さて、スズカが悩んでいる間にも、時は平等に過ぎていく。
そう。今日はシャムの選抜レースの日である。
──トレセン学園練習場、芝1600m、右回り、晴れ、良バ場。
「絶好のレース日和だわ。そうは思わない? スズカ」
体操服にゼッケンを付けたシャムが、空を仰ぎ見てからスズカの方を振り向く。
対するスズカはまだ少し影の残る笑みを返した。
「……そうね。シャムさんのレースは?」
スズカの問いにシャムは少し首を捻り、それからコースで走っているウマ娘達を見て言う。
「確か、あれ含めて3つ後よ。ま、碌に走った事無い私が1週間の付け焼刃程度で簡単に勝てる筈無いけれど」
「そう言う事言わないの。……折角走れるんだから」
「……やっぱり、まだ無理なのね?」
スズカの言葉に含められた意味を察したシャムは眉を八の字にしてスズカを見上げ、それに対して無言で肯定したスズカに小さく息を吐いた。
「そりゃそうよね。本来なら二度と走れないどころか、日常生活でさえままならなくなる様な怪我だったんだもの」
「ええ。……だからこそ、こうして心にこびりついてしまったわ」
「……ままならないものね」
分かってる癖に、というスズカの無言の抗議を無視し、シャムはフェンスから身を乗り出して模擬レースを見学し始めた。
レースで走っているウマ娘達は初々しく、それでいて必死に勝利を掴もうとしている気持ちが伝わってくる。
そうしてレースが終われば、1着に喜ぶウマ娘や入着すらできずに悔し涙を流すウマ娘が居る。
トゥインクルやローカルのレースで無くとも、そうして感情を露にする子達を見て、スズカは少し懐かしい気分を感じた。
かつての自分も、そうだったから。
そして、だからこそ。
「……眩しい、わね」
「そうね。美しい光景だわ。皆輝いているもの」
そう言ってシャムはフェンスから離れる。シャムが出る予定のレースの招集を告げるアナウンスが流れていた。
それを横に聞きながら、スズカは自嘲気味に笑った。
「……だけど、私は──」
「待っているわ。いいえ、私が連れて行く」
それを遮り、シャムはスズカを正面から険しい表情で見据えてくる。
その言葉にスズカはどきり、とした。女神に隠し事は出来ない。全て見透かされているのだと改めて認識させられた。
暫く困惑気味なスズカの顔を見つめていたシャムは、やがて表情を一転させ、満面の笑みを見せる。
「──だって、貴方はまだ輝けるのだから」
「……待って」
それじゃ、行ってくるわね。と言って立ち去ろうとするシャムを思わず引き止める。
怪訝な顔で振り向いたシャムに、スズカはどう言おうかとつい伸ばしてしまった手を所在無さげに揺らめかせていた。
それから一度頷くと手を胸元に引き寄せ、一度深呼吸してシャムを真っ直ぐ見つめて、一言伝える。
「……頑張って、シャム“ちゃん”」
「──!」
その言葉にシャムの目が大きく見開かれる。
そんなに驚かれると、スズカの方も急に恥ずかしくなってきた。
「あ、えっと、その」
「ふふ。ありがと、スズカ。頑張ってくるわ」
慌てて取り繕おうとした所で、先にそれを制したシャムが一度手を大きく振ってから駆け出して行ってしまった。
