シャムの選抜レースから数日後、今日もスズカは基礎トレーニングに精を出していた。
しかし、今日のスズカは以前とは違う点が1つだけあった。
「スズカ、あと1周だけど……大丈夫?」
「はっ、はっ、はっ、いえ、大丈夫、です」
「分かったわ。無理はしないように」
「はい」
まだ全力で走る事は出来ないが、こうして軽いランニング程度ならこなすことが出来るようになっていたのだ。
とはいえ、そのランニング程度でも動悸は激しくなるし、脂汗も酷い有様ではあったが。
脚がぶるぶると震えだしてきたのを必死に隠しながら、残りの1周を何とか走り切る。
走り終わると同時に寒気が背筋を這い上がってきて、それに耐えるように直立不動で少しばかり下を向いた。
それを見た東条が慌てた様子でスズカに駆け寄ってくる。
「スズカ!?」
「だ、大丈夫です、おハナさん……。まだ慣れてないだけですから……」
「全然大丈夫じゃないでしょう、それ。やっぱり、無理させるんじゃなかったわね」
そう言って頭を抱える東条。
少し走れるようになったからと言って、本人の希望通りにランニングトレーニングをさせるなんて時期尚早だったのだ。
こんな状態のスズカを、そのまま茜のチームに移籍させてしまっていいのだろうか、とさえ思う。
桐生院の一門たる茜が何か失敗するとは考えられないが、苦労するのは間違いないだろう。
そんな東条の苦悩など全く知らないスズカは、一度大きく深呼吸してから口を開く。
「……そういう訳にも、いきませんから」
「息が上がって言葉が途切れてる人の言う事なんて信用できないに決まってるでしょう?」
「それは、分かりますけど」
彼女の口から出てきた言葉は案の定東条が予想していた言葉だったので、ぴしゃりと封殺する。
それでもなお強情を張るスズカに、東条は深い溜息を吐いた。
ここまでスズカが意地になっているのには理由がある。
──あの日、少しだけ光を取り戻したからだ。
⏱ ⏱ ⏱ ⏱ ⏱
──話は数日前、冒頭にもあった彼女の同室のウマ娘の選抜レースが終わった所まで遡る。
序盤から綺麗に飛び出し、逃げを打ったシャムは最後の直線であえなくスタミナ切れ。
そこから粘りを見せたものの、3着という結果に終わってしまった。
当たり前と言えば当たり前である。逃げは自分で全体のペースを管理できるメリットがあるが、常に先頭を走り続ける事による掛かるプレッシャーとスタミナの消費が激しい。
潰すか、潰されるか。その賭けの要素が特に強い戦法。それが逃げだ。
しかし、だからこそシャムの懸命に走る姿が目に焼き付いて離れない。
それは劇薬の様なものだ。眩しくて、温かくて、──そして、羨ましい。
まるでターフがスズカを呼んでいるようだった。
──こっちにおいで。一緒に走ろうよ。競い合おう。
だけど、それは出来ない。スズカは走れない。
少なくとも、今のままでは。
「ひぐっ、ぐすっ。勝てなかったよぉ……」
だがしかし、見るがいい。この女神の姿を。
懸命に走って、必死に走って、それでもなお届かなかった事に悔し泣きをする彼女の姿のなんと美しい事か。
まるで、神戸新聞杯でマチカネフクキタルに負けた時の自分のようで──。
そう思った時、自然と言葉が口から出てきた。
「シャムちゃん、悔しい?」
「く゛や゛し゛い゛!」
涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を上げて泣き喚く彼女の頭をそっと撫でてやる。
今までレースをした事が無いという彼女にとって、選抜レースといえど並々ならぬ想いがあったはずだ。
しかし、その初めてのレースで彼女は負けてしまった。
戦績には残らない。けれど、負けた事実はこれからも先、彼女の中で燻り続けるのだろう。
「ぐす……でも、次こそは勝ちたい……」
「……!」
それでも。それでも、彼女は立ち上がる。
負けて悔しいからこそ、次を目指したいと。
その姿勢は、スズカの燻っていた心に僅かに火を点けた。
走りたい。走れない。でも、走りたい。
スズカの本能と理性がそう叫ぶ。心がかき乱される。
その感情のやり場に困ったスズカは、取り敢えず目の前の小さな女神にぶつけることにした。
「シャムちゃん」
「な゛に゛ぃ゛……ひゃあっ!」
わしゃわしゃ。シャムの髪を激しく撫で回す。
腕の中の女神は困惑しきりでされるままになっていた。
きっと、大事な事だと思ったから。
ひとしきり撫で回し切ったスズカの表情はすっきりとしていた。
「ありがとう。シャムちゃん」
「……私は何もしてないわ。スズカが自分で歩んだのよ」
「うん。ね、見てて?」
シャムを下ろし、立ち上がるスズカ。
それから深呼吸を1つして、構えを取る。
「スズカ……?」
シャムが目を見開いて見ている中、スズカは足を踏み出した。
最初はゆっくりと、段々速く、そして駆け足に。
途端に噴き出す脂汗に激しい動悸。それを無視してスズカは走る。
ランニング程度の速さではあったが、スズカは確かに走っていた。
そのまま、小さく左回りで円を描くように走って、シャムの前に戻ってくる。
立ち止まると同時にどっと疲れが出てきて、思わず膝に手をついてしまう。
それを見たシャムが慌てたように駆け寄ってきた。
「スズカ!」
「はっ……はっ……。ふふ、見た? 私、ちょっとだけ走れるようになったわ……」
