打たせて取る。これが小学生からの俺の投球スタイルだった。いかに球速があろうとも 大してアテにはならない。小学生は高校やプロのように9回までやることはない。やると すればそれは延長戦の時のみだ。7回しかない攻撃と守備を絡めることで勝利を掴む ──。ちなみにリトルリーグは6回まで。このように短い回で試合を進めるのは勿論理由 がある。小学生のように体のできていない子供たちの負担を減らすためだ。
肩は一般的には消耗品とさえ言われている。この意味は分かりやすくいえば、一球投げ るごとに肩の体力ゲージが消耗していく様を思い浮かべればいいだろうか。しかし、実は これは医学的観点から見れば必ずしも正解ではない。投げればより強くなるのも肩だから だ。しかし、甲子園などで一人で投げ抜き、優勝した……なんていう投手は得てしてプロ で潰れる比率が高いのも事実。結局は何事もし過ぎない。そしてその後のケアがものをい うのだろう。俺自身、小学生のころから投球すれば“アイシング”という冷却もので冷やし てからマッサージ。風呂でのケア。ストレッチ……。そして試合続きでなければ翌日は投 球をしないなど。ある程度徹底的にしたものだ。
実際、一試合投げれば肩の毛細血管は八千本切れると言われている。だからこそしっか りとしたケアが大切だ。
ケアは大切。そう、大切なんだ。筋肉のケアはわかるが……。
「……………………」
目の前の女の子のケアをどうすればよいのだろうか。切実だ。むしろ誰か俺のことをケ アしてくれ。
「ど、どうしたんだ?」
困惑しながらも女の子に声をかける。少し心配だ。結構な俯き具合。先ほど抱きついた ことをそんなにも後悔しているのだろうか……。それはそれでショックを受けざるを得ない。
「……はっ!? す、すすすいません!」
ボーとしていたわけじゃないよな? 女の子はハッとしたのか急に顔を赤らめて慌てて いる。
「ふぇ!? ち、近いですよぅ……」
……指摘感謝。女の子の顔を覗いていたのだがどうも近すぎたようである。これでは角 度によっては……。やめようか、俺の思考。それ以上は自分自身を起訴しかねない。
「ご、ごめん。……それでさ、もしかして俺の事知ってるの? もしかして会ったことあ るとか」
ひとまず話題を変えようと試みる。空はいつの間にか暗がりを濃くしていた。
女の子は(俺との身長差的に仕方がないが)上目遣いをして不安な目線を俺に送る。一 筋の汗が頬を通過した。彼女の瞳は波打つとまでは言わないが、揺れているように見え る。……なんだか俺がいじめてるようにも見えるのでは。
「……はぃ……。知ってます」
確かにそう答えた。声は幾分小さなかったのだが夕方の喧騒から解放され、街頭が道を 照らし始めるこの時間帯。やけにはっきりと聞こえたのだ。
「そっか……。ごめんな。どこで会ったのか教えてくれないかな」
教えてほしい──そう口にした。彼女の様子からしてきっと俺はそれなりに印象に残る ことをしたのかもしれない。自惚れでさえなければ抱きついてきたこと、そしてあの弾け るような笑顔。俺は思い出さなければいけないはずだ。あそこまでの感情をこの子は露わ にしたのだ。間違いなく、そんな簡単に忘れていいものではない。そう頭に言い聞かせ る。
女の子の口が僅かに“こ”……だろうか。その文字を吐こうとして。
「……い、いえ! ずっと前に新聞で見て。あの、そのぁ……憧れていて!」
そう笑顔で話してくれた。薄暗いこの状況下でも印象に残る笑い方だった。初めて見た のだ。
泣くのを押し込めたような見ていて痛々しい笑顔を。
その笑い方は決してプラスのものではないと。人の感情に疎いと自負する自分でもよく わかった。無理しているのだと、わかったんだ。
分かってしまったから。
「……え?」
パサ……。柔らかな感触が手のひら一杯に広がった。絹糸のように細く綺麗な髪に手を 置いた。
「……ごめんな。君みたいな子にそんな顔させて。俺、頑張って思い出して見るからさ。 出来れば……名前、教えてくれないかな」
何故だろうか。今、俺はきっと最悪の状態のはずだ。野球を取り上げられた絶望。手元 に残る物はなかった。それなのに。
そんなことなど小さなことだと。僅かながらそう考えてしまった。この子にこんな顔を させたことの方がきっと最悪だと。はっきり口に出来るほどに思考は塗り替えられてい た。
「は、はい……。私、湊智花です」
頭に置かれた手に少しの戸惑いを混ぜ込みながら──智花ちゃんは名前を教えてくれ た。
……俺が頑張って思い出すから、そう言った時彼女の肩は僅かに動いた。……きっとさり 気ない日常の1コマだったのではないかと思う。それでも人間、案外印象に残るのはさり 気ない日々の一ページであることが多いものだ。きっと同じような日常の少しの変化。
