慧心学園“女子”軟式ヤきゅーぶ!   作:桜咲く日に

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復帰

 

 カランといった音が響く。私はバットを置き、ゲージから出る。それから、自販機のお茶のボタンをお金を入れてから押し、出てきたそれを手に取る。

 

「……あれ、昴」

 

 入り口から出て行こうとする昴の背中を目撃する。そして──

 

「……あの子」

 

 見覚えがある子供が昴の横にいるのが見えた。あの子は印象に残っている。残らざるをえない。知っている、あの顔。彼女は、試合があるたびに私たちのゲームを観に来ていた少女。関東大会、準決勝で折れかけた昴を立ち直らせたはずの少女。 

 

 覚えている。

  

 昴は気づいていないのかもしれない、あの子がそうだなんて。それでも何となく、どこかで理解もしていそうな気がする。

 

「……優しい顔、できてる」

 

 昴の表情は優しかった。ただ、慈愛があるような顔をしていた。良かった。本当に。まだ、昴は壊れていない。今日のストラックアウトでもそう。昴は、諦めきれていない。

 

 良かった。

  

 投げられるのに、壊してなどいないのに。万全であるのに、夢があるのに、好きなのに。──何もできない、できていない。それでも、昴がいまだに壊れていないのはきっと。

 

 あの子のおかげ、だったり。

 

 わからないけど、知らないけど。それでもそう思えた。私といても、一成といても。ストラックアウトで投げていても。

 

 今みたいな顔をできてなどいなかったのだから。

 

「……ありがとう」

 

 ここから声をかけるなど無粋なことはしない。必要ないから。だから私はケータイに記されているメールを見て、なんとなく笑った。

 

 こんな急用なら毎日あればいいのに。なんて。

 

 いってこいって言いたくなるけど、今の私に出来ることをやろうか。きっと、理由がある。

 

 力になれることがきっと、あるはずだから。

 

 

 

    

「おまたせ」

 

 軽く声をかけてから、智花の隣へ赴く。どこにでも有るようなママチャリがカラカラと音をあげながら停止する。

 

「いえ待っていないです全然っ」

 

 緊張しながらも笑顔でそう答える。小学生でここまでの人格を作るのにどんな教育をしたのだろうか。度々思わされる思案である。

 

「さーてと、智花は駅から歩きだったよな。ここからだと自転車で直帰したほうが多分いいかもしれない。電車だと時間によるしね」

「え……で、でも自転車は一つしか……」

 

 戸惑いながら智花はチラリと自転車を見やる。俺はそういう思考に一切向かないこの子は本当にいい子なんだなあ、なんて思いながら答えた。

 

「えっと、二人乗りになっちゃうんだけど……」

「ふ、二人乗りですか……?」

 

 ……なんか二人乗りしようぜ、とかキモかったかもしれない。

 

「ご、ごめん! いや、その強要はしないけど……」

「いや、嫌じゃないんです……でもいけないんですよね?」

 

 確かにダメではあるけれど……。三万以下の罰金とか言われているし。でも実際に罰金された人を聞いたことがないんだよなあ。だからやっていいわけじゃないけどさ。 

 

「あの……時間はどうでしょうか?」

 

 少し思考した後、彼女はそう聞いてくる。

 

「そうだな……。電車だと早くて三十分くらい、遅くなれば一時間くらいかなあ」

「………でいいです」

 

 ……よく聞こえなかったな。

 

「自転車でお願いします。……すみません、どうしても早くしたくて……」

「いや、申し訳なさそうにしなくていいよ。じゃあいこうか」

 

 俺は自転車に乗り、彼女にもそれを促した。智花は恐る恐るといった様子でフレームを跨ぐ。  

 

「し、失礼します……」

 

 ふわりと。背中に柔らかい感触を感じる。

 

「──なっ?」

 

 予想外。ぴたりと寄せられた小さな体と、おずおずといった腕が俺の体に回され、有る意味暴力的なまでの存在感を醸し出している。

 

「そ、そうやるのか」

「ふぇ? こ、こうじゃないんですか?」

 

 何かの映画で見たのだろうか。フレームに横座りなど今では絶滅した体制だと勝手に思っていたがそうでもないのか。

 

「あはは……。おーけ、いこう」

 

 まあ、いいか。ただこの姿勢だと俺に抱きつかなければバランスが悪いのでなんとなくバツが悪いぜ、ちくしょう。

 

 ひとまず深呼吸をし、それからペダルを踏む足へ力を入れた。俺のママチャリは緩い坂を下り始めた。

 

