日が暮れ始める放課後の最中。雲色は純白の様相からオレンジをまぶした色へと変色している。空を通り抜けるカラスの鳴き声はなんだか俺の心境を代弁しているかのようだ。肩にやけに重圧を感じる。高校へ持って行く意味のないもの──グラブやボールなどが詰まっていた。高校野球をやる場合、部室のロッカーに教材を置いたりすることもあるので、いつも高校専用のセカンドバッグ……セカバンに課題などのものは詰めていた。そのため部活がなくともこのようなもので通っている。
(……そろそろスクールバッグでも買うか。デカくて重いだけだしな。こんなの)
そう重いながらバンっと指で弾いた。失ったものを込めているカバンを担いで帰る姿は何となく滑稽だろう。間違いない。しかし、それでも利き腕である右肩にカバンを背負うことはしなかった。もはや習慣より習慣となっている。実際に肩に物を背負ったり、右を下にして寝るのは気持ち悪ささえ充分に感じた。
少し前まで──中学生まで使用していた広場へ足を運び、腰を落とした。芝生で染められた緑の絨毯は草の爽やかな匂いを振りまいている。その中で背を伸ばした。そのまま後方へとドサリ。寝転んだ。
このまま目をつむっていればあの頃を思い出す。
──軟式をしていた俺は高校での事も頭に入れて硬式のシニアチームに所属した。中学の最初の年のことだった。小学生のころから同年代では球速はそれなりに抜けていたと思っている。中学から背も伸び始め、夏頃には120辺りまで球速を伸ばすことが出来た。まぁ、軟式と違い硬式は球速が出やすい。だから急に伸びたようにも感じたのだろう。硬式、所謂シニアリーグでは年によって中学三年生で145を投げたという人もいた。そんな怪物に比べれば世の中の投手の球速など大したことはない。だからこそ上を目指し、決して慢心はしなかった。その結果、実を結んだ……とは言えないし、言いたくないがそのチームのエースの三年が肘を故障。それにより早くも三番手であった自分は二番手に繰り上げ。背番号は18だった。せめて11が良かったのだが三年最後の大会だ。多少監督の情もあったのかもしれない。とにかく、それにより大幅に登板機会が増え始めた。県予選で二番手の二年生との継投──。順風満帆に行くかと、そう思われた。
しかし……。二年生の乱調が目立ち始めた。見ている限り、現時点でのエースナンバーを牡丹餅から得た先輩はそのプレッシャーや気負いから何から精神がぐちゃぐちゃにかき混ぜられたのだろう。投手は些細なことで壊れる者が毎年いる。先輩もその一人だった。それからは先発は俺、球数が多いときのみ先輩のリリーフになった。さらには乱調を気にして俺はマウンドを降りてもライトへ守備変更。つまり、一度下げたらその試合は出れない野球のルール上、もしも先輩が崩れたら再び俺をマウンドへ戻さなければならない。そのための処置だった。俺が下げられず、ライトへ入れられた時の先輩の顔は正直忘れないと思う。帽子のつばを下に引き、歯軋りが聞こえるほどに悔しがっていたからだ。
でも、これがいけなかった。
力んだ先輩は幾度となく四球を繰り返した。フォアボールが怖くてゆるく投げたたまを打たれるしまつ。典型的な──言っちゃ悪いが──ダメ投手の見本だった。たった三人を打ち取るのに球数は32球。試合のテンポにも影響してくる。
俺は一年だからこそ気楽に投げられた部分もある。なんだったか……ビギナーズラック。これに近いところがあった。精神的に打たれても一年だからで済ませられることもあり、そんな情けない理由は本来ならいらないがやはり心を軽くしていたのは違いなかった。
結果として俺は県大会から背番号1をもらい受け、珍しい一年生エースなどと持て囃されることになる。シニアチームは軟式と違い、数があまり多くない。そのためあっという間に関東、全国へと足を伸ばすことになった。勿論、これにはチームの総合力が否応無しに関係している。自分がすごいというよりは、単純に取られる点より、取る点の方が多かっただけである。だが雑誌や新聞などではそれなり騒がれることになるだろう。なにせ一年生で全国に行くのだ。結果的にはベスト4で終わったのだが。