──本人と出逢っても中なか思い出せない分、もしかしたら思い出せないかもしれな い。それでも。
「──改めて俺も自己紹介しようかな。長谷川昴です。よろしくね」
もう一度出会ったこの子をもう忘れないようにするぐらいは。そして──。
「智花ちゃん……でいいかな、呼び名。君も野球やってるんだね」
彼女の手元に目をやった。そこには少年軟式用のグローブが鎮座している。決して高級 のものではないだろうが、その革を見ればわかる。
「よく手入れしてるんだね。そこまで使い込まれているのはそうないよ」
きっと高級のものより価値があった。染み込んだ汗の分だけ必ず練習がある。かなり使 い込まれているにも関わらず丁寧にオイルで磨きあげられているのは一目瞭然だった。
「あ、ありがとうございます! ぁ、後智花でいいです!」
褒められたらことからくるものなのか頬を赤らめてお礼を言われた。
「りょーかい。じゃあ、遠慮なく。智花はここによく来るのか?」
「はい。私がここに来るようになったのは結構前からですけど主に平日が多かったのか な。平日に練習ない日が多かったので」
そっか。なら俺と鉢合わせにならないわけだ。中学からは毎日練習があったし、休日の午前練の時くらいしか来れなくなっていた。それに投げるのは部活で出来るから主に自主 トレはランやダッシュ。後はスナップの強化が主だったように思う。
「俺は休日のたまにしか来なかったからなぁ。まぁ、今はいつでも来れるけどさ」 「……………………」
──しまった! 要らんことまでも口にしてしまった。後悔先にたたず。智花は俺の目をジッと見つめ、小さな口を開いた。辺りは完全に夜のそれになり、虫の鳴き声が耳を擽っている。
「……なにか。なにか在ったんですか。長谷川さんがどこの高校か、までは知りません。 それでも野球を止めているなんて思いません。だって……」
手にこぶしをぎゅっと作り、彼女は言った。
「……だって私の憧れなんです! ヒーローなんです!」
ここらへんは小学生か。俺の事情を考慮せずに憧れだから、ヒーローだからと野球を捨てていないと言う。捨てたんじゃない。なくしたんだ。
それでも、それでもこの目を見て思い当たることがあった。そう──だれかを目標としている。憧れでありながら一つの到達点。以前に俺も持ったことのある“目”。
嘘はつきたくなかった。騙していたくはなかった。だからこそ、ここは話すべきだ。 ……本当にいいのか。話して。葛藤が止まらない。ひどくガッカリさせるかもしれない。 目標にずっと頑張ってきたのに! なんて言われたら目も当てられやしない。さて──ど うするか。
どうするのが最善だ。
そんなとき、智花が言った。
「教えてくれませんか。私、信じています。何があったとしても長谷川さんは私の目標な んです。だから……」
その必死の双眸に溜め息を吐いた。負けだ、負け。負けちまえ。知りたいなら教えた方がいいだろう。どうせ、調べる気になればいつかは分かってしまうことなんだから。
「……実はね、──」
◆
心に渦巻くこの感情に何と名前をあげればいいのだろうか。なんとも言えない。長谷川さんに非は一つもなかった。かといってその部長さんの気持ちも分からないわけじゃなかった。ただ、好きになったのが──。
やるせなく、どうしようもないほどに理不尽。そして雁字搦め。
「まぁそういうことなんだ。……なんか暗くなっちゃったね。ごめんな。もう空も暗くなってるしさ、智花も帰りなよ。俺もそろそろ行こうかな」
長谷川さんはそう力なさげに笑いながら高校の名前が入ったセカンドバックを左肩に掛けた。
私はどう言葉を紡げばいいかが分からず、視線が右往左往してしまう。その間にも長谷川さんはここを一歩ずつ離れてしまう。その様は、先ほど“思い出す”、そう言ってくれたにもかかわらず再び離れてしまうような感じがした。
──このままもしもまた……。
そのような思いが心のダムを決壊させ、気づけば私は長谷川さんの前方に回り込んでい た。
「あ、あの! たまにでいいのでここで練習の相手してくれませんか!」
無理なお願いだった。長谷川さんの話からすれば私とのかかわりは少なからず負担にな る。しかし、それでも止められないほどのものを確かに感じていた。
案の定、長谷川さんは少し眉間に皺を寄せていた。しかしやがて──。
「……まぁ、ほんとにたまに、ね。じゃあまたね」
長谷川さんは最後には微笑んでくれて、手を振りながら去っていった。途中で街頭が途切れ、長谷川さんの背中は暗闇に呑まれていく。しかし、私はそれでもその方向を眺めていた。
一日では処理しきれないさまざまな事実と感情を抱えながら。
そして長谷川さんと再会するのが予想よりもずっと早く、さらには意外な馴染みのある場所であることをこの時の私はまだ知らない。