 

 

 無言の空域を支配している、車輪の音。そんな中で智花が一言、口を開いた。

 

「……………………どきどきします。……いけないこと、してる」

 

 先に沈黙を破ったのが少女というところに、どれだけ自分が無能かということを自覚してしまう。

 

「……ははっ、なんかごめんな。いけないこと、させちゃって」

 

 かわいいよな、この子は。こんな妹がいたらさぞ幸せだろうに。そんなことをちょっと思いつつ、自宅へと急いだ。

 

 

 

「あら、すばるくん、お帰りなさい。……あら?」

 

 出迎えてくれた母さんが不思議な声をあげた。智花を見ていることから、理由は言わずもがなである。智花は母さんに対して深々とお辞儀をしてこう言った。

 

「湊、智花と申します! あ、あのこの度は長谷川さん……昴さんにご招待いただきまして……。お、お邪魔します!」

「ああ、ミホ姉の教え子だよ。これからちょっと練習するからさ」

 

 母さんはそれに少しだけ驚いた様子ではあったが、その表情をすぐに緩ませ、

 

「ようこそ、いらっしゃい。こんなかわいい子がすばるくんの教え子なんて、あらあら」

「……まあ、いいや。よし、智花。こっちにきて」

 

 母さんは置いといて、ひとまず、智花を庭へと呼び寄せ、俺は近くに設置してある物置から移動用ベースとメジャーを取り出し、マウンドから測り始める。 

 

「あ、智花。悪いけどマウンドのプレートのとこでこれ持っていてくれない?」

 

 俺はメジャーの先を智花へともって貰うべく、それを差し出す。

 

「は、はい! わかりました!」

 

 そして俺はそこから学童野球のバッテリー間である16メーターまでメジャーを伸ばしていく。

 

「よし、ここか」

 

 それに到達したところで地面に軽い印をつけて、ベースを置く。

 

「よーし、おーけ。後はネットもあるし好きにしていいよ」

 

 俺がそう智花に声をかけると智花はもじもじとしながら、決意を決めたような顔をし、口を開いた。

 

「あ、あの! この周りのネットってもしかして──」

 

 周りのネット──。これは簡単に説明すればマウンドから20メートルほどの周りをネットが長方形に囲っているのである。つまり、バッティングが出来る仕様になっているのだ。マウンドの左右とホーム近くの左右に建てられた金属の棒にネットが余すことなく張られている。高校などでは結構あるバッティングの簡易用ゲージ。お手製ではあるが作れないことはない代物だ。ただ、実際にフリーバッティングのようなことは出来るのだが、ネットに覆われているので打球はすぐにネットにぶつかる。故にピッチャー返し以外の打球を見ることは叶わない。すぐにネットに当たるからだ。

 

「こ、これってバッティングゲージですよね?」

「ああ、まあ。でもピッチングも問題なく出来るでしょ? 暴投したとしてもボールがどこかへいく心配もないしね」

 

 智花は一つ間を置いてからこんなことを言った。

 

「あのっ、昴さん! 私と、勝負して下さい。私が投げますので昴が打って」

「……………………勝負?」

 

 まさか、勝負とは。いきなりの展開に面を食らいつつ、ゆっくりと智花の言葉を反芻する。そして目的の意味を思考した。

 

 まあ、別に嫌というわけでもなかった。キャッチャーでもやろうかと思っていたがそれよりも打つほうが面白そうだ。せっかく家にこんなゲージがあるのだし。

 

 ……だが、理由はおそらく。

 

「……それで智花が勝ったら、もう一度みんなのコーチしてくれって?」

「……はい」

 

 まあ、そうだと思ったけど。どうするかな、無責任なことはあまり言いたくはないな。やはり家に招いたのは変に期待を持たせてしまったのか。

 

「具体的にはどうするんだ?」

「……私が一度でも空振りを取れたら、でどうでしょうか」

「それなら手加減は出来ないけど? 安請け合いは互いの為にはならない」

「……はい、わかっています」

「よし、わかった。受けよう。……でも空振りなんてのはどうもな。と言ってもこのゲージじゃ打球なんてろくに分からないし……」

「いえ、こちらが無理を言っているので構いません」

「構うって。俺が小学生に空振りとられないくらいに出来るのは智花なら知っているはずだよ」

「……それは」

 

 そう、智花は何試合も俺のゲームを見たと、そう言っていた。分かっているはずだ。

 

「そうだろう。だからハンデをつける。ハンデってのは情けなんかじゃないよ、勝負を成り立たせる為のものだ」

「……わかり、ました。……ありがとうございます」

 

 めちゃくちゃ不服そうだ。こういう優遇された勝負が嫌いなのか。まあ、俺も同じではある。だが、いくらなんでも高校生と小学生では、ハンデを付けないというのは無理があるだろう。しかし……、ああ、憧れとまで言ってくれるのだから、俺を負かせばそれにぐっと近づいたことになるし、そういうことかな?

