慧心学園“女子”軟式ヤきゅーぶ!   作:桜咲く日に

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自分には負けない

 

 

 ──日本晴れ。肌を焼くような日の光は一分一秒ごとに俺の体から体力を、水分を、気力を奪いあげてゆく。昔から日焼けをしにくい体質の俺の肌は、赤く火照っているように色を変えていた。

 

 ──ツゥっ………………。

 

 大粒の汗が鼻先から垂れるのがわかった。もはや、キャッチャーミットはぼんやりとしか映せない。まるで蜃気楼のようにグニャグニャと形を変えている。

 

 監督は何かを叫んでいた。チームメイトの声が遠く聞こえる。夏風が砂埃を舞いあげて。右手には滑り止め──ロージンが握られている。

 

 悔しかった。歯がゆい。肩が炎症を起こしている。足が痙攣を起こしている。爪から血が滲んでいる。

 

 カラカラだ。喉が壊れそうだ。

 

 それでも心は折れやしなかった。一本に空へと伸びている心の柱だけは一寸も曲げやしない。

 

 連投に継ぐ連投──。練習に継ぐ練習。他に投手など控えてやしない。ただ、この腕一本だけが生命線だった。

 

 俺は県大会初戦から点をやることはほとんどなかった。与えても最高で2点まで。俺にとってのそれが最高のパフォーマンスだったに違いない。そんな中、みんなは必死に守ってくれた。たとえ、フェンスが間近に迫ろうとも駆けてくれた。

 

 点を取れない。それでも野球は点をやらなければ負けはない。負けはないのだ。いつか、いつかはもぎりとれる。それまで腕を振るうしか、方法はなかった。

 

 連投に連投に連投。それは点を取れないこのチームでの試合。意味は──延長に延長に延長。

 

 ループするかのように。9人の打者たちは二度も三度も、そして果ては五度も六度も。俺の前へと現れた。

 

 打席ごとにタイミングの差を埋めようとする敵。迎えるごとにタイミングをズラす俺。両者の攻防を入れ替える、ひたすら入れ替える。

 

 どちらかと言えば中距離型の俺では一人で点を取るには些か不安定。さらには日増しに積み重ねられてゆく疲労が振りを鈍くさせた。むしろ投球のみに集中したほうがいいのでは、そう考えてしまうほどに。

 

 打撃は好きだった。これでも打率、そして二塁打の本数ならばそう負けやしないと自負できるほどに。タイミングを当てることに関してはそれなりに自信がある。

 

 こけた──。

 

 センター前に球を転がしておいて足がもつれた。それは関東大会準決勝の延長10回の最中だった。0対0──。均衡が続いていた。

 

 ランナーは三塁。アウトカウントのランプは二つ。俺はファーストベースには。

 

『アウトオォォォ! チェンジ!』

 

 手をグーにして腕を振り下ろす塁審が目に入る。その目には賞賛が宿っているようにも見えた。もういいんだと。県予選から今のいままで一人で何試合も、延長も。果ては再試合も。もう休んでいい。そう込められているように感じた。きっと……。そう見えてしまったのは俺が弱いからだ。

 

 飛び込んだ拍子にメットがズレた。つけていたバッティンググローブ……バッテが土色に染まる。ズレたメットによって外から視認できないであろう真下の土に二つの雫が落ちた。

 

 下手くそなヘッドスライディングだ……。だせぇ。かっこわりぃ。俺が走れないから負けるのか?

 

 土を思い切り掴んだ。ジリ……ッ。そう軋んだ音がする。

 

 立ちたくなかった。顔をあげたくはなかった。口に含まれた砂埃が苦い。

 

 勝てねえよ。だって相手のピッチャー三人いんだよ。左右揃えていやがって──。打撃だってそうだ。有名高校からスカウトされるようなのが数人いやがる。無理だ。なんて試合だよ。早く風呂に入りたい、冷たいコーヒーでも飲んで昼寝がしたい。重いよ、体……。でも、でも……ッ。

 

「報いたい。報いてえよ……」

 

 辛かった。ひたすらに苦しかった。試合に勝てるのに一人ぼっち。誰もナイスピーッ! と声をかけてくれやしない。グラブで背中を押してくれない。父さんに買ってもらったグラブが他人に汚される。磨いていたスパイクはぐちゃぐちゃだ。そんな土砂降り──土砂崩れの中、野球から、シニアから逃げ出した俺を捕まえてくれたあいつらに報いたかった。

 

