追記:
分割したから前後編にした方が良いかと思い、タイトルを変更しました。
昼休みが終わり、それぞれ自分のチームでのトレーニングが始まった。
タイキとスズカはリギルに。ドーベルとフクキタルはポラリスというチームに。
シャムだけは選抜レースに出ていないので、来週の選抜レースに向けて教官から基本を一通り教えてもらう事になっている。
……1週間で何とかなるものなのだろうか? 選抜レースから1週間でデビューした子は見た事があるが、それよりも更に厳しいと思うのだが。
当の本人は大丈夫、と言って意気込んでいたが、果たして。
「スズカ。そんなに考え込んでどうしたんだ?」
他にも、シャムはちゃんと走れるのだろうか等と考え事をしていると、その様子を怪訝に思ったのか、1つ年上でチームメイトのエアグルーヴが声を掛けてきた。
周りを見れば、皆ストレッチを終えて東条トレーナーに今日のメニューを確認している所だった。
スズカはと言えば、へにょーん、と開脚前屈したままであった。
「ん。あ、エアグルーヴ。ううん、何でもない」
「そうか? それなら良いんだが。それより早く今日のメニューの確認に行ってこい」
「ええ。そうする」
何でも無いと首を振るスズカに、エアグルーヴは少し首を傾げながらも、東条トレーナーの所へ行くように促す。
スズカは前屈を止めて立ち上がると、その足で東条トレーナーの元へ向かった。
「おハナさん。ストレッチ終わりました」
「来たわね、スズカ」
他のメンバーは丁度話を終えた所だったようで、声を掛けると直ぐに東条トレーナーは振り向く。
そして、ボードの上に乗っていたストップウォッチを手に取るとスズカに見せながら今日のメニューの説明を始めた。
「今日は併走を兼ねたタイムの測定を行うわ。併走相手はエアグルーヴ。距離は2000mの右回り。秋の天皇賞を見据えた距離よ」
「はい」
「それで、測定する時の走り方の事だけど。今日は貴方の好きに走ってみなさい」
「えっ? 好きに、ですか?」
東条トレーナーの言葉を聞いて思わず聞き返し、それから思い出す。
今がダービー直後だった事。そして、夏合宿前に東条トレーナーから“大逃げ”の提案を受けた事。
今の東条トレーナーの姿が未来と殆ど変わらない姿だったからうっかり忘れていたが、ここは過去の世界である。
この時点までの東条トレーナーはスズカに先行策を指示していたのだ。
それに従ってプリンシパルSとダービーを走っていた事をスズカは漸く思い出した。
「そうよ。プリンシパルで上手く行ったからダービーも先行策でやらせてみたけれど、あの結果を見る限りはデビュー当初の逃げ足を伸ばした方が上手く行きそうな気がするのよね」
──だから、今後の方針の為にも前みたいな走りをもう一度見せてもらえないかしら?
東条トレーナーの頼みにスズカが頷かない理由は無かった。
過去に戻ってきたスズカには1年分多い知識と経験がある。
今ならもっと上手く“大逃げ”をして、東条トレーナーを喜ばせる事が出来る。
あの時、東条トレーナーに見せられなかった夢を今度こそ見せる事が出来る。
そう思うと、脚が疼いて仕方が無かった。心臓もどくどくと高鳴り始める。呼吸も少し早い気がする。
(だめだめ。抑えなきゃ。深呼吸、深呼吸……)
2度ほど深呼吸した後、思考もどこか夢見心地なまま、スズカはエアグルーヴの隣に立つ。
「今日はよろしく頼むぞ、スズカ。……大丈夫か、スズカ? 顔色が悪いように見えるが……」
「え?」
エアグルーヴに言われてから気付く。背中をぞくっと這い上がる気持ちの悪い寒気に。
脚は小刻みに震え、心臓はもはや早鐘の様に鼓動し、額には脂汗が浮かんでいた。
(あ、れ──?)
