……大丈夫か?
──チュンチュンチュン……。
「ん……」
外から小鳥の囀りが耳に飛び込んできて、スズカは閉じていた瞼をゆっくりと開く。
最初に目に入ったのは見知った物だったが、しかし、ここ最近では全く見ていなかった天井だ。
即ち、病室の天井ではなく、トレセン学園の寮にある自室の天井だった。
「え、私……どうして……?」
反射的に壁に掛けてあるカレンダーを見る。
そこに示されていた日付は去年の6月。つまり、日本ダービーが終わった直後だった。
「嘘でしょ……? 本当に戻ってきたの……?」
未だに情報の整理が追い付かないまま、そっと布団を捲ってみた。
そこには怪我などどこにも無い、綺麗な脚があった。
恐る恐る脚に触れる。あの焼ける様な激しい痛みは襲ってこない。
実に健康的な脚だった。
「脚が治ってる……! また走れる……!」
「良かったわね、サイレンススズカ」
「ええ……! ……えっ?」
治った脚に思わずきゃっきゃっとはしゃいでいる所へ声が掛けられ、その勢いのまま頷き、そしてぴたっと動きを止める。
ゆっくりと軋む様に首を横へ向けると、隣のベッドに腰掛けて足を組み、こちらをニヤニヤと見つめている制服姿の女神が居た。
スズカの思考はフリーズした。
「え、えっと、あの?」
「身体はこちらの貴方の物だから脚も万全だと思うけれど、その様子だと問題は無さそうね」
くすくす、と彼女は笑って、ベッドから飛び降りる。それから机の上にある卓上時計を指して言った。
「それより、早く行かないと遅刻するわよ?」
「え? あ、嘘でしょ。もうこんな時間!?」
バタバタと急いで身支度を始めるスズカを見て、女神はやれやれと肩を竦めて見せるのだった。
⏱ ⏱ ⏱ ⏱ ⏱
朝食を女神が何処からか調達していたにんじんパンで済ませ、スズカと女神は学園へと向かっていた。
「寮の食堂で出していた物だけど、案外美味しい物ね」
もぐもぐ、と両手でにんじんパンを持って頬を膨らませながら食べている女神の姿はさながらハムスターのようであった。
スズカよりやや低い身長でその仕草をしているのは、何処か可愛げを感じさせる。
じぃ、と見つめながら歩いていると、何よ、と言わんばかりに見上げられてしまったので、慌てて前を向く。
それを見た女神はパンを食べる事に意識を戻し、最後の一片も口の中に放り込む。
「けふ。それでサイレンススズカ。貴方の身体の事なのだけれど」
「スズカで良いですよ。……今の所、何も違和感は無いです。動かせなかった左脚もこの通り元気です。でも、どうやって?」
スズカが一番気になっていたのはそこだ。
過去に戻る時に、スズカの怪我はどうやって治したのか。
勿論、女神の力で治療されていたという事も考えられるが、それならそれで女神すごい、となるだけだ。
水を向けられた女神は食べカスを指で拭い取りながら事も無げに答えた。
「簡単な事よ。過去に戻したのは
「え……?」
女神の口からタイムスリップの絡繰りを聞かされ、唖然とするスズカ。
この身体は自分であって自分ではない。では、本来の自分は──?