『長谷川君! 君が来てくれるならいつだって大歓迎だよ!』

『おまえみたいな奴が野球捨てちゃ駄目なんだよ! やろうぜ!』

『なぁ頼むよ! 一緒にやろうよ! 楽しい野球をさ!』

 

 ──楽しい野球。

 

 楽しくやりたかった。あんな暗いそこの中で喘ぐようなものなんかじゃなく。ただ、勝ったらみんなと抱き合えるような。負けたら泣きあえるような。

 

 ──そんな野球が。

 

 

──「お願い! たってくださあぁぁぁい!」

 

 

 応援席、一塁側スタンド。俺の中学の色に染められたライト側。父兄たちが、そして観に来てくれた人たちのどこか。果てしなくうるさいはずの野球場の中。

 

 届いたものがあった。

 

──「ま、まだ! まだあります! 次の回抑えればまた攻撃できます! だ、だから」

 

 どこ、どこだ。どうしてだ。

 この喧騒の中で。

 その刹那。

 

──「自分には負けないでえぇぇぇぇ!!!」

 

 恥ずかしさをかなぐり捨てたような決死の叫び。喉がはちきれるほどに響いたそれ。騒がしかったグラウンドの中、その声は誰のものよりも俺のいる一塁ベースまで届いた。

 

「くそ……っ!」

 

 ベースを殴った。そうだ。まだだ。まだなんだよ。ゲームセットとは聞いちゃいない。ききたくねぇ。聞くならば俺が三人打ち取った後か、最後にこっちがベースを踏むときだけだ。

 

 誰に負けようとも自分には負けない。何のために必死こいて死ぬほど走った? 一度も決めたペースからは落とさなかった筈だ。自分にだけは妥協しない。常に諦めろと耳元で囁いてくる自分にだけは負ける気がしない。それだけの練習をしたはずだ。

 

「は、長谷川!」

「昴! 大丈夫か!?」

「先輩! これ、ドリンクです! 後タオル!」

 

 皆が集まってくれる。俺を支えてくれた。これだ。これなんだ。求めていた野球は絶対にこれなんだ!

 

 俺を立ち上がらせようと腕を回したチームメイトに手で制する。不安そうな目をしていた。それでも大丈夫だ。もう、大丈夫なんだ。

 

 任せてくれ。

 

 立ち上がった俺はライト側スタンドへと目を向けた。

 

 ──そのまま、静かに。しかし、最大の力強さで。

 

 拳を空へと突き上げた。

 

 俺が負傷したのかと浮き足立っていたチームメイトも、父兄も観客も。皆が笑顔を綻ばせ。スタンドが──。

 

『桐原! 桐ッ原! 桐ッ原!』

 

 我が中学の名前を叫びあげた。それは球場に木霊していく。

 

 もう、弱音は吐かない。吐くものか。

 

 

 

 

『13回の裏──桐原中学の攻撃は、三番ピッチャー、長谷川君』

 

 確か地元の高校生がしてくれているアナウンスのもと、呼ばれた打席。もう日が暮れ始めている。空がオレンジ色に染まりあがってゆく。

 

 ──この回で決まらなければ再試合。明日へ持ち越しになる。それだけは避けなければならない。

 

 向こうと違い、こっちに投手は一人だけ。いくらなんでも明日が今日よりもベストピッチできるとは考えられない。事実、右肘の筋が相当張っている。指先の爪もマズい具合まできていた。

 

「──お願いします」

 

 軽く打席に入る前に主審に頭を下げる。それから打席の土をならし、バットを一回り回しながら構えをとった。

 

 ──初球。初球を狙う。

 

 事前の研究から分かっていた事だがこの投手、疲れが出てくると普段の綺麗なオーバースローから腕が下がり、スリークウォーター気味になる。そうすれば球の出所が非常に分かりやすい。さらにだ。この捕手。この投手に疲労の色が見え始めれば初球は外側のカーブが多くなる。無難か。アウトコース外れの位置から内側に入らせてカウントを稼ぐ──。

 

 しかし、やっとだ。やっときたよ。本日二人目のこの投手。先発は背番号10の二番手だった。六回から交代してきたコイツも今じゃ一試合分の球数は放っている。先ほどの投球練習を垣間見ても間違いない。疲労は顕著だ。

 

 みんな、ありがとう──。

 

 全員、たとえ塁に出れなくとも粘りに粘ってくれた。それだけで意味は十全にある。

 

 必ず。

 必ずだ、先頭打者として。

 

