意外なほどにゆっくりとジュリエッタが落下し、ドサッと目の前の草むらに落ちた。プラスチックと金属が焦げるようなにおいがする。
「ジュリエッタ!」
桜内さんと僕はあわてて駆け寄る。
彼女は膝をついてウサギを抱きかかえる。白かった毛皮は随所で焦げたように黒くなっていた。
もう一度、彼女はウサギの名前を呼んだ。反応はなかった。
桜内さんが立ち上がり僕は彼女の腕の中のジュリエッタを調べる。
息をしているようなようすはなく、もうぴくりとも動かなかった。ただそれがロボットだとしたら、死んだ――壊れたことを意味するわけではないが――。
「どうしよう、こんなことになるなんて」
絞り出すような声で桜内さんが話した。
彼女は責められない。誰が抜け出すなんて思うだろうか。でもそんな言葉はかけられなかった。
桜内さんはゆっくりとジュリエッタの体をなでた。
「とりあえず、連れて帰りましょうか」
僕がいうと桜内さんはうなずいた。
・
持ちましょうという僕の申し出を桜内さんは断った。気持ちはよくわかった。
帰り道、僕たちは無言だった。
桜内さんの家へついて、彼女がドアのカギを開けられるように僕はジュリエッタを預かる。そのまま僕は彼女の部屋まで抱えていき、ケージにウサギを横たえた。
そうしていると眠っているのと変わらなかった。
「呼びかけるとね、返事をしてくれるようになってたの」
桜内さんはそういいながら腰を下ろし、もう一度、ジュリエッタを優しくなでた。
「ピアノの音にだって、応えてくれたのよ」
しばらく桜内さんは無言でなで続けた。僕も何もいわなかった。
やがて、ぽつりという。
「もしかして、やっぱり私、カギをかけ忘れたのかしら」
「そんなことはないと思います!」
思いのほか大きな声になってしまい、桜内さんがびっくりした顔で振り返った。
「……すみません。でも、きっとそうではなくて……」
偶然、カギが外れた? いや――。
「さっき、見ましたよね。電柱に
僕がいい切ると、彼女は表情を柔らかくした。
「ありがとう、堀江くん」
彼女は立ち上がるとピアノに近づき、ふたを開けてカバーを外すと、立ったままでいくつかの音を弾く。
そして最後に、どこか悲しい感じの響きのする和音を響かせた。
「この音が、お気に入りだったみたいなの」
僕に向かって微笑み、僕はうなずく。
そのときだった。視界の端で、ジュリエッタがかすかに体を震わせた気がした。
「いま、動きました!」
「えっ」
あわてて桜内さんは駆け寄り、ウサギの体に手を触れて声をかける。
「ジュリエッタ!」
反応はない。もしかして僕の勘違いではと思い始めたころ。
「……ピッ」
かすかだけれど、鳴き声が聞こえた。
「桜内さん!」
「ええ」
僕たちは顔を見あわせた。聞き間違いではなさそうだ。
彼女がジュリエッタを抱くと、ウサギは耳をわずかに動かす。彼女の顔に明るさが戻る。
「無事なのね、ジュリエッタ」
どうやら最悪の事態は避けられたようで、ようやく僕もほっとする。
「よかったですね」
「ええ、本当に。……まったく、キミには心配させられるんだから」
桜内さんが優しく声をかけた。
感電したのにも関わらず無事という事実は、ロボット説を補強したと僕は思う(いやロボットだって無事とはいかないはずだが、少なくとも動物よりは可能性があるだろう)。
ただわからないのは――。
「それにしても、どうしてあんなところに上ったんでしょうね」
「さあ。たしかに日向とか夜空とか、好きみたいだけど」彼女は首をかしげる。「もしかしたら、ジュリエッタちゃんは月からの使者で、月に帰りたいのかも」
「かぐや姫みたいですね」
「そういう名前が良かったかしら」
彼女はくすりと笑い、ウサギをいとおしげになでる。
「もう逃げ出しちゃだめよ。外は危険がいっぱいなんだから」
言葉を理解したとは思えないけれど、ジュリエッタは「ピピッ」とふたつの和音で答えた。
§
数日後、桜内さんからジュリエッタがすっかり元気になったと報告があり、僕は安堵した。
そして次の土曜日、夕方。僕は彼女の家の前にいた。今度こそジュリエッタを見に来てほしい、そういわれたのだった。