振り返ったシャムの横顔が少し紅かった様に見えたのは、果たして気のせいだっただろうか。
真相は分からないが、女神の狼狽えた表情を始めて見る事が出来て何となく満足だった。
⏱ ⏱ ⏱ ⏱ ⏱
受付を済ませたシャムはコースのスタートライン前まで足を運んだ。
周りを見れば、どこもかしこも険しい顔のウマ娘ばかりだった。
確かにクラシック6月の選抜レースともなれば、行き遅れに焦るウマ娘も多いだろう。
そんな中でシャムは、まあ自分は女神様だから無理に走らなくてもいいし、最悪行き遅れても観客席の一番前でスズカを見られればいいなー、ぐらいに思っていた。
周りの空気がピリピリしている中で、傍から見ればお気楽そうに構えているその姿はとても浮いた存在に見えたのだろう。
「ねえ、アンタ」
1人のウマ娘がシャムの前に立ち、ジロジロとシャムの小さな姿を見て、ふん、と鼻を鳴らす。
初対面から中々に失礼な子だな、と思いながらも返事を返す。
「何かしら?」
「あ゛ー、すました顔して生意気。如何にも自分は余裕ですっていうその顔、アタシ大ッ嫌いなんだよね」
「あらそう……大変ね」
はっきりとした悪意に対して、シャムは何も響かない、といった様子で言う。
シャムの精神が女神のそれであったならもう少し慈しむ様な言葉を返したのだろうが、生憎、今の彼女は受肉している事もあってか精神が生前寄りになっていた。
わざわざ安い挑発に乗る事も無いと思い、適当に受け流そうと素っ気無い返事をした訳だが、それがどうやら彼女はお気に召さなかったらしい。
体操服の首元を掴まれ、顔を引き寄せられる。すぐ傍にまで近づけられた彼女の目には激しい憤りが浮かんでいるのが見て取れた。
「アンタ……ふざけてんの?」
「……何が?」
「……ねぇ。周りを見てみなよ」
彼女から言われるままに周りを見回す。ここに来た時にも思った事だが、集まっているウマ娘達はどこか焦っているように見えた。
秋までにメイクデビュー戦で勝てなければ、そこからは1つ格上のレースで勝たないといけなくなる。
ただでさえメイクデビュー戦で勝てていないウマ娘が格上に挑んで勝てる確率は殆ど無いと言っていい。
そして、勝てなかったウマ娘の行く先は、言うまでも無かった。
「分かる? アタシ含めてここで勝ってトレーナー捕まえないと後が無いのばっかりなの。だから、みんな焦るし、入れ込んでる。そんな中に1人のほほんとした面構えで入ってこないでよ」
「それで、余裕で構えてるように見える私が目障り?」
「──ッ!」
どん、と突き飛ばされ、思わずよろめく。
漸く解放されて、首元を整えながらシャムが顔を上げれば、鬼のような形相を浮かべている彼女の姿が目に入った。
スタート地点からは教官が怪訝そうな表情でこちらを見ている。これ以上やり合うなら2人とも出走停止だろう。
「ま、目障りだと言うならそれでも良いわ。だけど、そんな調子で勝てるとは思わない事よ」
「ッ、アンタみたいな奴には、絶対負けないから! レース無礼てるんじゃないわよ!」
それとなく教官の方を示しながら背を向けると、後ろから吠える声が聞こえた。
やれやれ、血気盛んなのは悪くは無いが、それを向ける先が違うのでは無いか?
