学校が終わってはやてや雄一と別れ、行きとは違う経路を進むバスに乗って、俺は海鳴商店街の近くにある家に向かう。
住宅地から少し離れた場所に、塀に囲まれた二階建ての和風の家がぽつんと立っている。
ここは『高町家』。なのはが家族と一緒に住んでいる家であり、俺にとっても母が海外に出張する度にお世話になる、もう一つの家と言っても過言ではない場所だ。
俺はインターホンを押して一分近く経っても応答がない事を確認してから、鍵を差し扉を開けて家の中へ入った。
「ただいまー!」
インターホンに誰も出なかったことや玄関先に靴がないことから、誰もいないだろうと思いながらも礼儀として一言告げてから靴を脱いで家に上がる。
本当ならお邪魔しますと言うべきなのだろうが、数年間の間に何度も通い続けているにもかかわらず他人行儀過ぎるのもかえって失礼だろうと思い、今は最低限の節度を守りながら自分の家のようにすることにしている。
リビングまで来たが家の中からは物音一つしてこない。喫茶店を営んでいる士郎さんと桃子さんは当然として、姉さんもまだ学校から戻っていないのだろう。
こんな時間に家にいるのは小学校から戻ってきた俺と――
「ただいま恭也さん。そこにいるんでしょ」
首を動かさずに後ろに向かってそう告げる。するとそちらの方から――
「気付かれたか。さすがに美沙斗さんに鍛えられているだけはあるな」
年齢に会わないほど渋い声を聞いてから、俺はようやくそちらの方に体を向ける。
そこには、すっきりした短い黒髪と黒目を備えた整った容姿の青年が立っていた。
青年はかすかな微笑を浮かべ、柔らかい目線で俺を見下ろしながら声をかけてくる。
「お帰り健斗。かーさんから聞いたが、今日からしばらくここで暮らすそうだな」
「うん。しばらくの間またお世話になります」
俺の挨拶に恭也さんはふっと笑ってから、
「そう固くなるな。たまにしか帰ってこなくてもお前もこの家に住む家族に変わりはない。遠慮せずに堂々としていろ」
「うん。そうさせてもらう」
そう言ってくれる恭也さんに俺は素直にうなずく。
彼は
この家の長男でなのはの兄にあたる。今年から大学に入り翠屋の手伝いやバイトをいくつかしているものの、高町家の中では比較的自由な時間が多い。
趣味は渋く表情の変化に乏しい物静かな人だが、さっきのように足音を立てずに背後に忍び寄るなどして人を驚かせようとする、いたずら好きの面もある。昔はなのはともども素で驚かされたものだ。
恭也さんは気配を探るような仕草をしてから俺に聞いて来た。
「健斗一人だけか? なのはは一緒じゃなかったのか?」
「なのははアリサやすずかと一緒に塾に行ったよ。だから俺一人だけで帰ってきた」
「そう言えば今日は塾の日か。健斗は塾に行ったりしないのか?」
「そんなところに行かなくても大丈夫だよ。まあ成績が落ちたりしたら強制的に行かされることになるだろうから気を付けてはおくけど」
「そうか。油断せずにしっかりな」
「ただいまー!」
恭也さんが言い終わると同時に、扉がガラガラと開く音と明るい声が玄関から響いてくる。
この声だけで俺も恭也さんも、誰が帰って来たのかすぐにわかった。
それからしばらくして、三つ編みに編んだ長い黒髪に黄色いリボンをつけた女性がこちらに顔をのぞかせてきた。
彼女に対して恭也さんと俺は挨拶する。
「おかえり美由希」
「おかえりなさい美由希姉さん」
「ただいま! 恭ちゃん、それに……健斗君も来てたんだ。久しぶりだね」
目線を下げて俺に笑いかける姉さんに恭也さんはうなずきながら……
「ああ。今日からまたしばらくここで生活するそうだ。いつも通りよろしく頼むな」
「またお世話になります」
「うん。またよろしく! 自分の家だと思って気兼ねなくくつろいでてね」
姉さんは俺に微笑んでから、恭也さんと言葉を交わし自室へと向かって行った。
彼女は
この家の長女にあたる人で、恭也さんの妹でなのはの姉……そして美沙斗さんの実の娘でもある。
その昔、ある事情で美沙斗さんは自身の兄である士郎さんに幼い美由希さんを預け、そのまま姿をくらましたらしい。そして数年前、俺となのはが出会ったのをきっかけに、美沙斗さんと美由希さんは再会を果たすのだがその話は置いておこう。
そんな訳で俺と美由希さんは従姉弟であると同時に、美沙斗さんを母とする姉弟でもある。
見た目通り明るい性格で、恭也さん同様俺に対しても暖かく接してくれる。しかし恭也さんと違って、俺とこの人との間にはわずかな隔たりがある。
