桜内さんの隣まで行って彼女の指先を追うと、十メートルほど離れたところに白いものが見えた。ちらりと見えている部分は半円形に丸くて、ちょうどバレーボールくらいの大きさだろうか。茶色や緑色ばかりの林の中で目立つ。
「何だろう。隕石じゃないみたいですけど」
「もしかして、動物かしら。犬とか、猫とか」
たしかに毛が生えているようにも見える。もしそうだとしたら――襲いかかってくるとかはないだろうとは思いつつ、一応、僕は先に立ってゆっくり近づいた。桜内さんが背中になかば隠れるようについてくる。
全身が見えるようになって、すぐに特徴的なピンととがった耳に気づく。
「ウサギ、みたいですね」
彼女もうなずく。
手が届くような距離になっても、それは動かなかった。足は体の下にあるのか見えず目も閉じている。ぬいぐるみかなにかかもしれない。白かったはずの体は泥や枯葉で汚れていた。
「どうしちゃったんだろう。生きてるのかな……」
桜内さんが僕の隣にきて心配そうにいった。
そのままだと彼女が手を伸ばしそうなので、野生動物に触るのはあまり良くないと分かっていたが、僕は腰をかがめて恐る恐る触ってみる。
――思いのほか、硬かった。肌ざわりこそ毛皮そのものだが、そのすぐ下はごつごつとしていた。そして冷たい。嫌な想像が僕の心に浮かぶ。
体を戻して彼女に言葉を選びながら話す。
「もしかしたら、おもちゃかもしれないですね。だって――」
硬いし冷たいし動かないし、と続けようとしたとき、
「あっ、動いたわ!」
えっ、と思って向き直る。たしかにそれ――ウサギは僕の目の前で、ぶるっと体を震わせた。動くおもちゃなのだろうか。僕はもう一度、触ってみる。
感触が変化していた。柔らかくて、そしてほのかな温かさも感じた。
さっきのあれは僕の勘違いだったのだろうか。それとも僕が触ったことがきっかけで意識を取り戻したのか。
「生きてる、みたいです」
桜内さんはほっとしたようすで微笑み、僕の反対側に腰を下ろす。そしてウサギを優しくなでて、泥やほこりを落とした。
「この子、野生のウサギかしら。それともペットが逃げ出したのかな」
僕はスマートフォンを取り出して調べてみる。基本的に野生のウサギは色が茶色らしい。桜内さんにそう話すと、
「そうなんですね。そっか、大変だったね、キミ」
といたわるようにウサギをもう一度、なでた。
捨てられたのかもしれないと思ったけれど、口には出さなかった。
「でも、どうしよう。ここに放ってはいけないわよね。動けないくらい弱っているんじゃ……」
彼女の懸念は僕にもわかる。彼女は腰を下ろしたまま膝をついて、両手をウサギの体の下に回して持ち上げようとする。ウサギは逃げ出すようすもなかった。
「わっ、キミ、意外に重いね!」
そういいながらもなんとかウサギを持ち上げる。
「あっ、怪我してるのかもしれません」
僕は彼女にいった。体の下の方の毛皮に裂け目が見えた。
「えっ、大丈夫かな」
彼女は体育座りをしてももの上にウサギを抱え上げ、優しく調べる。
「あっ、ここに傷があるね。もうふさがっているみたいだけど……」
皮膚に傷跡が見えた。ただ桜内さんのいう通り中が見えるとか、血が出ているとかはなかった。
ウサギはときおり、小刻みに体を震わせた。
「どうしましょう、桜内さん」
「このまま放ってはおけない、かな」
そうに違いないとは思っていた。連れて帰ってうちで飼うこともできなくはないと思うが――。
「私、しばらく預かります。もしかしたら、飼い主も見つかるかもしれないし」
「えっ、大丈夫ですか?」
「うん、たぶん。ちょっとだけだけど、犬を飼っていたこともあるから」
あまり大丈夫そうには思えなかったが、彼女の笑顔を見ると、何もいえなかった。
「それじゃ、下まで僕が持ちます」
「ありがとう、堀江くん!」
僕は彼女から慎重にウサギを受け取る。彼女の話していた通り、想像以上に重かった。そのまま立ち上がるが、抱えたまま山道を下りるのはつらそうだ。
「あっ、そうだわ」