「こればかりはどうしようも無いわ。肉体ごと戻せばスズカが2人、なんて珍事態になるし、1年後の成長した貴方の肉体で走れば周りは違和感を覚えるでしょう」
だから、こうする以外にやりようは無いのよ、と女神は締め括り、スズカに背を向けた。
それを見て少し不安になったスズカは声を掛ける。
「あの、何処へ……?」
「私はこっちに少し用事があるから、先に教室に行きなさいな。結構ギリギリよ?」
言われて時計を見れば、確かに予鈴が近い。まだ聞きたい事は多いが、遅刻するのだけは避けたかった。
後ろ髪を引かれる思いで女神と別れ、自分の教室へ向かう。
教室に入れば、同期で特に仲の良いウマ娘達がドタバタと集まってきた。
デビュー直後からマイラーとしての頭角を現しつつあるタイキシャトル、ダービーではスズカと同じく着外に沈んだものの素質を秘めているマチカネフクキタル、桜花賞は惜しくも2着だったがオークスで実力を証明したメジロドーベルの3人だ。
「ハウディ、スズカ!」
「おはようございます、スズカさん!」
「おはよう、スズカ。今日は珍しくギリギリじゃない?」
「3人共おはよう。……ええ、まあ、ちょっとね」
首を傾げて聞いてくるドーベルに対して苦笑気味に言葉を濁すスズカ。
確かに、普段なら早めに起きて自主トレをしてから教室に入っていたのでこの時間よりは早い。
ドーベルが気にしているのも無理は無かった。
「……もしかして、この間のダービーの事?」
「あー、そうね。そんな所よ」
丁度ダービー直後の時期だったお陰か、ドーベルがそちらの方向へ話を持っていったので適当に頷いておく。
そうするとタイキもウンウン、と頷いて話を繋げた。
「ダービーはスズカもおハナさんもかなりガックリしてマシタネ」
「私が言うのも何ですけど、あんまり引き摺るのは良くないですよ!」
という事で今日の運勢とかどうです? と、水晶玉を取り出し始めたフクキタルを制止し、丁寧に断りを入れてから3人と別れて席に着く。
チャイムと同時に担任が教室に入ってきて、朝のホームルームが始まる。
しかし、今日のホームルームは少し違った。
「おはようございます、皆さん。今日はこのクラスに編入生が入る事になりました。皆さん仲良くしてあげてくださいね」
そうして担任に呼ばれて教室に入ってきたのは。
「……っ!?」
「シャムと言います。よろしくお願いしますね?」
先程別れたばかりのはずの、黒鹿毛の女神だったのだ──。
⏱ ⏱ ⏱ ⏱ ⏱
衝撃の展開から時は少し進んで、今は昼休み。
突如、編入してきた謎のウマ娘にクラスメイト達が気にならないはずも無く、昼休みになるや否や女神もといシャムの周りに集まる。
「ハウディ! よろしくお願いしマス!」
「おう、お前どこモンなんだよ? あ?」
「リョ、リョテイさん! シャムさんは転入じゃなくて編入だから、ここが初めてのトレセン学園ですよぉ!」
「それに初対面でそんなに威圧しないの。怖がらせちゃうでしょ」
タイキが話し掛ける裏で1人騒がしく威嚇するキンイロリョテイをフクキタルとドーベルが引き剥がして遠ざける。
それでも暫くシャムを睨み付けていたリョテイだったが、ふん、と鼻を鳴らすと2人を軽々と振り払って、飯! と言うなり教室を出て行ってしまう。
当の睨まれていたシャムはと言えば、くす、と可笑しそうに笑うだけだった。
「ふふっ。とても元気ね、あの子」
「ソーリー、シャムさん。リョテイは悪い子じゃないデスから多めに見てあげてクダサイ……」
「良いのよ。私も気にしていないわ。それより……」
タイキの謝罪に手を横に振って気にしていないと示したシャムは、頬を少し染めてそわそわしだす。
周りの皆が頭に疑問符を浮かべていると、きゅるぅ、と可愛らしい音が聞こえてきた。
音の出所を見れば、シャムが更に顔を赤くして俯いてしまう。
それを見た皆は暫し顔を見合わせ、やがて小さく笑いを吹き出した。
「ワオ! とってもキュートなお腹の虫デスネ!」
「確かにここに居ても時間が勿体無いよね。皆で食堂に行こっか」
「ハイ! 皆さんで行きましょう! ところで今日のラッキーランチは──」
「嘘でしょ……ご飯まで占うの……」
「あぅあぅあぅ……」
未だに恥ずかしそうにしているシャムを引き連れ、皆で食堂に行く。
