組紐を撚り合わせてオイカリ様へ結びつけ、炎で燃して神様へ届けてもらう。かつて『人類最後の英雄』がヴァルチャーでゴジラへ向かって行って、その身に巣食っていた呪いを焼き尽くしてもらったように。
オイカリ様がすっかり燃え尽きて灰になり、儀式が終わると、組紐を撚っていた子供たちの内一人がわたしの方へと歩み寄ってきた。
「ミアナ婆ちゃん」
この子の名前はハルオミ。マイナの孫にあたる子供だから厳密にはわたしの孫ではないのだけれど、ハルオミはわたしのことも『もう一人の婆ちゃん』として慕ってくれていた。
フツアの銀髪とは違う、祖父由来の黒い髪を揺らしながらハルオミは言う。
「お花見、早く行こう」
……そうだったね。オイカリ様を焼いた後は、皆で楽しいお花見だ。
よっこいしょ、と立ち上がろうとする年寄りのわたしに、ハルオミは手を差しのべてくれた。
「婆ちゃん、立てる?」
……ありがとうね、ハルオミ。厚意に甘えさせてもらい、ハルオミの力強い手に支えてもらう。
わたしが御礼を言うと、ハルオミは照れ臭そうに頭を掻きながら「どういたしまして」と笑って答えた。まだ小さいけれど優しい子だ。こういうところも祖父に似てると思う。
ハルオミら子供たちに手を引かれ、わたしは花見の場所へと向かう。
フツアの地下集落、その片隅にひっそりと咲いている小さな花畑。
そこへ一迅の暖かい春風が吹き抜けて、花びらが風に煽られ軽やかに舞い上がる。
春は今年もやってくる。
おしまい。
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