 振りかぶった。タイミングを合わせる。足をあげた。顎を引く。腕を引いた──。

 

「ッ!」

 

 ──来た。見えた。本来なら体に隠されて見えない球の握りが。崩されたフォームによって見えた。

 

 少なくともストレートではない。

 

 コイツの持ち球……カーブ、スライダーのみのはずだ。

 

 しかも、この場面、この疲労でストレートでないのならば──ッ。

 

「カーブしかない……ッ」

 

 遅いッ……。カーブだッ。

 

「グッ…………」

 

 くそっ! 少し差し込んだかっ! しかし……。

 

「は、長谷川! 行け! 二塁だ! 回れえぇぇ!!」

 

 一塁のランナーコーチャーが必死に腕を回している。

 

「行ける……ッ!」

 

 ボールはサードの後方へと落ちていた。それには左打者特有のスピンがかかっている。激しく回転したボールは転々とレフトのファウルゾーンへと突入を開始していた。

 

「行けるか……?」

 

 俺は素早くセカンドベースを蹴り上げた。

 

 行け。もう行っちまえっ!

 

『セーフ!』

 

 ──塁審が両手を広げた。

 

 それと同時にヒートアップするベンチ。

 

 ……どうする? ここで相手が“この”作戦をしてくれるか、それが全てだ。

 

『ボール』

 

 よし……。

 

『ボール』

 

 このままいけ……。

 

『ボール』

 

 ……きた、きたぞ。

 

『ボール、フォア!』

 

 ランナーがもう一人出た。これはもう間違いない! キャッチャーが立ってはいないが必ずバントが出来ないところまで外している。つまりだ。スクイズはいやってことだ。当たり前だな。

 

 ということは……。

 

『ボール、フォア!』

 

 ──完璧だ。先の二人に“待て”のサインを送ったのは間違いじゃない。相手はこちらのデータを完全に集めちゃいない。たかが中学野球というなかれ。

 

 ──俺の、俺たちの勝ちだ。

 

 ここでコイツに回ったのは最高といっていい。うちの選手にはあの投手は確かに荷が重い。しかし、しかしだ。“犠牲“ならば完璧にこなせるような選手が一人いれば。

 

 そいつこそが本当のキー。俺は塁には出れる。しかし、それを返すには何もヒットでなくともいい。  

 

 しかも油断されるようなら尚よし。

 

『六番セカンド、西条さん』

 

 ──アナウンスが聞こえる。

 

 どうやら最高の場面で来たようだ。最高のポイントゲッターが。

 

 西条千早──普段はチハヤ、チハと愛称で呼ばれることが多いが、彼女の渾名はそれだけではない。

 

 ──犠者……サクリファイス。かつて小学校の頃、ボランティア部に在籍し自分の身を削りに削ってまでも人の役に立とうとしていた、成績表には常に、ゴミを献身的に拾う姿がよく目につきます。これからも頑張りましょう、と記されていたらしい女子部員だ。

 

 小学校の頃、窓ガラスをボールで割ってしまった時に出逢った彼女にそれから付きまとわれていたが、中学の時に俺に続いて野球部に入部した少女である。

 

 そんな彼女の本日の成績は全打席三振である。何故ならこの子、ランナーがいなければなにもしない。というよりランナーがいてこそ光るのだ。ただ、ツーアウトからの登場では案山子になってしまうが。

 

 そんな彼女の一番の特技、それは。

 

 ──とにかく、上げろ。出来る限り。

 

 サインを出す。そしてアイコンタクトを交わした。本来ならば何球か待ってからだ。さらに言えばセーフティースクイズ辺りがいいかもしれない。しかし、相手も打ってくるとは思っていないようだ。なにせ、女で全打席三振。その細い腕からはなにもできない。とりあえずワンアウトは確実だといった目をしている。

 

 僥倖だ。

 

 スクイズだけに注意をすれば何てことはない、そんな表情をしている。外野もかなり前進していた。

 

 ──初球。

 

 必ず取りにくる。おそらくスクイズ以外で何も問題ないと思われているこの場面。内野の前進からスクイズは封じたと言わんばかりだ。というより俺のワンマンチームだと思っているから調べていないのだろう。

 

 最高。

 

 金属音が遥か空へと響いた。それから紡がれていく白球は夕焼けの彼方へ舞い上がる。外野がいくらか下がり始める。

 

 思わず口元が緩んだ。

 

 なんでこんな奴がいるんだ。打てもしないくせに、なんで犠牲バントとフライだけは成功する。冗談みたいだ。

 