 

 さてと、

 

「……じゃあ、勝負の方法だけどさ。俺は右打ちで。俺がバックネットへ一球でもファールを打ったらそれで負け。空振りでも負けだ」

「そんな! ハンデ重すぎますよ! そんなの! ファールでもダメだなんて……」

 

 これは予想していた。だが、右打ちでも問題はない。変化球を混ぜるわけでもないし、120を超えるような球を投げるわけでもない。おそらく、フリーバッティングでは最適な球がくるだろう。

 

「昴さん!」

 

 バックからバッテを取り出して、手へと嵌める。そして、中学時代に使っていた軟式用バットを取り出した。

 

「とりあえず打ち取ってみな。それで不服だったら左で打とう」

 

 

 

 

「肘が下がり始めてるよ! 球を離すのも早い! 力むな!」

「わかってる!……ます!」

「それとも諦めるかい?」

「絶対嫌っ! だって球数決めてないも……ません! だからまだ終わりじゃありません!」

「はははっ!」

 

 いいね、最高だよ、この子。このフォーム。球筋、ここまで綺麗な回転はそう、お目にかかれない。時々、緩急をつけて投げてくるスローボールもストレートと変わらない腕の振りでわかりづらい。すげえ! すげえな! おい!

 

 ぶっちゃけ、ずっと育ててみたいくらいに呑まれてしまう。球速だって105キロは出ているだろう。この時期の女子にしては破格だ。まして、制球力も含めれば尚更のこと。

 

 ──しかし、ここまで投手向きの人間だったとは思わなかった。ワクワクする。

 

 バッティングの時はあんなに冷静な感じだったのに、投げている時は真逆だ。クールなエース? そんなもの犬にでも喰わせていろ。投手はいつの時代だって闘争心剥き出しの熱血漢な奴が試合を震わせる。

 

 内角ギリギリを容赦なく攻めてくる。時々服に掠るくらいに。見せ球として顔近くのインハイまで混ぜてくる。小学生はデットボール当てんのが怖いからこんなとこに狙って投げるピッチャーなんてそういない。つーか、そこまでの制球力を持ってんのは県大をベスト4以上いけるようなところのエースだけだろ。いや、それでも難しいか。

 

 これで中学で変化球を学び、後はもっと細かい緩急やクイック、小技を覚えれば最高の投手になれるかもしれない。現時点でもこのレベルなのだから。

 

 

 

 

「…………うぅ」

 

 母さんが持ってきたお菓子を片手に智花は悔しげな声を漏らした。

 

「まあ、いくら右とはいえ、元々の利き打ちでもあるからね。それに毎日右でも振っていたから」

「……はい」

 

 しかし、すごい落ち込みようなのだが……。普通の小学生って高校生に勝てるなんて真面目に思う人いるのか? それを思えるのだから智花の負けず嫌いはとてつもない。

 

「……大人気なくてはごめんな。それでも智花も適当にやられたら嫌だと思ってさ……。それに勝たせてあげられないのにコーチを受けるわけにはいかなかったんだ」

「勝てない………、ですよね、……やっぱり」

 

 深く深く、智花の表情が落ち込む。そこまで嫌、なのか。そんなにあのチームで試合がしたいのか。

 

 しかし、何故なんだ。なんでここまでの選手があのチームで、そこまでやりたいのだろうか。智花だって理解してるはずだ。真帆のいうレベルでいえば言葉に出すのも烏滸がましいほどに離れているのに。なんで。

 

「……なあ、智花。どうしてあの部に入ったんだ? 前は別のチームで野球していたってミホ姉から聞いてる。それを抜けて……どうして今の、初心者だけのチームに?」

 

 違和感のそれに負けてしまい、口にする。智花は瞳を俺から逸らしたまま、口ごもる。しかし、やがてふっと力を抜き、こちらを向くと、柔らかく、でもどこか寂しそうに笑った。

 

「昴さん。実は私、一度野球を辞めたんです。今の部に入る前に」

 

