──また、夢を見た。
あの秋の天皇賞の夢。
“私”がスタートから気持ち良く走っていく。誰よりも先に、一番にターフを駆けていく。
後続の子達は“私”のスピードに着いて来られない。何ならもう気にする必要すらない。
“私”は、この先頭の景色をずっと見ていたいだけだから。
離れすぎて1人きりの旅路。寂しいと思った事は無い。
ゴール前にはおハナさんやリギルの皆が待ってくれている。それだけで十分だった。
でも、恐らく彼女達が居なくとも、きっと変わらないだろう。
だって、“私”には、私の心には、魂には──。
無意識的に湧き上がった想いをそっと大事に仕舞い込み、“私”は駆けた。どこまでも、ずっと。
──そして、運命の時が訪れる。
府中の大欅を越えた所で最後のスパートに備えようとした時、“私”は自分の速さによって、左脚を踏み砕いた。
あ、と声にならない声が漏れる。
駄目。おハナさんが、皆が私を待っているのに。こんな所で。
前に行こうとしても激痛で脚に力が入らない。それでも勢いの付いた脚は止まらない。
左脚を致命的に破壊していきながら、どうしてか“私”は外ラチの方へふらふらとヨレていく。
そのまま左脚に全く力が入らなくなった所で、“私”は左側から勢い良く転倒した。
──私が覚えているのは、ここまでだ。
⏱ ⏱ ⏱ ⏱ ⏱
「ん、ぅ……」
閉められたカーテンの隙間から差す光を顔に受け、スズカはゆっくりと目を開く。
つい先日まで見ていた天井の景色が視界一杯に広がった。
「またここ……」
「スズカ?」
「!?」
ぽつり、と呟いた言葉に返ってきた声を聞いて、思わず跳ね起きるスズカ。
見れば、ベッドの横に東条トレーナーが座っていた。
果物、食べる? と聞かれ、頷くとカットフルーツが入ったラップ付きの器を冷蔵庫から取り出してラップを剥がし、爪楊枝を果物に刺して差し出された。
お腹が空いていたのか、一度食べると手が止まらずパクパクと食べ続ける。
東条トレーナーはスズカが果物を食べ終えるまで、黙って待っていた。
スズカが最後の一口を食べ終わった所で、東条トレーナーが口を開く。
「スズカ。身体は大丈夫かしら?」
「はい、大丈夫です。……すみません」
「謝るという事は、何か心当たりがあるのね?」
「それは……」
言い澱むスズカに東条トレーナーはスズカが倒れた理由について医者から聞いた話をする。
曰く、スズカの身体に異常は無く、恐らくは心的ストレスが原因だろうと言う事らしい。
それならば、スズカに何かあったのだろうと言う事で東条トレーナーは確認したのだ。
それに対してスズカはすぐに答える事が出来なかった。
心当たりは、ある。あの秋の天皇賞での怪我だ。
あの怪我によって、スズカの心にまた怪我をするかも知れないという気持ちがこびり付いてしまったのだろう。
しかし、その事を東条トレーナーに話した所で信じてもらえる筈も無い。
「私には話せない事なの?」
口籠ってしまったスズカを見て、東条トレーナーは悲しそうな顔でスズカの手を取る。
ずきん、とスズカの心が痛んだ。
「お願い、スズカ。私は貴方を信じているわ。だから、スズカも私を信じて」
──ああ。そんな風に言われてしまったら。
スズカは目を閉じて一度深呼吸する。そして、意を決して口を開く。
伝えるなら出来るだけ自然に。そう、夢を見たという事にしておけば聞き入れてもらえるだろう。
しかしこの時、スズカは失念していた。過去に戻る時に女神が言っていたある事を。
だから、口にした。それがどうなるかも分からないままに。
「私、夢を見たんです」
「夢?」
「私が“来年の秋の天皇賞で左脚を骨折する”夢です。夢だけど、とても怖くて──おハナさん?」
そこまで言った所で、スズカは東条トレーナーが首を傾げている事に気が付く。
それから彼女が口にした言葉に目を見開いた。
「ごめんなさい、スズカ。貴方の見たと言う夢の内容、良く聞き取れなかったからもう一度お願いできないかしら?」
「え……? だから、私が“来年の秋の天皇賞で左脚を骨折する”夢です、おハナさん」
「……貴方が真剣だというのは分かるけど、やっぱり良く聞き取れないわ」
何度かそのやり取りを繰り返した後、スズカは女神が言っていた事を漸く思い出した。
──未来から来た、と自分からは言わない事。これに関しては私が細工しておくから。
「ぁ……」
そうだった。夢だと言う事にしても、未来の出来事はこの時代に生きる人には伝わらないのだ。
自分の未来は自分で切り開かなければならない。しかし、これはあんまりではないか。
信じてくれた人に、何も伝えられないなんて。
結局話す事が出来なかったスズカに東条トレーナーは夢など気にする事は無い、と言ってくれた。
寮に帰った時には女神にも慰めてもらった。少し八つ当たりもしたが、女神は黙って受け止めてくれた。
それでも、スズカは未だに走れないままだった。
⏱ ⏱ ⏱ ⏱ ⏱