チャイムを鳴らすと、部活から帰ったままなのだろう、制服姿の桜内さんが出迎えてくれた(僕は私服で、それなりの格好をしてきたつもりだ)。
「いらっしゃい、堀江くん」
「お招きいただき、ありがとうございます」
「大げさね」
彼女はくすりと笑った。
「ジュリエッタは元気にしてますか」
「ええ、もうすっかり。どうぞ、上がってください」
家の奥の方から「梨子、お友達?」という女性の声がして、桜内さんは「ええ、そう。部屋に上がってもらうわね」と答えた。
僕は階段を上りながら聞く。
「Aqoursの練習はもう終わったんですか」
「ええ、さっき帰ってきたところ。……はい、どうぞ。ジュリエッタ、ただいま」
ジュリエッタはケージの中にいて目を閉じていた。僕は近づいて腰をかがめ、いう。
「ジュリエッタ、元気だったか?」
「ピピピッ」
なんと、僕の呼びかけにも答えてくれた。僕は嬉しくなる。
「あら、ジュリエッタ、お利口さんね」
桜内さんが得意そうにいった。そういえば元気なジュリエッタと会うのは初めてだ。
「今、お茶を入れてきますね」と桜内さんはいったん部屋を出た。
僕はウサギを観察する。焦げていた毛皮はすっかり元通りになっているようだ。ネットで調べた自己修復性素材というものだろうか。
「ジュリエッタ、お前、何者なんだ?」
ウサギは答えなかった。
桜内さんが戻り、部屋の中央の丸いローテーブルにカップの載ったトレイを置いた。
僕は勧められた紅茶を一口飲んでから、聞く。
「ピアノの音を真似するんですか」
「ええ、そうなの。弾いてみせるわね」
桜内さんはピアノに向かい、腰を下ろした。「ジュリエッタ、よろしくね」といってから、和音をひとつ、鳴らす。
するとジュリエッタは同じ音で鳴いた。電子音のような
「すごいですね」
彼女は得意そうに、今度は連続して三つ、音を奏でた。ウサギが同じ音を繰り返す。ただその透き通った音は、まるで動物らしくはなかった。
「それにね、これだけじゃないの。言葉も真似してくれるみたい」
桜内さんはピアノから離れて、今度はジュリエッタの横で膝をついて話す。
「こんにちは」
ウサギは五音節で鳴いた。
ほらね、というように桜内さんが僕へ微笑む。
「ジュリエッタ、元気?」
今度は三音節。
「楽しい?」
四音節。
「すごいですね、ここまでなつくなんて」
「でしょう。私も初めはびっくりしたわ」
たしかにすごい。ただ、どうやらこちらの言葉をオウム返しにしているだけのようだ。単純な仕組みのプログラムに違いない。でも、それを桜内さんに告げるつもりはなかった。
「偉いね、ジュリエッタちゃんは」
ウサギは四音節で答えた。――ん?
「桜内さん、ジュリエッタは真似してる、っていってましたね」
「ええ、ずっとそう思っていたけれど……」
きょとんとした顔の桜内さん。
「さっき、明らかに違いました。桜内さんの言葉より、ずっと短かったですです」
「そういえば、そうかも……。ねえ、ジュリエッタちゃん?」
二音節。
「もしかして、何か返事をしているんじゃ」と僕。
「えっ、そんなことがあるのかな」
半信半疑の桜内さん。
「ジュリエッタ、僕の名前がわかるかい?」
四音節だ。
「私の名前は?」
桜内さんの問いには二音節。五音節でなくて、と思って気づく。梨子、だ。
僕たちは顔を見合わせる。
「これってもしかすると……」
「ええ、堀江君のいう通りよ。きっと間違いないわ」
それから僕たちはいくつもの質問をジュリエッタに投げた。桜内さんも僕も興奮していた。オウム返しすることもあったし、「ピーッ」と長く鳴くだけのこともあったが、ジュリエッタはやはり何か答えようとしているようだった。
「でも、何をいっているか、わからないわね」
一段落して彼女がいった。僕もうなずく。
和音はどうも文字に対応しているようだった。たとえば「こんにちは」の返答――たぶん「こんにちは」だ――の最初の音節は、「りこ」の二音節目と同じ音だった。
でも五十音をすべて聞き取って対応させるのは難しい(桜内さんなら時間をかければできるだろうけれど)。なにか規則性がないだろうか。
ふと思いついて。桜内さんに提案する。
「あの、ためしに楽譜にしてみてもらえますか。これまでのジュリエッタの返答を」
「ええ、いいわよ」