 ……え? 理解がなかなか追いつかなかった。智花はいい子だ。俺のように嫌がらせを受けて退部するようには見えなかった。それとも──。いや、分からない。あそこまで理想を奏でたような選手が何故。

 

 智花はゆっくりと顔を上げ、しばらく迷いの表情を見せた後、決意のそれに変え、口を開いた。

 

「……昴さん。少し長い話になりますが、聞いてくださいますか? やはり昴さんには知っていて欲しいんです。ずっと目指してきた昴さんに。そして、真帆、紗季、愛莉、ひなたのこと。きっと、もう会うことはなくなってしまうから。だから──最後に昴さんへ憧れた後に見つけた私の大好きな人たちのこと」

 

 先ほどとは一変した表情に圧倒される。俺は呆然とした返事を出すと、それを機に智花は語り出した。俺の知り得ない、彼女たちの物語を。

 

「私は去年の今頃、まだ慧心学園の生徒ではありませんでした。その頃は、公立の小学校にいて、そこの野球部に属していました」

 

 ……そう、だったのか。てっきり、リトルなんかにいたのかと思っていたが。……だったらなんであそこまでのフォームを手に入れているのだろうか。指導者がそんなにも優秀だったのだろうか。

 

「かなりの熱を入れて、部活をしていました。先ほどで知られてしまったと思いますが、野球……とくに投げることになると凄く負けず嫌いになってしまうんです。どうしても勝たなきゃ気が済まなくて。多分、野球が好きすぎて、自分勝手になっちゃってました」

「……いや、ダメなことじゃないと思う、けど。それに智花が自分勝手って……」

「いいえ、私のは明らかにおかしかったんです。試合に負けるなんてあり得ないって感じで、昴さんにも近づきたくて。それでもなかなかうまくいかなくて……。毎日に、これでもかってくらいに練習しました。……それを他の部員のみんなにも強要しました」

 

 それはきっと、俺が知らない、多分、真帆たちも知らない智花。

 

 智花はそれから更に語る。彼女はそれによって孤立をしていった。男子さえも追い抜かし、女子メンバーで唯一のレギュラー。そして、エース。だからこそ、チームの中での彼女たちのは疎まれ、妬まれ、嫌われていった。そして、そこから──慧心学園へと編入した。

 

「その時、正直かなりホッとしてしまったんです。野球部はあるけど、前の私を知っている人はいない。これで後は野球に触れなければなにも嫌な思いはしないって。昴さんのこともありましたが、弱い私はその時、どうしても野球をやる気にはなれなかったんです」

 

 小学生の、ましてや同胞からの冷酷な視線はきつい。さらには小学生のスポーツというのは保護者が多大に関わる。おもしろく思わない心狭き大人もいたに違いない。情けなくはなかったのか、格好悪いとは思わないのか。この世界は何故でる杭を打とうとするのだろうか。何故、素直に認めるのを嫌うのだ。

 

 だが、彼女は俺と同じくやってきた全てを捨てたことに心が不安定でもあったのだろう。誰とも仲良くなれず、その場でもひとりで。

 

 怪我をしたアスリートが自暴自棄になるなど、よくある話だ。

 

 似ているところはあるのだろう。小学生の女の子に、簡単に乗り越えられる問題ではない。理解者がいないのだから。

 

 そんな日々が続き、ミホ姉が体育をソフトボールに変更したそうだ。それにより、智花は嫌だな、と。本気になれないならやらないほうがずっとマシだって。そう思ったらしい。

 

 ──その思いはよくわかった。一成には草野球でもやれば? と言われたことがあるが、それはなかった。虚しいのだ。ひたすらに。

 

 打てても嬉しくない。

 

 本気の試合に本気の練習をして臨むからこそ、光ものがある。それを無くしたら。

 

「だから私は端っこの方で適当にボールを転がして見ていたんです。そしたら、男子と女子のケンカが始まって……。見たらその女子は真帆で」

 

 当時はまだ、仲良くなっていなかっただろう、真帆。そして、

 

「美星先生は、そういうの大好きですから、宥めるどころか焚き付けて。結局、男子対女子の試合が始まりました。……美星先生は強引に私を加えさせたんですけど、私の耳元で『本気、出していいよ』って。その後に男子の──野球部の子が自信満々なのを見たら、また変な病気が出ちゃって……。……勝ちました。捕手は美星先生がやってくれたので下投げですが投手をやって、殆ど当てさせませんでした。そして、私が数本打って……、試合を引っ掻き回して勝ちました。チームプレイのかけらもない独り相撲な勝ち方でした」