シャムは肩を竦めて、スタートの方へ向かった。
「えー、このレースのバ場と距離は芝の1600mです。ここからあそこに見える教官が居る所までがそうですね。では、呼ばれた子からゲートに入ってください」
スタート前に集まると、スターター役の教官からレースの大まかな話を聞き、呼ばれた順にゲートへ入っていく。シャムの枠番は6番中の3番だった。
並んだウマ娘の中には先程の彼女もおり、ゲート越しに目線を向けると威嚇するように唸られた。
随分嫌われたものだ。まあ、あれだけ言われたのなら仕方ないだろう。
「全員並びましたね。では、位置について」
全員が並び終わったのを確認した教官は旗を振り上げた。
瞬間、周りのウマ娘達の気配が変わる。
焦りに呑まれた小さな存在から、勝利を渇望する大きな存在へ。
皆一様に息を止め、ゲートが開く瞬間を待つ。
そして。
「スタート!」
ガコン! と音を立てて開くゲート。
一斉にスタートする中、シャムが一番前へ躍り出た。
前目に付けようとした右手のウマ娘より、さらに前へ。
それはすなわち──。
「逃げっ!?」
先程のウマ娘が思わず叫んだ声を後ろで聞きながら、シャムは前へ前へと脚を進める。
1週間程度の付け焼刃で普通に走って勝てる訳が無い。ならば、少ない勝機をどうやって掴むか。
その答えが、逃げ。スズカの走りを思い出しながら、前へ前へ。
あっという間に4バ身程差を広げて、そこの位置をキープする。スズカみたいな大逃げをやれば間違いなくバテてしまうからだ。
それでも後ろのウマ娘達には効果覿面だったようで、焦っている気配が伝わってくる。
後続に気を配りながら間隔とペースを維持しつつ、最初の直線から第3コーナーへ入っていく。
コーナーの最内を通りながら後ろの気配を確かめると、逸ったウマ娘が何人か位置を上げてきているようだった。
ここで釣り上げておけば、デビュー前のウマ娘であればスタミナを切らすだろう。そう思い、シャムは彼女達からマークを外した。
そして第4コーナーへ入り、ゴールに近づいてきたタイミングでもう一度後ろの気配を確認する。
「本命達がそろそろ上がってきたわね……!」
釣られなかった子達が一斉に上がり始めたのを感じて、シャムは残り少なくなってきた脚を使う事にした。
第4コーナーの終わり付近で手前を替え、スパートの体勢に入る。後続は既に2バ身の距離まで迫ってきていた。
最後の直線。スパートを掛けたとはいえ、後ろの子達の方が脚が残っている。
加えて、このコースの最終直線は長い。果たして、追いつかれずに済むかどうか。
「それでも……ッ!」
歯を食い縛り、前に行く事だけを考える。後続の足音はすぐ後ろまで迫っていた。
しかし、聞こえてきた音はそれだけでは無かった。
芝を蹴飛ばす激しく強い足音と。
「負けない……ッ! アンタにだけは……ッ!」
「!!」
最初のコーナーで逸って位置を上げていた筈の1人が、ここに来て差し返す勢いでもう一度上がってきた。
その声を、シャムは知っていた。上がってきたのは、先程シャムに突っ掛かってきたウマ娘だったのだ。
あっという間に真後ろに──。
「負けて堪るか──!」
──並ばない。並ばずにそのままシャムを抜き去る。
ここに至って、シャムは己の失策を悟った。
少なくとも、彼女は逸って位置を上げたのでは無かった。
ただ、彼女の仕掛けがそこからだった。ただそれだけの話だったのだ。
続いて、真後ろまで詰めてきていたウマ娘にまで追い抜かれ始める。
いや、そのウマ娘に抜かれるのは、ある意味想定内ではあった。
釣られない冷静なレース運びをしているなら、自分の下手な逃げぐらいは抜ける筈だからだ。
自分が如何に甘い考えをしていたか否応無く実感させられる。
釣れたからといって、最後までマークを外すべきでは無かった。
もっと上手くペース管理をするべきだった。
そもそも逃げて良かったのか。
自分の駄目だった所が、どんどんシャムの頭の中に浮かんでくる。
──それでも。
──それだからこそ。
「だからって……このまま終わりたくないッ!」
──まだ諦める訳にはいかない……!
