これは明日までの繋ぎにもならない話だ。
何年も居場所を奪い合っていたと思いこんでいた姉弟がお互いの勘違いを正し合うという、ただそれだけのホームドラマ。
夕食を終えてからしばらくして、俺は二階にある美由希姉さんの部屋へと向かった。
「姉さん、いる? ちょっと話したいことがあるんだけど」
ドアを叩きながらそう呼び掛けると、部屋の中からごそごそと音がして、
「健斗君? ちょっと待って。今開け――!」
大きな物音がして向こうから悶絶しているような声が漏れる。まさかと思いながら俺はドアを開けた。
案の定、部屋の中では姉さんが足を抑えながら苦悶の声を上げていた。
「大丈夫、姉さん?」
「だ、大丈夫。よくある事だから」
また机の角に足をぶつけたみたいだな。確かによくある事だ。
姉さんは、士郎さんや恭也さんから剣術の指導を受けているだけあって運動神経は抜群だが、普段はぼんやりしていて物にぶつかったりすることが多い。いわゆるドジっ子だ。
姉さんのパジャマ姿やシャンプーの匂いなどから、
「お風呂入ってたの?」
「うん。なのはと一緒にね。健斗君も一緒に入りたかった?」
からかうように笑みを浮かべながら尋ねる姉さんに、俺は首を横に振った。
「まさか。もうそんな年じゃない。それに、そんなことしたら士郎さんや恭也さんに朝までしごかれる羽目になる」
そう言うと姉さんは「それもそうか」と言いながら笑う。
さすがにしごかれはしないと思うが不機嫌にはなるだろうな。初めてこの家に泊まった時に桃子さんやなのはと一緒に入った後は、実際そうなったし。
あれ以後、この家では一人だけで風呂に入るようになった。もっともそれからさらに後で、前世の記憶を取り戻して精神年齢が上がってからは女性や女の子と入浴すること自体ほとんどなくなったが。
ひとしきり笑ってから姉さんは表情を引き締めて、
「明日からまたなのはと一緒に出かけるんでしょ。準備とか大丈夫?」
「準備くらいとっくにできてる。ただ、出かける前に一度姉さんと話しておきたいと思って」
その言った途端、姉さんは眉を寄せる。
「話? 別にいいけど私でいいの? なのはじゃなくて」
俺は首を縦に振った。なのはも明日の戦いに備えて集中したいだろうし、そういうことはどちらかといえばユーノの方が役に立つだろう。
俺は俺で、万が一に備えてできるだけ未練はなくしておきたいところだ。
「ああ。これを機会に姉さんと話さなければいけないと思ったんだ。姉さん……美由希さんが美沙斗さんのもとに帰れないのは、やっぱり俺のせいじゃないかと思ってさ」
「あっ……」
俺が訪ねてきた理由に気付いて美由希さんは息を飲んだ。
なのはと出会ってから一年くらい経った頃、俺たちが小学校に上がる直前に、意識不明だった士郎さんの意識が回復した。
それによって美由希さんも家や店の手伝いに入れるようになり、桃子さんも家庭の事に目を向けられる余裕ができた。
そして高町家の人たちは、やむを得ずとはいえずっと一人ぼっちにさせていたなのはに謝り、彼女の友達になった俺やはやてを家に招いて何度もお礼を言った。
だが、俺が名乗っていた名字が御神だと知った途端、恭也さんは俺の家族についていくつか聞いて、彼らのお父さん――士郎さんに会って欲しいと頼んできた。
後日、病室で俺は士郎さんと会って、迷いながらも自分の素性と美沙斗さんの事を話した。
それから数週間後、士郎さんは退院してすぐに美沙斗さんに会いに行ったそうだ。そして幾ばくかのやり取りを経て美沙斗さんは高町家の人たちと対面する。実の娘、美由希さんを含めて。
それからすぐ、美沙斗さんは俺に士郎さんたちの養子になるように勧めてきた。
当時、美沙斗さんは仕事に戻る機会をうかがっていて、俺の引き取り先を探している最中だったらしい。そこへ士郎さんたちが俺を引き取ってもいいと言ってきたそうだ。
士郎さんが復帰した高町家は引き取り先としては申し分なく、御神流の師範で《神速》を会得している士郎さんなら俺の稽古相手としても適任だと思ったのだろう。
そして美沙斗さんは俺を高町家へと連れて行き、士郎さんと桃子さんに頭を下げてその場を立ち去ろうとした。それを見た瞬間、俺は無意識のうちに美沙斗さんのズボンの裾を引っ張って彼女を引き留めていた。
その後、美沙斗さんから高町家に残るように強く説得されたものの、士郎さんたちのとりなしもあって俺は美沙斗さんとともに家に帰ることになった。
仲が良かったなのはと、弟を欲しがっていた恭也さんは残念そうに俺たちを見送り、美由希さんは複雑そうに笑いながら眺めていた。
その後、結果的に俺は正式に美沙斗さんの養子になり、美沙斗さんも前の仕事と完全に縁を切って警察官になった。