 

 それから智花は引かれただろうな、と。これで友達なんか絶対出来ないって思っていた矢先に──

 

「すごい元気な、ケンカしていた女の子──真帆が話しかけてきてくれたんです。すごいって。ソフトやってたのって、だから私、野球って一言だけ答えました。すごく緊張していて真帆からしたらきっとぶっきらぼうに見えたと思います。……なのに、次の日も次の日も、あたしにも野球って出来るか、って聞いてきて。すごく嬉しかった。そして真帆とは気づけば──友達になっていました」

 

 真帆──。あの子があそこまで必死になったのはもしかして……。

 

「それから真帆とはたくさん話すようになって。でも野球の話はあまりしないようにしていました。それでも真帆は野球のことをすごく聞きたがっていて。……全部、話しました。そしたら真帆は、絶対にもう一度やろう、今度は男子なんかいないチームを作ろうって。そんなのいいよって言っても聞いてくれなくて、あはは」

 

 真帆も魅せられたのだろう。きっと。

 

「それから顧問は美星先生へと簡単に決まり、とりあえず人数を集めなきゃいけないって。だから来週の日曜日までの期間をもらいました。でも、人数が集まらなければ廃部で……。無理だって思ってました。でも、真帆が紗季を誘ったんです」

 

 紗季は最初、なかなか承諾しなかったそうだが、真帆があのアイガードを買ってきて、それの責任を取れなどというなんとも彼女らしいやり方で紗季を引き込んだ。

 

 そして、愛莉やひなたの勧誘は

すぐに済んだ。真帆の人望というものがそこまでとは思っていなかったな。謝らなければいけない。愛莉もひなたも真帆に借りが──背のことをかばって貰ったり、給食の残りを片してもらったり──あるらしく承諾したのは早かったという。

 

 氷解していく。疑問の一つひとつが。しかし、……もう会うことはなくなってしまうから、といった彼女のあの言葉。それはおそらく。

 

 智花は恐れていた。彼女たちとのやる野球を怖がっていた。だが、それも取り越し苦労であると、そう気づいたそうだ。

 

「……小さな遊びのようなものをしたり、ちょっとした練習をしたり。私は今まで一番楽しくボールを投げていました。なんだろう……わからないけれどとても暖かくて。泣きそうになっちゃいました。こんなに楽しいキャッチボールは始めたばかりの頃──野球を、球を投げることを知れたあの頃以来なんです」

 

 感謝の二文字を視線と共に乗っけてくる。

 

「勝ち負けなんかよりもずっと上回ったんです。きっと。……それでも今日みたいに上手い人とやるとダメですね、どうしても熱中しちゃいます、あはは」

 

 長い物語を、そして、本来ならあまり口にしたくない部分もあったはずだ、それを語り終えてから彼女は照れくさそうに笑った。

 

 分かった。どうしてそこまであそこを大切にするのかが、知れた。

 

 だが、これを聞かなくてはいけない。

 

「……次の試合、負けたら智花はどうするんだ?」

 

 智花は照れくさそうに笑ったそれから切り替え、俺の目を見て、

 

「──辞めます、野球。そして、二度しません」

 

 ……やっぱりか。もう、会うことはない、といった言葉はこういうことで──

 

「もう、他の場所でやる気はないってこと?」

「はい」

 

 迷いはない。

 

「今でも熱い気持ちはあります。ずっとやってましたから。それに昴さんにだって追いつきたいです。……それでも、そんな野球を捨てたとしても、無くしちゃいけない場所が出来てしまったから、だから辞めます。あの場所を守れるのであれば未練はありません」

「……どうして、そこまで……。学校や遊びでみんなといることは出来るんじゃないのか」

「もし負けて、部がなくなった後も私が野球へ顔を向けていたらきっとみんなは悔やんだままになります。真帆なんかはきっと、責任を感じてしまいます。自惚れじゃなく、そういう子たちなんです。そんな優しいみんなが私と共に部活をつくって、そして、楽しくやれる野球を教えてくれました。そこを失ってまで野球をやる意味はきっと、もう、私にはありません。みんなさえいるならば、私は笑えます。前のように暗い底で足掻くような自分じゃなく。みんなが私にとって一番大切だって、証明するために……きっと、野球は邪魔になるんです」

「……好きだって気持ちに嘘をつくのか?」

 

 ──言えた義理じゃない。それでも。

 