無理もないか。俺が高町家への養子入りを断って美沙斗さんのもとにいるから美由希さんは――
「おい、健斗!」
不意に声をかけられ、考えに沈んでいた俺の意識は現実へと引き戻される。
我に返り声の方を振り向いてみると、恭也さんが険しい顔で俺を見下ろしていた。
「どうした? 大丈夫か?」
「あっ、うん、大丈夫。ちょっと考え事をしてただけだから」
俺がそう答えると恭也さんは険しい顔のままで「そうか」と言った。俺はすかさず彼に告げる。
「もう部屋に行っていい? 宿題を片付けなくちゃいけないし」
「ああ……」
恭也さんがうなずいたのを見て、俺は彼に背を向けて部屋に行こうとする。そんな俺に向かって恭也さんはまた声をかけた。
「健斗、あまり気にするな。あの時、お前がした判断が間違っているとは思わない。それに俺が思うに美由希はお前に――」
「わかってる!」
振り向かずにすげなくそう答えると俺は今度こそ恭也さんと別れ、自分の部屋に向かって行った。
わかっている。姉さんなりに複雑な思いを秘めながら俺に歩み寄ろうとしてくれていることくらい。
俺は部屋に入ると同時に扉をガチャリと閉める。
高町家は広く、今この家に暮らしている五人が使っている部屋を除いてもまだ結構な数の部屋が余っており、その中の一室に机などを置かせてもらい俺の部屋ということにしてもらっている。
俺は机にランドセルを置くと、宿題を片付けるべくランドセルの中にある
ノートパソコンを立ち上げると
学校の宿題? そんなもの寝る前の数分で片付く。
二年前、アリサに出会って以来、彼女に教わり続けているのがこれだ。
アリサは普段の言動や振る舞いこそあれだが、厳しいしつけと教育を受けたやんごとなきお嬢様であり、そしてIQ200の天才少女でもある。
彼女は学校の勉強や習い事以外にもいろいろな知識を有しており、プログラムについてもかなり精通しているらしいとすずかが言っていた。
それを知った俺はすぐさまアリサのもとへ向かい、言葉通り頭を下げて彼女に頼み込んだ。俺にプログラムのことを教えてくれと。
アリサは教室の真ん中で頭を下げる俺を前に慌てふためき、俺に頭を上げるように言ってから――
「どうしてもというなら教えてもいいけど。学校の授業と違って決まった答えがあるものじゃないし、その授業さえつまらなそうに聞き流しているあんたが簡単に習得できるほど甘いものじゃないわよ。それはわかってるんでしょうね?」
険のある声色と釘を刺すような口調で問いかけるアリサに、俺は真剣な表情で首を縦に振った。
アリサはしばらくの間俺をじっと眺め、やがて「いいわよ」と言って応じてくれた。最後に「いつまで続くかしらね」とも付け足しもしたが。
それ以来、俺はアリサにプログラミングを教わり、彼女の指導や参考書の解説を参考にプログラミングに打ち込み続けている。
すぐに投げ出すものだと思っていたのだろう、はじめは参考書に載っている文言を噛み砕いた解説をしてからぽいと課題を出す程度だったアリサも、プログラムの教示を続けていくうちに熱心に教えてくれるようになっていった。
俺がアリサを先生や師匠と呼ぶのもそのためだったりする。まさか俺をバニングスグループの社員に仕立てるためだったとは思わなかったが。
母さんとの稽古と同様に、こうしてプログラミングに打ち込んでいるのは必要があるからだ。《夜天の魔導書》のプログラムを改変するための技術を習得する必要が。
でなければこの世界は過去の主がいた世界のように滅び、騎士たちや“彼女”もまた不毛な蒐集に明け暮れた挙句、自らの手で世界を滅ぼしていくことになる……それこそ永遠に。
こうして転生に成功した以上、俺の手で魔導書を止め彼女たちを助けてやらなくちゃいけない。そして今度こそ、俺は“彼女”と……。
「健斗くーん! ご飯だよー!」
画面上にソースを打ち込み続けるうちに、扉の向こうからそんな声がかけられた。
もうなのはが塾から帰って来たのか。プログラミングに熱中しているうちにかなりの時間が経過していたらしい。
「ああ、今行く!」
お言葉に甘えていったん休憩と行こう。プログラムというものは焦って作り上げてもろくなことにならない。
バグを蓄積しすぎて元の形を失った夜天の魔導書のように……。
◆
高町家の外観からはかけ離れた洋風のリビング。
そこには湯気が漂う夕食がテーブルに置かれ、それを食するためにこの家に住む家族が集まっていた。
その中の一人に俺は母から預かった茶色い封筒を渡す。
