はっと眼が覚めた。
知らない天井だった。
そして、天井を黙って見ていると、事情を思い出してきた。
朝、川上さんに本気で叱られて、僕は泣き出した。
みんなは、僕が授業を受けれる状態じゃない、と判断したみたいだった。
僕は保健室に連れていかれた。
そして、今に至る。
僕は、状況を思い返すと、体を起こした。
すると、それを誰かが察知したらしい。
ベッドを区切るカーテンがシャッと開けられた。
「タロちゃん、おはよ」
「……佐藤さん」
カーテンの向こうにいたのは、同じクラスの佐藤さんだった。
桃色の髪を二つに分けて結んでいて、それがちょこんと両肩に乗せられている。
ぴょんと毛先が上向いていた。
「朝から、瑠美にイジメられて、大変だったにゃあ」
佐藤さんは、まず現実世界では聞かない語尾をつけて、僕を慰めてくれた。
「いや、あれは僕が、悪かったよ」
佐藤さんはそう言うけれど、僕は川上さんは悪くないと思った。
僕が、甘ったれたことを言ったから、川上さんが正してくれたのだ。
僕は、川上さんの大声をそう理解していた。
「そうかな? 春奈はそうは思わなかったけど?」
佐藤さんは、軽やかな足取りで、保健室の中央にあるテーブル――問診票や体温計が置いてある――のそばに近づいていって、そのテーブルに備えてある椅子にボスンと座った。
「瑠美はねぇ、マジメすぎ。誰だって弱音の一つや二つぐらい吐きたいよねぇ。 それがたまたま、瑠美の逆鱗に触れる言葉だっただけだよね? でしょ?」
佐藤さんは、椅子の上で首をカクンと横に倒して、僕の意見を問う。
僕は、ベッドの上で体を起こした態勢のまま、頷いた。
「だよねぇ? 春奈は頑張ったなんて、思えなくても、いや、思わなくても、いいと思うよ。だって、結果でしかわからないことって、いっぱいあるもん」
「でも、僕は、川上さんの言ってることも、間違えてはないと思う」
少なくとも、川上さんは彼女なりに、僕を励まそうとしてくれていた。
だから、僕はあそこで川上さんの言葉を、否定することを言っちゃダメだった。
佐藤さんは、僕がそう言う間、黙って聞いていた。
かと思うと、急に椅子から立ち上がって、僕のベッドに近づいてくる。
佐藤さんは、僕が横になっているベッドの端に座った。
「恋愛だってさ、だいたい失敗するものじゃん? 頑張っても振り向いてくれないかもしれないし、何もしなくても好きになられることも、あるでしょ? だから、頑張ったかどうか、なんてどうでもいいんじゃない?」
佐藤さんは、ベッドに座ったまま、足をブラブラさせている。
「春奈ね、恋愛ってね、頑張らないようにしてるの」
「……頑張らないようにしてる?」
「そうなの。恋愛に本気になっちゃうとね、いつかシンドイ時が来ると思うんだよね」
そう言って佐藤さんは、僕を見る。
「タロちゃんはさ、村口さんのことを本当に好きだった?」
「……うん」
「じゃあさ、次に好きな人ができたら、どうする?」
「……今は考えられない、かな」
「そういうこと」
佐藤さんは、僕を指さした。
小さな手が拳銃の形にして、僕に狙いを定めた。
「そうやって、本気になるとね。いつの間にか、好きな人の残像が心の底に染み付いちゃうんだよ。でもね、人って忘れる生き物でしょ。だから、いつの間にか、前の人なんて忘れて、次の恋を始めるの。でもね、残像はそのまま心の隅っこに残り続けるの。そうやって、いっぱい恋をしてね、たくさん失敗するとね、心の中が残像で、キツキツになっちゃうんだよ」
佐藤さんは、そこで一呼吸置いた。
「タロちゃんは、残像がいっぱいになると、どうなると思う?」
「……好きになれなくなる――?」