「嘘じゃないです。捨てるんです。野球は好き、目標だってある。それでも今のところみんなに変わるものはないんです。どちらかを取らなければならないのであれば、私はみんなといる、それを選びます。野球は、その次」

 

 人脈は宝だと言ったのは誰だったか。友人は宝だと言ったのは。

 

 一生の友人なんて出逢えない人間のほうが多い。彼女は出会えたのかもしれない。俺と同じく。

 

 今はそんなに会うことはできないが。それでも、俺を拾い上げてくれた中学のみんなのように、出逢えたのだ。だが、それでも、その時の俺とは違い、片方が終わりへと向かっている。

 

 弱冠12才の、夢が。

 

「……でも、だったらなんで俺にもう一度コーチを頼もうとしたんだ」

「……そうですね。結局弱いのかもしれません。本当は無理に納得しようとしてるのかもしれない。……やなんです、きっと。あの時に言わなかった昴さんとの出逢いを無くすのが。そして、夢を壊すのが、結局は

譲れないのかもしれない。それでも、みんなもそれ以上に譲ることなんて出来ないんです」

 

 ……あの時言わなかった──。それは彼女にきっと俺は会っていて、知っていて──。俺にとっての何でもない時間は、智花にとって、野球との出逢いの時間で。それを彼女はずっと抱えて生きて──。

 

──自分には負けないで

 

 リピート。

 

──自分には負けないで

 

 再度。

 

──自分には負けないでええぇぇぇ!

 

 いや、まさか。しかし──。

 

 人とは不思議なことが好きだ。時々、何かを思い出せば、それを都合よく運命的だ、なんだ、と。奇跡だなんだと。

 

 でも当たることもあるだろう。

 

「……だから、私は大丈夫なんです。次にはいって見せます。『さあ、次は何をしよっか?』なんて」

 

 俺は呆然としていて、智花は覚悟を決めたかのように笑っていて。それを俺は眺めていて、彼女は空を見ていた。思い出を噛み締めるように。

 

 

 

 

「申し訳ありませんでした。こんな時間まで……」

「ぜーんぜんいいのよう。良ければご飯も食べていってほしかったのだけど……。智花ちゃん、今度また来たときはご飯食べていってね」

 

 空は茜を映している。雲は夕焼けに染まりきり、太陽の半身は地平線へと浸かり始めている。その光を受けて、先ほどシャワーを浴びていた智花の火照った頬も、目立つことはない。

 

 俺は、ひたすら彼女の球を受けた。ミットを構えながら受け続けた。綺麗な球筋を目に焼き付けながら、受けた。

 

 僅かな距離のキャッチボール。距離は短いのに、その一球一球を受けるのはとても長く感じた。

 

 ただ、互いに交わすのはボールだけであり、無言の静寂に響くのはグラブの音のみ。

 

 夢で見たのと変わらない、理想的なフォーム。彼女のそれから繰り出されるストレートは最高で。

 

 脆い。

 

 あり得ないことだけれども、球が泣いているような。宙を駆けるストレートから聞こえる風切りの回転音は、その投手の想いを現しているように、空しく耳に届いた。

 

 これが、失われるのか。

 

 いいのか、許せるのか。

 

 俺から始めたのかもしれない、彼女の野球を。俺が見切りを付けて、そして。

 

 俺みたいになくさせて、いいのか。

 

 最高の友人と出逢い、その中でやる、“楽しい野球”を、全員で勝つような野球を、味わうこともないままに。

 

 この蕾を摘ませていいのだろうか。

 

 もう、智花は歩き出している。俺と母さんへとお別れを言った後に、野球と“憧れの目標”とさよならを言うような、そんな顔をしながら。少しだけ、ほんの少しだけ名残惜しそうに、歩き出している。  

 

 春はまだ、終わっていない。夏はまだ、来ていない。

 

 それなのに、終わる野球なんて──今の俺だけで、もういらないだろ。

 

 諦める、故障でもなんでもなく、理不尽になくすのが避けられない。俺はそうだった。今は、とにかく、そうだ。

 

 けれど、まだ避けられる可能性が極小に残されているかもしれない子供たちが、手を伸ばせば届く所にいて、俺は伸ばす、のか。

 

「…………なあ、母さん」

「……すばるくん」

「行ってくるわ、俺」

「──っ! ええ、いってらっしゃい」

 

 手元には先ほどまで使っていたC球があり、それを握りしめる。

 

 これは俺と野球とのけじめでもある。好きなのに嘘をついていたのは、俺のほうだった。

 