「桃子さん。これ、母から預かった食費です」
「はいどうも、ちゃんと受け取ったわ。だから遠慮しないでいっぱい食べてね」
「はい、じゃあお言葉に甘えて。いただきます」
桃子さんは封筒を収めながら俺の頭を撫で、夕食を食べるように促す。
俺が渡している封筒はいずれも数日後には母のもとに戻っているらしいが、母にとっては食費を渡し続けることで感謝の気持ちを忘れていないことの示しとしているのだろう。俺に対する情操教育の意味合いもあるに違いない。
それを知っているから桃子さんも食費を突き返すようなことはせず、大切そうに懐にしまって見せる。
彼女は
喫茶翠屋の経理とパティシエールを務める、なのはと同じ栗色の髪を長く下ろした優しげな女性。
なのはたち三兄妹のお母さんで、俺の伯母でもあり、母になっていたかもしれない人だ。
「そうそう。遠慮せずにちゃんと食えよ。こんなうまい料理を食えるなんて幸せな事なんだからな」
「とーさん、朝もまったく同じことを言ってたよ」
「あれ、そうだったか? まあいいじゃないか、本当のことなんだから」
「もう、あなたったらやめてよ!」
姉さんのツッコミに動じないどころか、士郎さんは奥さんの作った料理の自慢を続け、桃子さんまでがそれを乗ってくる。いつ見ても新婚みたいな夫婦だ。
彼は
翠屋の
三兄妹のお父さんで、桃子さん同様彼もまた俺の伯父であり、父になっていたかもしれない人でもある。
それとなんの偶然か、あいつに声が似ている。
そんな夫婦に勧められるまま、俺も彼らと同じ食卓について食事を進める。
今までのやり取りを見ればわかる通り、高町家では父母と兄妹――恭也さんと美由希姉さん――の仲がいい。過ぎるがつくくらい。
そのため普段は士郎さんと桃子さん、恭也さんと姉さんがそれぞれ楽しげに語らい、残った俺となのはが学校や塾のことについて話すことが多いのだが、この日は違った。
「フェレット?」
訝しげな声をあげる士郎さんになのははコクリとうなずく。
「うん。塾に行く途中で傷だらけになって倒れてるのを見つけて、動物病院で手当してもらって明日まで置いてもらえることになったんだけど。アリサちゃんもすずかちゃんも犬や猫を飼っているからフェレットなんて飼えないし、健斗君のおうちは……」
そう言ってこちらを見るなのはに、俺は肩をすくめながら首を横に振る。
見ての通り、俺は度々家を空けて高町家にお邪魔していて、その間は母さんも海外に行ってて帰ってこない。つまりうちではフェレットとやらの面倒を見る者が誰もいないのだ。だったらまだ……。
それはわかっていたのだろう、なのはは俺から士郎さんの方へ視線を向ける。
それに対して、
「フェレットか……」
士郎さんは腕を組み、難しそうな顔でうなりながら口を開いた。
「ところでなんだ、フェレットって?」
かと思いきや、士郎さんは表情を戻してそんなことを尋ねてくる。それを見て、皆はガクリと肩を落としたり呆れた表情になった。
そんな中、内心では俺も士郎さんとまったく同じ疑問を浮かべていた。かくいう俺も動物にはあまり詳しくない。フェレットなんて初めて耳にする言葉だ。アリサたちのように犬や猫を放し飼いにしているような家では飼えないくらい、小さな生き物だろうということくらいはなんとなくわかったが。
一方、他のみんなはフェレットについて知っているようで、物知り顔になって士郎さんに説明する。
「イタチの仲間だよ。父さん」
「だいぶ前からペットとして人気の動物なんだよ」
「結構小っちゃい動物よね」
「うん。手の上に乗せられるくらい」
……ふーん、フェレットって結構有名なんだな。この中で知らないのは俺と士郎さんだけか。結構ショックだ。
そんな内心を押し殺しながら夕食を口に運ぶ俺の視線の先で、桃子さんは柔らかい声で言う。
「少し預かるだけなら、かごに入れておいてなのはがちゃんとお世話できるならいいけど……恭也、美由希、健斗君、どう?」
「俺は特に異存はないけど」
「私も」
「俺もないよ」
恭也さんと姉さんに続いて俺もそう答える。ペット一匹買うのに反対するわけがない。そもそも居候である俺にまで尋ねる必要はないと思うのだが……まあ桃子さんなりの気遣いだと受け取っておこう。
こうして高町家で初めてペットを飼うことになった。
明日すぐに迎えに行くとなのはは言っていたが、そのフェレットとの対面は思いのほか早く訪れる。
だが、その裏で起きていたこと、これからなのは
こっちはこっちでかなり大変なことが起こり続けることになるからな。