予想もしなかった事態にスズカは困惑した。
一度意識してしまうと、後はあっという間だった。
脚の疼きは震えに。胸の高鳴りは何かへの恐れに。そして、早まる呼吸は苦しみを伴う過呼吸に。
身体が、本能が危機を訴えている。これ以上は何かが危険だと。
その何かが何であるかを理解できないまま、スズカは襲い来る異変に翻弄されていった。
襲い来る身体の異常に、スズカは訳が分からないままに深呼吸をしようとする。
「……かひゅ」
しかし、漏れたのは浅く吐き出される吐息のみ。
呼吸が上手く出来ない。水の中で溺れるように口から出ていくばかりだった。
「っ!? スズカ!?」
明らかに尋常ではないスズカの様子にエアグルーヴが肩へ触れようとして、しかし、スズカはそれを振り払う。
拒絶されたエアグルーヴは驚きに満ちた表情でスズカを見た。
「大、丈夫……! 大丈夫、よ……!」
「しかし、そんな様子では……!」
「大丈夫……だから……!」
首を振り、何とか身体を脚で支える。呼吸も無理やり大きくゆっくりと繰り返す。
ここで折れてしまえば、あの秋の天皇賞は、東条トレーナーへの恩返しはどうなるのか。
全てやり直すために過去に戻ったのに、それを無意味にしたくない──!
「私は、走れる。走れるわ……!」
「スズカ」
鬼気迫る表情でスタートの構えを取ろうとしたスズカの肩を誰かが掴む。
エアグルーヴが立っている方向とは逆の方向に置かれたその手の持ち主に察しがついたスズカは、ゆっくりとそちらの方へ振り向く。
「今日はもう帰って休みなさい。そんな状態でトレーニングなんて出来る筈が無いわ」
「おハナ、さん……?」
手の持ち主──東条トレーナーは首を横に振り、スズカの手を取る。
──このままだと、本当に帰らされてしまう。
そう思い、抵抗しようと脚を踏ん張るスズカだったが。
「ぁ……」
東条トレーナーに、人間に手を引かれるままに身体が引っ張られるのを感じて、気が付いた。気が付いてしまった。
今の自分は抵抗も出来ない程に力が無く、本当に走る事さえも出来ないのだと。
──東条トレーナーに恩返し等、出来る筈も無いのだと。
「ぅ、ぇ……」
「え、ちょっと、スズカ!?」
身体の底から湧き上がってくる嫌悪感に思わずしゃがみ込み、口を押える。
あの時は耐えられたが、今はもう、無理だ。
それを抑えきれずに、スズカはそのまま溢れさせた。
動揺したのは東条トレーナーや周りに居たチームメイト達だ。
スズカの顔色が悪いと思っていれば、更に深刻な状況であった事に気が付いたのだから。
「スズカ!?」
「お、おハナさん! ワタシ、あれ、あれ呼んできマス!」
「大丈夫か!? おい、スズカ! しっかりしろ!」
一番動揺したであろうタイキは咄嗟に救急車の名前を出せず、そのままベンチに置いてあった彼女のウマホに飛び付いた。
その間に東条トレーナーとエアグルーヴは声を掛けながらスズカの背中を擦り続ける。
スズカは酸欠とショックによって薄くなっていく意識の中でそれをどこか遠くに感じながら、糸が切れた様に意識を手放した。
「お、ハナさ……ごめん、なさ……」
その直前に少女が小さく漏らした呟きは、そのまま儚く虚空に溶けて消えた。
⏱ ⏱ ⏱ ⏱ ⏱
「……まあ、遅かれ早かれ、そうなったでしょうね」
スズカ達リギルが居た場所から少し離れた所に、女神は居た。
実技の授業は同じ練習場で行われていた為、教官は授業を一時休止して騒ぎのあった方へ向かっている。
やがて救急車が到着し、急患らしき人影がストレッチャーに乗せられてその中へ運び込まれていく。
その一連の流れを表情の抜け落ちた顔で女神は見送った。
女神には全て分かっていた。勿論、彼女がこうなるであろう事も。
「あれ程の重傷を負っていながら、治ってすぐに走れるウマ娘は居ない……いえ、ウマ娘だけで無く、
それでも、女神はあの時点で接触するのが最善だと考えていた。
恐れが完全に根付いてしまえば、もう取り返しは付かない。
だからこそ、そうなってしまう前に女神はあの日、あの時に彼女に接触したのだ。
全ては夢の先にある筈の果てを見届ける為に。
「……それでも、頑張りなさい、スズカ。貴方の旅はまだ始まったばかりなのだから」
女神の呟きは誰の耳に届く事も無く、風に溶けて消えた。
疼き、高鳴り、昂ぶり。それらは全てまやかしだった。
知らず知らずのうちに抑え込んでいたモノが、現実を前にして溢れ出そうとしていた。
表面上では何も問題は無くとも、奥底にこびり付いたソレはこそげ落ちずに残っているものなのだ。
過去は、無かった事にはならないのだから。
ここまで読んでいただきありがとうございました。
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