 いじけていたのは俺だ。

 

「母さん、飯、三人分なっ!」

「うふっ、了解!」

 

 俺はそれだけを言うと玄関から飛び出した。

 

 

 

 

「──智花っ! 待って、待ってくれっ!」

「……………………ふぇ?」

 

 走りながら、息切れしながらも言葉を出す。

 

「………………やめんなよ」

「……えっ?」

「もう、冷めていた。そう思い込んで結局誰かに助けてもらいたくて。そんな毎日を送っていて、智花にあの広場であった」

「……………………」

 

 もう無理だ。何をしていても苦しい。やりたい、野球がやりたい。そして、やらせてあげたい。

 

 高校野球以外ならやれることは腐るほどにあって、それでもそんなの意味ないって塞ぎ込んで。

 

 俺は高校野球が好きなのか?

それとも“野球”を愛しているのか?

 

『昴はさ、野球ってつくものなら全部肯定しちゃうくらいバカじゃん』

 

 くそ! 結局だ、ミホ姉には勝てない。でも勝てなくてもいい。

 

「理屈や現実的に見れば無理だからと、好きな野球から目を背けていたんだ。感情で語ることをせずにかっこつけて、野球はもう、やめたなんて言っていた! 智花、君が憧れたのはこんな俺じゃないよな?」

 

 智花は顔を伏せた。肩が少し震えている。そして、智花は質問の答えとは違ったことを口にする。

 

「……高校でやれなくても、昴さんの、お側で、昴さんの“野球”が見たい……、見ていたい」

 

 人一人いない、オレンジ色に染められたコンクリートに二つの影。大きい影と、小さな影。

 

「だって、だって……、あなたに教わったんだもん! 昴さんのようになりたくて始めたんです! なのに、どっちかなんて……どうすればいいのか、分からなくなります……。みんなも、野球も。本当は欲しい、どっちも離したくないっ!」

 

 でも、そう呟いて智花は、

 

「──私じゃ守りきれない! 私の力ではみんなとの居場所を守るのに手一杯で──」

「守ってやる」

「………………え?」

 

 最初に会った、あの時。俺に隠していたことを吐露した。俺が始まりであったならば俺が終わらせることをしてはいけない。

 

「──始まりが俺なら、その続きを繋ぐのも俺がやる。最後の最後までやる。君の野球も、居場所も、俺が守る。……智花、守らせてほしい」

 

 目を見て、離さずに。智花は光を瞳に灯らせ、しかし、それをすぐに潜めてしまう。

 

「でも、勝てないって……」

「……ああ、簡単なことじゃない。今は可能性はゼロに近い。それでもだ、奇跡のようなことが起きるのも野球だ。あり得ないことが起きて、勝つことがあるのも野球なんだ」

 

 ──どうして日本のスポーツ漫画で野球のものが多いのか。簡単だ、試合においてドラマが生まれやすい。漫画の世界のような、弱小が甲子園を制する──、これが今まで何回も起きている。こんな漫画の世界のようなどんでん返しが起きるのがこのスポーツの特徴でもある。

 

「──自分に負けていた。野球をやっているときは負けなくても、やれなくなった途端に負けていた。それに気づけたのも智花のおかげだ」

 

 直感だ。

 

 彼女しかいないと思えた。自分に負けないことを叫んでくれたのは彼女だと。

 

「前言撤回だよ、智花。今までの俺の弱虫は全部消した。勝てないじゃない、もう勝ちにいこう、智花。見逃し三振は嫌いだ。どんな結果になるかは分からないけど、それでも、振りにいく。地区優勝? は、それがなんだ。俺がいる。全国の指導を君たちにしてやる。そこに君のような選手がいる。君は──誰よりも凄いんだから」

「────────ぶぇっ。ずばる、ざんっ……! が、まん、しなくて、いいんですか……」

「するな、しなくていい。俺が死ぬ気で勝たせる」

 

 俺に足りなかったのはグラウンドにいたあの頃の感情。負けない、という徹底的な想い。こころ。

 

 そして死ぬ気だ。

 

 智花は泣いている。ずっと、心で苦しんでいた。もしかしたら前から心では泣いていたのかもしれない。彼女のダムが決壊し、その中にあったものが、とうとう溢れ出した。

 

「……あのさ、智花。少し時間くれない? 出来ればウチに来れないか? 親御さんが大丈夫なら、だけど……」

 

 必ず、責任を果たそう。

 