スズカが倒れてから数日が経った。
幸い、脚を使う事以外で倒れる事は無かった為、今のスズカは上半身メインの基礎トレーニングを主軸に置いて行っていた。
1人ベンチでダンベルを交互に持ち上げていると、併走を終わらせてきたらしいエアグルーヴが近付いてくるのが見えた。
「調子はどうだ、スズカ」
「エアグルーヴ。ええ、今の所は何ともないわ。……走ろうとしなければ、だけど」
「そうか……」
スズカの返事を聞いたエアグルーヴは隣に腰掛ける。それから手に持っていたボトルの中身を飲み始めた。
“女帝”と呼ばれるだけの事はあって、その飲み方は様になっていた。
それを眺めていたスズカは、ふと思い付く。
エアグルーヴは1年先輩だ。その分の経験があるなら、もしかしたら現状を解決する為の糸口を何か聞けるかも知れない。
なので、聞いてみる事にした。
「ねえ、エアグルーヴ。少し聞いてもいい?」
「何だ?」
「あのね。例えばだけど、取り返しの付かない程の怪我をしてしまう夢を見てしまって、それで走るのが怖くなった時、貴方ならどうすれば良いと思う?」
「ふむ……。夢は所詮夢。気にする事は無いが──」
そこまで言って、スズカの顔を一度見るエアグルーヴ。
「──しかし、だ。スズカが聞きたいのはそう言う事では無いのだろう?」
無言で頷くスズカにエアグルーヴは少し考えるそぶりを見せる。
それからややあって、口を開いた。
「……月並みの事しか言えないが、やはり一度自分を省みるのが一番だな」
「自分を、省みる?」
「そうだ。自分というよりは、本能、あるいは欲望と言い換えた方が良いかも知れん」
「本能……」
「我々にとって、怪我の懸念は常に隣り合わせの問題だ。実際に怪我をしてターフを去った者も多い」
ウマ娘は時速60km以上で走る事が出来る存在だ。
そんな存在が走っている途中で何かにぶつかったり、転倒したりすればどうなるか、想像に容易い。
実際にそれを実体験しているスズカは両手で身体を抱き、小さく震えた。
「しかし、それが隣に在ると分かっていても我々は走る事を止めない、止められない。何故だと思う?」
「……走りたいという気持ちが、怪我をするかもという気持ちより大きいから?」
「その通り。我々は無意識に恐怖を本能で抑え込んで走り続けているという訳だ」
スズカの出した答えに満足そうに頷くエアグルーヴ。
ここまで来れば、スズカも彼女が何を言いたいのか何となく察しが付いてきた。
「……今の私はそれが逆さになっている、という事ね」
「恐らく、な。だからこそ、今回の件は自分を省みるチャンスだと言える。自分は何故走りたかったのか。走って何を成したかったのか。もう一度じっくり考えてみると良い」
そう締め括って、エアグルーヴは立ち上がる。コースを見れば東条トレーナーが手を上げてエアグルーヴを呼んでいるのが見えた。
彼女が行く前に、スズカは一言だけ言葉を投げ掛ける。
「ありがとう、エアグルーヴ。貴方に聞いて良かった」
少しだけ振り返ったエアグルーヴは小さく笑みを漏らし、片手を1度だけ上げるとコースの方へ走っていった。
1人残されたスズカはずっと手に持っていたダンベルをベンチに置くと、背もたれに背を預けて青い空を見上げる。
雲1つ無い空からは煌々と日が照り付けていた。
「私の走る理由、かぁ……」
ぽつり、と口に出してみる。
走る理由。それは勿論、先頭を走り続けて誰も居ない綺麗な景色を見る為だ。
けれど、それはもう1度怪我をするかも知れないという恐怖に掻き消されてしまった。
そこでふと思う。先頭の景色を見て、それからどうしたかったのだろう、と。
バレンタインSで。金鯱賞で。宝塚記念で。毎日王冠で。──そして、秋の天皇賞で。
そのどれも、スズカは先頭を走り続けた。誰も居ない先頭の景色を見る為に。
──でも、その先は?
あの時のスズカは先頭を走っているだけで満たされていた。しかし、今は違う。
仮に今までと同じように走れていたとしても、あの時程満たされなかったかも知れない。
あの未来を一度断たれた今では、きっと。
「うーん……」
頭を捻って少しだけ考えてみるが、すぐに答えが浮かべば苦労は無い。
しかし、時間が無いのも確かである。スズカの次の出走予定は9月の神戸新聞杯。
それまでに答えを見つけないと、全てが水の泡になりかねない。
ならば、タイムリミットは。
「……夏の間に、見つけなきゃ」
夏合宿。そこで答えを見つけるしかない。スズカはそう結論付けるのだった。
残されたしこりは無くなる事は無く、それを誰かに吐き出す事も出来ない。
それはとても孤独で、寂しい事だ。
そうして道を見失った少女は泥濘の中で藻掻く。
藻掻き足搔いた果てに答えがあるのだと信じて。
ここまで読んでいただきありがとうございました。
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