 しかし、こんな冗談は大歓迎だ。いくらでも披露してくれよ、チハヤ。

 

 ──パシッ。

 

「いっけええぇぇぇぇ!!」

 

 三塁コーチャーの咆哮。それと同時にベースから足を離した。

 

 一歩。

 

 二歩。

 

 三歩。

 

 四歩。

 

 走ってゆく。駆けてゆく。

 

 白線が薄くなっている、その真上を持てる全てを尽くして。

 

 そして。

 

『…………セーフ! ゲームセット!』

 

 審判の声がただただ心地よく聞こえた。

 

 

 ──あの子は見ていてくれただろうか。

 

 自分にだけは負けないで、と。俺に言葉を届けてくれたその人には。顔は知らなくとも。

 

 ──野球を続けていれば、またいつか。必ず、出会える気がその時はしたんだ。

 

 

 

 

 あれから結局、俺は病院へ直行した。診断は肩の酷い炎症だった。爪も割れかけていたし、肘もこのまま無理をすれば軟骨に影響があると。そう診断された。

 

 ──結果から先に伝えれば俺は最後の試合には出場はしなかった。否、出られなかった。三角巾で吊された右腕。どうにか痛み止めを、なんて言えば医者には酷く怒られたのを記憶している。まぁ、すぐ痛み止めをなんて口にしてしまうところを見れば、いかに俺が漫画に影響されていたかが分かる。痛み止めを打ちながら試合に出るエース。うん、かっこいい。だが、世間は甘くはない。顧問にもチームメイトにも反対されたからだ。さらには親にも。母さんなんかは父さんに電話までしていたな。父さんからも釘をさされた。痛み止めというのは神経を弄って炎症や痛みをごまかしているにすぎない。本来、痛みというのは防衛本能であるのにそれを無視してやるというのははっきり言って最大級の自殺行為なのだ。

 

 痛み止めでごまかしている後に出てきた痛みすらもごまかす……。それを理解していなかった俺は簡単にそんな事を言ってしまったのを反省した。

 

 俺は最後の試合徹底してサポートに回った。

 

 そこで実感したことを一つ。

 

 楽しかった。本当に楽しかった。

 

 なんだ。試合に出なくても、活躍なんか出来なくても。ただ、コイツらとやるだけでなんでこんなにも楽しいのだろうか。勝つことなんて二の次でいい。ただ、この場所を手に入れ、最後までみんなと戦える、このことだけに感謝をした。

 

 コレ以外はいらない。そう思えるほどに。過去の栄光なんか捨ててもいい。

 

 ──楽しめる野球に出逢わせてくれたチームのみんなに。

 

「……ありがとう」

 

 ふと、横から声がかかる。

 

「──昴さん、どうかしたんですか?」

 

 智花が小首を傾げて俺の顔を覗いていた。

 

「いや、なんでもないんだ。ただね、こうして智花と練習出来ている今、この野球が楽しくてさ。少し昔を思い出して呆けてたんだ」

「わ、私と……そ、その私も、私もとても楽しいです!」

 

 顔を赤くしながらもそう返してくれるこの子に対して今の俺がやってあげられることはどれだけあるのだろう。

 

「──今度の試合、必ず勝とう。ね?」

「……はいっ!」

 

 少なくとも今は智花の、そしてあの子たちの居場所を守るための手助けを。

 

 ──このことは、これから語られる物語の少し後のことであった。




 
西条千早はオリキャラです。スポーツの都合上、多少オリキャラは出さざるを得ませんが、
やはりメインはあの五人ですのでご安心を。
ただ、飾りのオリキャラは好きではないので、ある程度西条も、これから登場するオリキャラも読者が中身のある人間として捉えられるようにはしたいかなと。

ただ、五人を書きたいのは山々ですが。

ちなみに中学野球で延長13回までやることは本当に稀です。
ほとんどは特別ルールにより、ノーアウト満塁からの延長になる場合があります。
理由は大会日程を再試合などで伸ばさないためです。
審判なども先生などが多いので仕事の都合上どうにも難しいようです。

後は地域や県によって延長のどうこうは多少変化してしまいます。
延長入った瞬間から特別ルールの時もあれば、10回からという場合も。
審判団も高校のように厳しくされていませんから、細かいところは主審と塁審がその時に相談して決めたりしていますね。
まあ、中学のルールはそこまで覚えていません……。

最後になりましたが、ここでこの話をもってきたのは一応必要だったからかな? 
そんなところです。では、また次回に。
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