──このまま、いつかは全国でも……なんて幻想は続かない。否、続けられなかった。チームの雰囲気は悪くない。しかし、ベンチに一人だけの一年。そして背番号1。雑誌でも取り上げられるのは俺のことばかりだった。
孤立していく自分がいた。
まぁ、気持ちよく思う人はそこまで多くないだろう。そりゃそうだ。禄に会話もしたことのない一年がベンチ入り、さらに背番号1。なんて。今までで一年からベンチ入りしたのは片手で数えるほどしかいなかったらしい。それもチーム結成からの話だ。つまり一年でベンチ入りするだけでも先輩からは気にくわない。試合中、スタンドを見ればベンチ入り出来なかった三年、二年、そして一年が太鼓を叩き、ベンチのポカリやアクエリなどの補給を急ぎ、応援歌を歌っている。試合前の練習でもベンチ入り以外は学年問わずサポート&球拾い。そんな環境で俺を歓迎する人間は……。いない。皆、まだ中学生だ。妬むな、全てチームに捧げろと言われてやれる者がどれだけいるというのか。事実、顔には何とか出さなくとも思っている者はいただろう。
最初は些細な嫌がらせ、憂さ晴らしも積もれば罪の意識など簡単に消える。グラブやスパイクが水浸し。こんなのはよくあるほうだった。そんな中で同級生も先輩から釘を刺されているのか哀れみの目では見ても救おうとした者はいなかった。
すべてを言えば俺は退部した。ヘタレだ、根性なしだと罵られようと気にかけない。気にかけるほどに精神の体力を残してはいなかったのだ。もともと実績のあるシニアだったからこそこんなことになった。そう悟った俺は中学にあるたった十数人程度の弱小軟式野球部に入部することにしたのだ。これが高校で強豪にいかなかった一つの理由でもある。結局のところその野球部から歓迎され、皆口々にこれで県へ行ける! などと暖かい言葉をかけてくれた。素人の押し付け顧問だった先生は俺に練習メニューなどを託し、今度こそ皆でやる野球をしようと睡眠をけずってまでチームのことを考えるようになった。これにより最後の夏、関東準優勝まで辿り着くことが出来たのである。
──それで、今はこのざまだ。さぞかしシニアのチームメイトが知ったら嘲笑うだろうよ。
なんとなく空を寝ころんだまま見上げる。朱に染め上げられた空はきれいだった。手を握る。出来ていたマメがぶつかり合う。そして。
俺の顔上を白球が通過した。
「あ、あぶっ!」
危ない! 鼻スレスレだった。一体何事なのか。そう思い、顔を思い切り上げた。
「あ、あの! ご、ごめんなさい!」
場合よっては軽く文句くらいはかましてやろうかと思ってはいたのだが……目の前にいたのはほくろが特徴的でショートカットの女の子だ。目をギュッと瞑りながら必死に頭を上下させていた。
「あ、ああ。別に当たってないしさ、顔上げて。大丈夫だから」
すっかり毒気が抜かれ、怖がられないように優しく声をかける。すると、女の子は「ありがとうございます! あ、あの本当に大丈夫ですか?」と聞いてきて突然目を見開いた。
「……は、長谷川、昴さん」
手で口を覆い隠し、目を開いている。ピンクに染まった髪は夕焼けの光を受けてより赤みを増している。とりあえず突然の名指しに俺は返した。
「……えっと、はい。そうです」
なんとも間抜けな返事だなぁ、と自分でも思うのだが。俺にとって小学生の知り合いなどいないし、いたら野球部のことを思い出すので嫌だ。しかし、女の子は突然につぐ突然を繰り返し──
「や、やっと会えました! 長谷川さん!」
見事に腹へとダイブしてきたのである。そして現在状況は人気のない広場の草むらの上、上半身だけを起こしている俺の上に女の子が馬乗りだ。少々、というよりかなり危険だろう。ともかく通報されれば弁明むなしくお縄である。部長と同じ一途を辿りかねない。