ただあれ以来、特に前世の記憶とともに成熟した精神を取り戻してからずっと考えていた。
「俺がこの家に移らずに美沙斗さんのもとにいるから、美由希さんはお母さんのところに帰れないんじゃないかって。ずっと謝りたかった。ごめんなさい美由希さん。でも、それでも、俺は今まで通り美沙斗さんのところで――」
「なんだ。そうだったのか」
美由希さんの口から漏れた言葉に俺は続きを飲み込んで、
「……美由希さん?」
そう言いながら顔を上げると、美由希さんは優しい笑顔を浮かべて俺の頭に手を伸ばした。
「実はね、私も君と似たようなことを思ってたんだ。健斗君がこの家に来ないのは、私に遠慮しているからじゃないかって」
「えっ……?」
言っていることの意味が分からず疑問の声を漏らす俺の頭を撫でながら、美由希さんは話を続ける。
「健斗君も聞いていると思うけど、昔母さんはある理由で
「ひどい嘘?」
「剣の家に女の子はいらないって。いくら何でもひどい嘘だと思わない? そんな訳で誤解が解けても母さんの事を許せないままで、あの人のところへ戻れって言われても難しかったと思う。だから健斗君が母さんと一緒に帰るのを見た時ほっとしたの。母さんのところに健斗君がいるなら、私はまだこの家にいられるなって。
だから、私の方こそずっと君に言いたかった――ありがとう健斗君。私の代わりに母さんの子供でいてくれて」
そこまで言うと感極まったように美由希さんは俺を抱きしめた。耳元でしゃくりあげるような声が聞こえてくる。
そうか。俺も美由希さんも同じような勘違いをしていたのか。その勘違いが今になって解消されたというわけだ。俺もこの人の事をドジっ子だと笑えないな。
それからしばらくして美由希さんは俺を解放して目元をこすりながら口を開いた。
「ところで一度聞きたかったんだけど、どうしてあの時母さんを選んだの? あの人一見怖そうに見えるし修行も厳しいだろうから、十中八九ここを選ぶと思っていたんだけど」
その問いに俺は目をそらして恥ずかしさを誤魔化しながら――
「あ、ああ見えて美沙斗さんにも色々いいところはあるんだよ。はやてだって懐いているし。剣の修行だって俺が望んでやっていることだ」
はやてはともかく、俺が美沙斗さんに気を許した一番の理由はシグナムやシャマルに似ているからだと思う。全体的な雰囲気や剣に長けている所はシグナムに、料理が下手な所はシャマルに。心のどこかであの二人と美沙斗さんを重ね合わせていたんだろう。
美由希さんは納得したようにうなずいて、
「そっか。じゃあ、あの人の事は今まで通り母さんって呼んであげてくれないかな。私の事も姉さんで。なんならお姉ちゃんでもいいよ」
「最後のは遠慮する。恥ずかしいし。ちゃん付けなんてシャマルはよくできるもんだ」
「シャマルさんって、はやてちゃんと一緒に住んでる人たちの?」
姉さんからの問いに俺は首を縦に降った。
姉さんは少し考えるような素振りを見せて再び口を開く。
「そういえばあの人たちが住むようになって、はやてちゃんの家もにぎやかになったらしいね。それでさ、今年の健斗君たちの誕生日は別々にお祝いしないかって母さんから提案されてるんだけど、健斗君はどうかな?」
「別々に?」
聞きながら俺は首をひねる。
俺とはやての誕生日はまったく同じ日で、はやてが一人暮らしだったこともあって、俺とはやてと母さんの三人で祝うのがほとんどだった。
だが、今年からは守護騎士たちがはやての家に住むようになった。あいつらだけでもかなりにぎやかになるだろう。
「俺は別にいいけど、何で姉さんがそのことを?」
「う、うん。最近は私と母さんの仲も良くなってきてね、一度食事でもしないかって話になってるの。私と母さん、それに健斗君の三人で。一週間後は健斗君の誕生日だし、ちょうどいいと思うんだけど」
「そうだったのか。ありがとう、ぜひそうしてほしいって母さんに伝えてくれ」
「一緒に住んでるんだから健斗君が伝えた方が早いと思うけど」
そう言いながら姉さんは苦笑していたが、すぐに真面目な顔になって……
「そういうことだから絶対無事に帰ってきてね。健斗君もなのはも。家族が死んだり大怪我を負うのはもう嫌だから」
「ああ、必ず戻ってくる。俺もなのはもはやてたちも、それからフェイト
初めて聞く名前に、姉さんは眉を寄せながらも強いうなずきを返した。そしてお風呂の話をしていたような笑みを浮かべて――
「あっ、家族での食事だけどもう一人呼んでもいいよ。健斗君が寝言で言ってた“リヒトさん”って子、私も気になるし」
その言葉に俺は思わずうっとうなる。
母さんと姉さんの仲が良くなっているのは事実みたいだな。