そう言う事になった。
⏱ ⏱ ⏱ ⏱ ⏱
揃って食堂にやって来た5人は、折角なのでこの面子のままテーブルを囲んで昼食を摂る事にしたのだが。
「んぐっ、はふっ、もぐっ」
「……」
どうやら、我らが女神様は思った以上に食べるウマ娘だったようだ。
そこまで多くは食べないスズカやドーベル、フクキタルは元より、アメリカン! な感じで大量の料理を積み上げているタイキでさえ目を丸くしてシャムの食べる様を見つめていた。
「アンビリーバボー……。シャムさん、そんなに食べてお昼からのトレーニング、大丈夫デスか?」
「んっ……。まあ、大丈夫よ。それより、ここの食事は美味しいわねぇ」
「そりゃあ、もちろん。ご飯は元気の源だもの。それが美味しいからトレーニングも頑張れるのよ」
そう言いながら、ドーベルはにんじんソテーをサクサク切り分けて食べる。
メジロ家の教育の賜物なのだろう。学園の食堂であっても、その所作は見事なものであった。
スズカもサンドイッチを手に取って一口食べようとすると、シャムがこちらをじっと見つめている事に気が付いた。
すっ、とサンドイッチを持った手を左右に振ってみるとそれに合わせて顔が揺れる。
どうしようかと少し悩んだ末、スズカはサンドイッチを食べた。それを見たシャムの顔がショックを受けたように歪む。
「スズカ。あんまり意地悪してあげないの。ほら、シャムさん。これでも食べて」
俯いてぽつぽつと食べるようになってしまったシャムを見かねたドーベルが自分のにんじんを分けてあげる。
それが目の前に置かれた途端にぺろりと食べてしまった。そこまでお腹が空いていたのだろうか。
もしかしたら、現世の食事に馴染みが無いのかも知れない。それなら、ここまで食べるのも納得出来る。
それから暫くして各々の食事が落ち着いてきた頃、口を開いたのはフクキタルだった。
「そういえば、シャムさんってここに来る前はどこに?」
「んー、そうね。私は元々イギリスから移住してきたのよ」
「イギリス! それはまた遠い所から来ましたネ!」
「ええ。元々小さい頃から日本が好きだったのだけれど、丁度実家の都合でこちらに来る事になったのよ」
良くもまあ、口が回るものだ。澱み無く質問に答えていくシャムを、スズカは口を開けて見つめていた。
女神と言うのは口達者で無いとなれないものなのだろうか。だとすれば、自分には到底無理そうだ。
そんな風に考えていると、不意に手が軽くなったように感じた。
「あむあむ……。このサンドイッチも美味しいわね」
「嘘でしょ……」
見れば、考え事をして意識が逸れている間に手元のサンドイッチをシャムに食べられてしまったようだ。
お腹がポッコリ出ている様はもはや女神の威厳なんてどこかへ消えてしまっている。
「もう。それ以上食べたら本当にしんどくなってしまうんじゃないかしら……」
「んん、それもそうね」
呆れたようにスズカが嗜めると、漸くシャムは食べるのを止めて箸を置いた。
当然だが、シャムが持ってきた食器の中身は空っぽである。
あの小さな体のどこにあれだけの食事が入るのか。スズカはそこまで考えて、それ以上は止めた。
「あれだけの量を食べきるなんてすごいわね……」
「そうかしら? それ程でも無いと思うけれど」
「いや、十分すぎると言いますか……」
「シャムのお腹はブラックホールか何かデスか?」
「十分普通のウマ娘の胃袋よ。さ、もうすぐお昼休みも終わりだし、教室に戻りましょ」
どうやら、周りの友人達も同じ事を考えていたらしい。
それに対してケロリとした顔で答えたシャムはトレーを持って立ち上がった。皆も続いて席を立つ。
昼休みが終われば、所属チームに分かれてのトレーニングがある。
──いよいよ、“やり直し”が始まるのだ。
そう思うと、スズカは脚の疼きを抑えきれないのだった。
「おや? スズカさん、スキップなんかしてどうかしたんですか?」
「あ、いえ……。何でも無いわ」
「?」
教室に戻るまでに疼きは何とかして抑え込んだスズカであった。
時を越え、日常へ戻った少女は一時の間、幸せに浸る。
もう間違う事は無いのだと信じて。
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