「ちょ! ちょっと待った! 君は!?」
ひとまず世の中の小説主人公たちのようにラッキーイベントすらしたらやばい状況。俺はいけないところを決して触れないように肩を掴んで引き離した。女の子は焦りからあわあわとしながら再び頭を下げた。
「ご、ごめんなさい! ……やっぱり覚えてない、ですよね」
最後のほう、かすれたように小さな言葉は俺へと届くことはなかった。
◆
広場へとついた私は壁当てをしようとボールとグローブを持って壁を睨んでいた。壁には描かれた円三つ。三重になっているものの真ん中に当てるのが練習なのだ。
ついた矢先に私から放たれたボールはポーンと小気味のいい音を立てて。
私へと返ってこなかった。
落下地点にあったデコボコに跳ねられて私がいる場所とは別方向へ行ってしまう。見れば少し離れた芝生に寝ころんでいる男の人が一人。多分高校生くらいかな。とにかく明らかにボールはその人目掛けて跳ねている。
「ふぇ!? た、大変!」
焦りが脳内をとめどなく侵していく中でボールは──ギリギリその人の鼻上を通過した。正直掠ってさえいそう。
「あ、あぶっ!」
横になっていた体の上半身を起こしたその人の顔はよく見えない。髪が少し長いのかな? それに怖くて凝視など出来るはずもなく。とにかく近くへ寄ってから頭を思い切り下げた。
「あ、あの! ご、ごめんなさい!」
必死に言葉を漏らした。少し震えていたと思う。すると、前方からなんだか懐かしさを含んだ優しい声音が注いだ。
「あ、ああ。別に当たってないしさ、顔上げて。大丈夫だから」
安心させるような物言い。私は再び頭を下げた。
「ありがとうございます! あ、あの本当に大丈夫ですか?」
そう言いながら顔を上げた。
──嘘。誰にも聞こえないほどの声が口先から漏れる。目を見開いていた。
「は、長谷川、昴さん」
かつて──幼き日に。きっと目の前の人も覚えてなどいないだろうけれど。今の私にボールの投げ方を教えてくれたその人がいた。
たった一日。僅か数十分。その時間は薄れることなく私の中で時を停めていた。決して薄れないように。その時計の針が一秒動いたような気がした。
「……えっと、はい。そうです」
少し呆けている長谷川さんに。私は飛び込んでいた。
「や、やっと会えました! 長谷川さん!」
思わず押し倒してしまう。それでも嬉しさから正常な思考などできやしない。それほどにこの出会いは特別だったのだ。
──あの日から野球に興味を持った。最初はお母さんやお父さんにも反対されたけれどそれでも野球をしてみたかった。あの人のようなボールを投げてみたくて。私は野球を始めた。
新聞に目を通して長谷川さんを見つけた時は心臓が跳ねた。成長していてもあの人だとすぐに理解できた。
『……長谷川、昴、さん』
あの日に知り得なかった名前を新聞で知った。その記事はスクラップにして何回も何回も読んだ。それほどに誇らしさを感じたのだ。自分があそこで出会い、このスポーツに出会わせてくれたその人が、こんなにもすごい人だなんて! と。
それから長谷川さんの試合を度々見に行った。声はかけようにも常に集団で行動する部活の都合上難しいし、大会などで声をかけるのは非常識だと思ってしなかった。
それでも見に行けるときは見に行った。ビデオを撮ってフォームを真似たこともあった。
だからこそ、目の前に確かにいる長谷川昴さんに対してこの思いを抑えることができなかった。
「ちょ! ちょっと待った! 君は!?」
その言葉に頭が冷やされ急に恥ずかしくなる。私は長谷川さんから体を離し、再び謝った。そして。
「ご、ごめんなさい。……やっぱり覚えてない、ですよね」
空中に消える小さな声で最後を呟いた。
──やっぱり。分かっていたことではあるが。それでも淡い希望は捨てなかった。
あの日から動いていない。褪せないように停めていた時計の針は、やはり次の秒を読むことはなかった。