「えぐっ……大丈夫です。きっと、電話すればっ」

「そうか、良かったよ。じゃあ、詳しく教えてくれ、野球部のこと。よし、ウチに戻ろう。せんずは俺の部屋で作戦会議だ」

「…………うぐ、ひくっ…………ふぁいっ!」

 

 

 

 

 俺はその夜、ミホ姉の自宅へと訪れていた。

 

「にゃふっ、やっぱ来たね」

「……うるせえ」

 

 待っていましたと言わんばかりにそう口にする叔母。

 

「聞きたいことがある。男子野球部の顧問の野球歴、わからないか?」

「は?……えっとねー、なんか雑談のを盗み聞きしたくらいだけど……中学か小学くらいじゃない? とにかくあんまりやってないよ、多分。監督始めてから火がついたみたいなこと言ってたし」

 

 ──僥倖だ。素人監督は余程優秀でない限り、必ずボロがでる。とくにサインを送るときなどに出やすい。後は……騙しやすい。

 

「うわっ、悪人顔。やーね、頼むから犯罪は勘弁してよ」

「大丈夫だ、するわけないだろ。後は、何かデータのようなものを……うわっ」

 

 ドサリと渡されたそれは、DVDやスコアブックのようなもの。それが敷き詰められたダンボール。

 

「それ、持って行きな。来ると思ってたからとっといた。まあ、練習試合とかのだけどね」

「……スコアつけられんの?」

「うんにゃ。人に頼んだんだよ」

 

 ……まあ、いいや。ありがたい。

 

「……じゃあ、俺帰るから」

 

 俺はそれを受け取ると部屋を出ようとするそこに一言、声がかかった。

 

「……おかえり、昴」

「……ああ」

 

 ──ただいま。

 

 

 

 

   -交換日記(SNS)06◆

 

『やったよっ、みんな! 昴さん、もう一度来てくれるって。私たちの居場所を守るために一緒に戦ってくれるって! 勝とうって言ってくれたよっ! 湊 智花』

 

『良かった……。ほんとに。 あいり』

 

『おー。おにーちゃん、おかえり。 ひなた』

 

『あああああ、テステス。えっ? これ入ってるの? れん』

 

『おー! れんれんもきたかー! つーか、すばるんもすなおじゃねーなー。 まほまほ』

 

『泣き顔見えてるぞ。 紗季』

 

『は? は!? ないてねーよっ! ぜんぜんないてねーよっ! まほまほ』

 

『……にしても昴さん、ね。にひひ。 紗季』

 

『……? どうしたの? 紗季? 湊 智花』

 

『みなさん、こんにちわ。はじめまして。夏目と申します。 伊織』

 

『……あたしなんかがきていいのでしょうか? 前鈴』

 

『前鈴ってりんりんかよっ! まほまほ』

 

『おー。いおり、こんにちわ。 ひなた』

 

『五十鈴ちゃん、これからよろしくね。 あいり』

 

『はいっ! よろしくお願いします。 前鈴』

 

 

 

 

「ねえ、昴のこと、覚えてる?」

「当たり前だよ、姉さん。それにボクが忘れてるわけないでしょ」

「今日ね、美星ちゃんから電話があった。それで、慧心学園のコーチをしてるらしい」

「は!? あれ? 高校野球は……、そっか。そうだったね。それでどうしたの?」

「学童野球は他校の生徒がいても基本的に問題がない。だから、こないかって」

「……大丈夫、かな。それにウチの学校女子校だから野球部に入ったことないし……」

「大丈夫、ずっと私とキャッチボールしてたから」

「……なら、行ってみたい」

「じゃあ、そう返事しておく」

「……ありがと」




 
 小学校はミニバス、サッカー、野球などどれにおいても他校の人間が入部するのが可能です。むしろ、拒否などしたら問題です。

 その学校に部活がない、また、その部活の人間関係が嫌な場合、他校の部に入るのは許可されています。

とくにミニバスなんかは野球、サッカーと違い、部自体がないところもそれなりにあるので、他校にいくことが結構ありますね、地域なども関係しますが。

後は、監督が素人うんぬんは非常に重要です。
試合前のノックなどて大体どれだけの野球歴があるかは推測できます。
それにより、経験の有無を判するのです。

 サインの出し方に癖が出やすいので、後半になればスクイズだろうが、エンドランだろうがもろわかりになる場合があります。

 うまい監督はそれを餌に撒いて、無駄に警戒させることもしますが。

 では、また次回で。
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