彼女は不思議そうだったけれど、シャープペンシルと、どこからともなく五線譜を取り出して書き始める。
「これが、たぶん『こんにちは』。これは『りこ』。たしかにここのふたつは、同じ音ね」
「やっぱりそうですね」
僕は力づけられる。
「そして『ありがとう』……いえ、四音節だから『ありがと』かしら」
そんな感じでページにはいくつもの音符と、それに対応する文字が並んだ。
「あ、か、さ、た、な……あ、い、う、え、お……うーん、何か法則がありそうなんですが」
でも、僕にはわからなかった。
「そうね。……あ、でも、ちょっと待って」
桜内さんがハミングをしながら指先をページの上で行ったり来たりする。
「もしかして、コード、かしら。『あ』と『い』、『か』と『こ』、それぞれ同じコードだわ」
「コード?」
「ええ、正確にはコードネーム。和音を構成する音が同じなの」
桜内さんが指をさす。僕には学校の音楽の授業で習ったくらいの知識しかないが(一応楽譜は読める)たしかに同じ音の組み合わせに見えた。
「だとすると、あいうえお、にも違いがあるとか?」
「そうかもしれない。えっと……」
また彼女はしばらく眺める。今度は早かった。
「音程が違うわ。それぞれ転回形とオクターブが違う」
彼女はさっと立ち上がるとピアノに向かった。
いくつかの和音を弾く。ジュリエッタが鳴き声で短く答える。
「今、『これわかる』って弾いたの」桜内さんは鳴き声と同じ音を奏でる。「答えは『はい』」
もう一度、和音の組み合わせを弾く彼女。ジュリエッタは耳を倒した。
僕が疑問の目を向けると桜内さんはパチッとウインクする。
「今はね、『耳を伏せて』って弾いたのよ」
「すごい! ちゃんと会話できてますね」
「ええ、夢みたい」
彼女はジュリエッタのところに戻り、抱き上げるとほおずりをする。
「すごいわ、ジュリエッタちゃん!」
ウサギは四音節で、たぶん「ありがと」と鳴いた。
・
それからは急速に進んだ。質問をして、桜内さんは答えを楽譜に書き留める。その言葉を推測する。
すぐにすべての子音がわかった。
「濁点はオクターブが下の音がひとつ増えるみたい。半濁点は……たぶんオクターブ上だわ」
「なるほど、そういうことですか」
ジュリエッタは難しい質問、たとえば「どうして逃げたの」とかには「ピーッ」と鳴いて答えなかったが、簡単な質問には素直に答えた。
「
「そうですね。それも違いがありますね」
僕は楽譜を見つめるが、規則性はやはりわからない。
「ここが『し』で、こっちはたぶん『しゅ』、これは『しょ』ね」
「こっちに『き』と『きょ』があります」
「うーん、どれもひとつ音が多いわ……これはたぶん……。ちょっと待ってね……」
シャーペンを頬に当てて考える桜内さん。僕はその横顔を見守った。
「わかった! やっぱりそう。前の文字のコードがセブンスになっていて、やゆよ、は音程の違いだわ」
「ということは……」
「たぶん、解読できる、と思うわ」
桜内さんはジュリエッタに向き直って、聞く。
「キミの名前は?」
ウサギは四音節で答えた。桜内さんはピアノで音を再現する。
そして僕に向かい、にこっと笑う。
「じゅりえた、ね」
「小さいつ、はなくなるんですね」
「あら、聞いてなかった? ちゃんとそこに、休符があったわ」
彼女は今度はジュリエッタに優しく微笑んだ。
気づいたときには窓の外はすっかり暗くなっていた。そろそろ帰らないとまずいだろう。
冷たくなった紅茶を飲んで、僕は桜内さんにそう話した。
「ありがとう、堀江くん」
玄関で彼女がいった(幸いというべきか、親御さんは忙しいらしくて出てこなかった)。
「いえ、桜内さんが解読したようなものですし」
「私だけだったら、気づかなかったかもしれないわ」
「それは……」
きっと彼女のことだから、今日でなくてもすぐに気づいただろうと思う。でも、今は素直に受け取ることにする。
「いえ、どういたしまして」
にこっと彼女は笑う。
「それじゃ、またね。何かあったら連絡しますね」
「ぜひそうしてください。それでは、失礼します」
「ええ、さようなら、暗いから気をつけてね。堀江くん」
足取りも軽く僕は家へ帰る。西の空に細い月が輝いていた。