桜内さんはウエストバッグから何か取り出して、広げた。
「エコバッグ、持ってきてよかったわ。はい!」
ウサギは頭だけ出してエコバッグに収まった。目はずっと閉じられたままだ。
僕はそれを肩にかける。何とかなりそうだ。
「ぴったりね」
彼女は微笑んでウサギの頭をなでた。
・
展望台まで戻って山を下りる。
内浦の街並みが見えたとき僕は正直にいってほっとした。ウサギはその可愛らしい外見に反して漬物石のように(持ったことはないけれど、たぶん)重くて、もう足は悲鳴を上げていた。決して表には出さなかったが。
「桜内さんの家って、どのへんでしたっけ」
「千歌ちゃんの……
高海さんの所なら良く知っている。
そろそろ着くというところで桜内さんが話す。
「あの、堀江くん」
「はい」
「飼い主を探すチラシとか、出したほうがいいと思いますか?」
「どうでしょう……」
僕はウサギのほうをちらっと見て、考える。運んでいる途中もずっと目は閉じたままでほとんど動かなかった。
逃げ出したとして、貴重な品種だったりしたら――考えすぎかもしれないが偽の飼い主が現れるかもしれない。もし捨てられたとしたら、飼い主が名乗り出ることはないだろう。
「……飼い主が探しているなら、チラシとか貼り紙とか、何かする気はしますね。それを待ってもいいかもしれません」
細かいことは省略してそれだけいった。
「そうですよね……。わかりました、少し待ってみます」
彼女の家の前で僕はエコバッグを差し出した。
「ありがとう、重かったでしょう」
「えっと、それほどでもないです」
桜内さんは微笑んで受け取る。
「うわっ、キミ、やっぱりノクターンより重いね」
そういっていとおしそうに頭をなでた。
ノクターンが何か気になったけれど、僕のささやかな冒険は終わりだ。
別れて帰ろう、そう考えてから、一応聞いてみる。
「飼い方とかって、わかりますか?」
「わからないけど、かんばって調べます」
僕はうなずく。僕だって似たようなものだ。そこで思い出す。
「あの、うちにケージがあります。妹が前、モルモットを飼っていて……良かったら使いますか?」
「えっ、いいんですか」
「今は物置に放り込んでありますから」
「ありがとうございます!」
「桜内さんは、早めに袋から出してあげてください」
彼女はうなずいた。
僕は家まで急ぎ足で帰り、物置を開けてケージを取り出して、ほこりを払った。プラスチックのトレイに金属の網の、まあわりと安物だ。でもとりあえず使える。
取って返して、桜内さんの家のチャイムを鳴らす。
すぐに彼女は現れた。
「こんな感じで、安物だし、ちょっと小さいかもしれませんけど」
「いいえ、ぜんぜん大丈夫。助かります」
ケージを受け取り玄関の中に置いた彼女に声をかける。
「それで、どんな感じですか?」
彼女は首を振った。
「とりあえず水をあげてみたけど、飲まないみたい」
「そうですか……」
「しばらくようすを見てみます」
もし可能なら見せてほしいが部屋に上げてくれとも頼めない。
だから僕は思い切って話す。
「あの、もし良かったら、ID、交換してもらえますか。ちょっと僕も、どうなるか気になります」
下心がないといったら嘘になるがウサギが気になるのは本当だ。
「あっ、そうですね。ケージもお返ししなくちゃですし」
「いえ、ケージはそのままでも大丈夫ですけど……」
桜内さんは微笑み、僕は無事に、彼女のメッセージアプリのIDを教えてもらった。
「それじゃ、何かあったら連絡しますね」
「よろしくお願いします」
彼女と別れてもう一度、家へ向かう。
この先どうなるかわからないが、ほんの思い付きから始まった冒険は、悪くない結末を迎えたようだった。
§
翌日の日曜日。夕方になって桜内さんからメッセージが届いた。
♫『こんにちは。今日、えさを買って来てみたんだけど、食べてくれないです』
☍『変化はありませんか』
♫『特にないみたいです』
ケージに収まったウサギの写真が送られてくる。
☍『弱っているようすがないなら、しばらく見守るのはどうですか』
♫『そうですね』