只管脚を前へ動かす。前へ。前へ。
喉は干上がり、呼吸も歪なものに変わっていた。
それでもシャムは走る事を諦めない。
気力を最後の一滴まで振り絞り、ひた走る。
シャムを抜いたは良いものの、スタミナが切れてきたウマ娘の1人を無理やり差し返す。
シャムの前には少し離れて残り2人。ゴールはもう目の前。
脚はもう残っていない。今も気力だけで動かしている。
きっとこの2人を抜き返す事は出来ないだろう。
だからこそ、悔しかった。
学園内の選抜レースと言えど、彼女達に手が届かなかった事が。
「勝った──!」
1着でゴールしたあのウマ娘が立ち止まると、天に向かって拳を突き上げる。
その後ろでは、惜しくも2着になったウマ娘が膝と手をついて震えていた。
それをシャムは乾いた呼吸を繰り返しながら呆然と立ち尽くして見ていた。
「届かなかった……」
「ねえ、アンタ」
一言を絞り出すように口にしたシャムに、あのウマ娘が声を掛けてくる。
恨み言の1つや2つは言われるだろうと覚悟して目線を向けると、彼女は先程とは打って変わって落ち着いた表情でシャムを見ていた。
「……何よ」
「悔しかった?」
「……ッ」
悔しいかなんて、決まっている。彼女の言葉に、思わずギリ、と歯軋りしてしまう。
それを見た彼女は、どこか安堵した様子で息を吐いた。
「良かった。アンタもちゃんとウマ娘だったんだね」
「何、を」
良く考えればそんなはずは無いのだが、一瞬自分の正体が露呈したのかと思い、動揺を隠しきれないままその言葉を返すのが精いっぱいだった。
シャムの内心など知らない彼女は、そのまま人差し指を立てて振りながら言葉を続ける。
「レースで負けて悔しいって思える内は大丈夫よ。裏を返せば勝ちたいって思ってる証拠だから」
「……」
「それに、逃げて3着なら大したもんじゃない? 普通ならバテて最下位とかありえるし……って、どこ行くの!?」
彼女の言葉が終わらない内から、脚も震えて満足に走れない状態でシャムはコースから飛び出していた。
その横顔から、一筋の雫を奔らせながら。
後ろから彼女の驚いたような声が聞こえた気がしたが、今のシャムには届いていなかった。
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6月〇日 トレセン学園選抜レース
芝1600m 右 晴れ 良
1着:4番■■■■■
2着:1番■■■■■
3着:3番シャム
4着:6番■■■■■
5着:2番■■■■■
6着:5番■■■■■
総評
4番:
本格化が遅く、この時期まで選抜レースで未勝利だった。
第3コーナーからの早仕掛けでそのまま先団を差し切る脚は大変素晴らしい。
最終直線での勝負根性は恐らく3番以上である。
本格化がもう少し早ければ、と惜しむ。
話を聞いた所、既にスカウトの予定があるとの事。
1番:
最内から3番の釣り上げにも動じず、冷静にレースを進めていた。
最後の直線で気迫を見せた3番から逃げ切り、2着を維持したのは見るべき所か。
組み合わせ次第では1着だったのは彼女だっただろう。
即戦力として注目できるが、うちとしてはスカウトの候補外か。
声を掛けているトレーナーを見たので、そのうちどこかで見る事になるだろう。
3番:
レース開始から逃げを打ち、最終直線までハナを維持したのは逃げの基本であり、特筆する事ではない。
しかし、差されてからの彼女の気迫は、どのウマ娘にも負けていなかった。
1人差し返しての3着は勝負根性ありと見ていいだろう。
うちのサニーを併せれば、良い感じに育つかも知れない。
トレーナー達が押し掛ける前に走り去ってしまったので、おそらくフリー。
要注目。西崎辺りが好きそうな気がするので、取られる前に確保したい。
6番:
1番同様、上手くレースを進めて3番を差したはいいが、スタミナ不足で3番に差し返されていた。
この時点でスタミナ不足だと、今後が不安に思う。
悪くは無いが、それで終わりである。
2番及び5番:
3番の釣り上げに見事に引っ掛かり、最終直線を向く頃にはすっかりスタミナを使い果たしていた。
この時期まで勝てていなかった焦りが出たのだろう。
その焦りを飲み込む事が出来なければ、この世界で生き残ることは出来ない。
今の自分には無い輝きに思わず目が眩んだ。
それはかつての自分も持っていた筈の輝き。
だけど、その輝きは取り戻せるのだろうか。
※選抜レースに出てきたあの子は名の知れぬモブ子です。モチーフが無いので、今後出てくるかは分かりません。
ここまで読んでいただきありがとうございました。
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