「せいかーい。苦しくなって恋ができなくなるんだよ。だから、恋に必死になっちゃいけないの」
佐藤さんは、そう言ってから意味ありげに視線を外した。
「女の子は、恋を上書きするなんて言うけど、そんなことないよ」
そして佐藤さんが手で形作った拳銃が、火を吹いた。
「女の子だって、影が残っちゃう。そういう人もいる。だから、春奈はなんとなく恋をするの」
「……なんとなく?」
「そう、なんとなく。なんとなく好きだなって思ったら、なんとなく仲良くなろうとするの。それで告白されたら、なんとなく付き合って。それで、なんとなくそんな雰囲気になったら、なんとなくそういうコトをして。それでも大丈夫だったら、なんとなく結婚して。なんとなく暮らして。なんとなく死んでいきたいの」
佐藤さんはこの間に何回「なんとなく」と言っただろう。
佐藤さんの世界は、なんとなくの世界だった。
「だから、春奈は、別に恋愛なんて、頑張らなくていいと思うよ。いや、頑張らなくていいよ。頑張って思わなくったっていいの。頑張ったら辛くなるのは自分だから」
そう言って、佐藤さんは、また引き金を引いた。
そして、フッと、人差し指の銃口に息を吹きかけた。
「じゃあ、佐藤さんにはないの? 残像」
「えー、それは言えないにゃあ」
佐藤さんは猫のマネをしながら、そうおどけた。
佐藤さんの心にある残像を隠そうとしたのかは、分からなかった。
「タロちゃんもさ、早く立ち直って、なんとなくでいいから、好きな人、見つけちゃいなよ」
「……なんとなく、かぁ」
「そうだっ! じゃあ、春奈と瑠美だったら、どっちがいい?」
佐藤さんは、からかうように笑っている。
「なんとなく、でいいんだよね?」
「うん、なんとなく。……どっち?」
どっちを言ったとしても、笑われそうで答えたくない。
それに、まだ、そんなに軽く言えるような心持ではなかった。
そうやって、答えれずにいると、佐藤さんは、僕の額にデコピンをした。
パチッ、と佐藤さんの小さな爪が、僕のデコをはじく音がした。
「にゃはははー! タロちゃんには、まだまだ難しそうですなあ」
そう言って佐藤さんは歯を見せて、笑っている。
「タロちゃん。恋愛ってね、失敗しても何かを残していくものなんだって。……タロちゃんは、いい恋愛をしたんだね」
「それが残像のことだよね?」
「残像以外に、いい物もたくさん残ったんだよ。だから、タロちゃんは落ち込んじゃったんじゃない?」
「分からないけど……」
そう言われて、僕は、村口さんのことを思い出そうとしてしまった。
けれど、思い出すのはフラれたという事実ばかりだった。
僕は、佐藤さんの言っている残像を明確に意識した。
残像は、ゆっくりと形をはっきりと浮かび上がらせてくる。
そして、あと少しで形が出来上がるという瞬間に、残像は霧散してしまった。
残ったのは、残像が消滅するときに置いていった仄かなぬくもりだけだった。
「それだよ。そのぬくもりが幸せの証だよ」
僕は、佐藤さんがそう言ったのに驚いた。
正確には、その声が、あまりも近くから発せられたのに驚いた。
眼を開けると、佐藤さんはベッドの上にいて、僕の心臓に手を当てていた。
「少年、それが恋の残滓さ」
「……佐藤さんって、本当に同い年?」
「むぅ、失礼だぞ」
そう言うと佐藤さんは、僕の心臓にあてている手にグッと力を込めた。
「春奈は、ただの恋愛好きのJKなのだ」
それって絶対に普通の人の自己紹介じゃないよね、と言おうとした時。
僕は押し倒された。
体がゆっくりとベッドに倒れていき――ガンッという鈍い音。
僕は、頭をベッドのフレームに強打したのだった。
痛くて少し、涙が出た。
「ちぇー、失敗しちゃった」
僕は、少しは悪びれて欲しいと思った。