☍『何かウサギが逃げ出したとか、そういう話はありましたか』
♫『家族とかお友達にも聞いたけれど、知らないそうです』
僕も人が集まりそうなところ、たとえば観光案内所などでチラシを探したり、友人にさりげなく聞いたりもしたが、逃げ出したペットを探しているという話はなかった。
そして翌日の夜、また桜内さんからメッセージが届く。
♫『食べてくれないのは相変わらずですけど、目が開きました』
そして写真。目が開くとより一層、可愛らしく見える。透き通るような青い目だ。
☍『元気そうで何よりです。可愛いですね』
♫『ええ、とっても』
彼女の手元ですぐに死んでしまう、というような事態が避けられて僕はほっとした。
翌日、部活が休みになっていつもより早く帰宅した僕は、彼女からのメッセージを楽しみにしていることに気づく。とはいえ彼女はまだ学校だろう。
僕はいやいやながらテスト勉強を始めた。
やがてスマートフォンが通知音を鳴らす。桜内さんからのメッセージだ。
♫『なんと! ジュリエッタちゃんが外に出ています!』
興奮したようすが伝わってくる。すぐに写真が届いた。窓際で夕日を浴びているウサギ――あらためジュリエッタ。でも、どうやって。
☍『自分でケージを開けたのでしょうか』
しばらく時間がたった。そしてケージの写真。
♫『電話してもいいですか』
僕はすぐにYESの返事を送信した。
『堀江くん。写真、見てくれましたか?』
桜内さんはあいさつの後、そう話した。
僕は電話がかかってくる前に確認していた。金属でできた網に、ぽっかりと丸く穴が開いているように見えた。
『こんなふうに、なっていましたっけ』
「いえ、何もなかったと思います」
『ですよね。ケージに入れるときに、気づかないわけないと思うし』
僕は少し考えて話す。
「……もしかしたら、古いケージだからさびていたのかも。意外にウサギの歯は鋭い、っていいますし」
『がしがしって噛んでいたら、穴が開いたのかな』
「きっとそうですね。すみません、ケージが小さかったんです」
『いえ、そんなことはないと思います。だって、ずっと動かなかったし』
桜内さんはあわてていった。
「でも、動けるようになったのは嬉しいですね」
『ええ、とっても。よかったわ』
桜内さんは安心したように笑い、続ける。
『とりあえず何かでふさいで……週末にでも、新しいケージを買いに行きます』
「すみません、そうしてください。そういえば、名前、付けたんですね」
『ええ、いつまでもウサちゃんとか、キミとかじゃ悪いから』
「可愛い名前ですね」
『ありがとう』
ちょっと雑談できそうな雰囲気なので、僕は聞く。
「今日は帰り、早いんですね」
『ええ、もうすぐ中間テストだから
「はい、部活が休みなので」
『そう、よかった』
「あ、ジュリエッタは大丈夫ですか?」
『ええ、今、私の隣にいるわ。気持ちよさそうに目を閉じてる。日向ぼっこが好きなのかしら』
ウサギの隣に座る桜内さんを想像して、僕はほっこりする。
「それじゃ、また何かあったら連絡してください」
『ええ。ありがとう、堀江くん』
彼女が電話を切る。別に僕にできることは客観的に考えたら何もないのだが、嬉しくて仕方なかった。
・
桜内さんからは翌日、ケージを日の当たるところに移したと連絡があった。「心配しなくても日陰は作ってあります」とも。
またその次の日には「初めて鳴き声を聞きました! ラの音です! 澄んだ声でした!」と興奮したようすのメッセージが来た。「ちょっと気になることはあるけど、もう少し待ってみます」とも。やはりまだ食事はしていないのだろう。
とはいえ、ジュリエッタはとりあえず無事らしかった。
土曜日、朝昼兼用の食事を食べたころ。スマートフォンが珍しく着信音を鳴らした。誰だろうと思って見ると、桜内さんだった。急いで通話に出る。
『あ、堀江くん! ごめんなさい、急に電話しちゃって』
あわてたようすが伝わってくる。
「いえ、それは大丈夫です。どうかしましたか」
『ジュリエッタがいなくなったの!』