「だからって無理しちゃダメじゃない!」
大丈夫? 苦しい所は無い? と、自分の身体をペタペタと触ってくるシャムに大丈夫、と告げてもう一度頭を撫でる。
──うん、大丈夫。これならきっと、走れるようになる。
克服にはまだ遠い。それでも、最初の1歩を踏み出せた確信がスズカにはあった。
あのままベッドの上で過ごしていれば、この経験はきっと得られなかっただろう。
全てはこの目の前の少女のおかげなのだ。
だから、必ず報いて見せる。スズカは固く決意したのだった。
⏱ ⏱ ⏱ ⏱ ⏱
そんな事があってから、スズカはこうして吐くギリギリのラインを攻めながらトレーニングをしているという訳である。
いつ倒れるか心配で、東条の胃は痛みっぱなしだ。
走れるようになったと言ってもまだランニング程度で、レースに出るには程遠い。
次の出走予定だった神戸新聞杯は9月。それまでに走れるようになれなければ、そこで終わりだ。
つまり、夏合宿中に解決しなければならない問題だが、それは茜に任せよう。
今の自分に出来る事は──。
「ふぅ……。終わりました、おハナさん」
「お疲れ様、スズカ。クールダウンの後、時間はあるかしら? 少し大事な話があるの」
「はい、分かりました。大丈夫です」
──この子に、これからの道標を示してあげる事だけだ。
クールダウンが終わった後、スズカは東条に連れられてトレーナー室へ向かっていた。
中に入ると応接用の机の前に座るように言われ、ちょこん、と座る。
「トレーニングが終わったばかりなのに来てもらって悪いわね」
「いえ、大丈夫です。それより、大事なお話とは……?」
デスクの上の資料を纏めながら声を掛けてくる東条に、スズカは首を傾げて尋ねる。
それに答えるように東条がデスクから東条が持ってきた物は、あるチームのパンフレットだった。
──「チーム『ポラリス』。私達は貴方の入部を求めています」
「これ、は……?」
別のチームのパンフレットを渡され、スズカは良く分からない、と言った表情で東条を見上げる。
こんな物を渡してどうしようというのだろうか。まるで──
──まるで、私が『リギル』に居られなくなるかのような。
スズカの嫌な予感は、東条の何かを言いにくそうにしている表情を見た事で的中した。
だから、東条が決定的な何かを言う前に、先んじて声を上げた。
「嫌です」
「まだ何も言っていないわよ」
「嫌です」
「そんな事言わないで頂戴」
「嫌です。……おハナさんに、何も返せていないのに」
「その気持ちだけでも十分嬉しいわよ?」
「嫌です。気持ちだけじゃ、嫌です」
耳を後ろに伏せてむすっとしているスズカを見て、東条はこめかみを押さえる。
普段はふわふわとした雰囲気を出しているのに、こういう時になると頑なになるのがスズカだ。
逃げ策を先行策に変えさせた時は本人の納得もあってスムーズに話が進んだが、今回は長丁場を覚悟しなければならないだろう。
腹を括った東条は、正面からスズカを真っ直ぐ見つめる。
「そんな顔しても嫌なものは嫌です。『リギル』以外は考えられません」
「そうは言うけどね、スズカ……。大規模なチームを預かっている責任がある以上、スズカだけを見続ける事は出来ないのよ……」
「少しは走れるようになりました。おハナさんの負担も軽く出来ると思いますが」
「数周でへばるようだと逆に心配なのだけど?」
「練習していればそのうち慣れます」
その姿に気圧されたのか一瞬怯むスズカだったが、すぐに立て直すと抗議を続けてくる。
それを躱す様に弁明を繰り返すが、スズカは頑として首を縦に振らない。
東条は困惑した。
本当にどうしてしまったのか。いくら何でも頑なすぎる。
スズカがそこまで『リギル』を大事に思ってくれている事に嬉しく思いながらも、どうすれば良いか思案する。
されども、この目の前の頑固ウマ娘を理論的に説得できる案は浮かばず。
仕方が無いので、東条は奥の手を使う事にした。
「スズカ」
「嫌です」
あらやだこの子まだ嫌々言ってる……、と思いながらも、東条は徐に立ち上がると机から身を乗り出し、スズカを抱き締めた。
今度はスズカが困惑する番だった。
この展開は一体何? でも、おハナさんが次に言う言葉は分かっている。それに耐えれば、きっと大丈夫。
スズカが決意を固めている間に、東条はスズカを抱き締めたままスズカの頭をゆっくり撫でる。
「そんなに我儘を言わないで、スズカ。私も離れたくないんだから」
「ぁ──」
スズカは腕の中で小さく息を呑んだ。
少し強張っていた身体がゆっくりと解れていく。
そうして、スズカは理解した。理解してしまった。これはもう覆らないのだと。
東条は最後まで自分の事を考えて、その上でこの結論を出したのだという事を。
「大丈夫。貴方が何処へ行こうと、私が貴方を見出してここまで歩んできた事実は変わらないわ。だから、これからも貴方に夢を見させて?」
「夢──」
その言葉を聞いた時、スズカの脳裏に過る過去の記憶。
リギルに入ったばかりの頃、東条に掛けられた問い。
──スズカ、貴方はどんなウマ娘になりたいかしら?
──……夢。みんなに夢を見せられるような、そんなウマ娘になりたいです。
どんなウマ娘になりたいかと聞かれ、頭に浮かんだ事をそのまま口にしたあの日。
その答えを、東条は否定しなかった。それどころか、その夢を見せて欲しいと言われた。
だから、スズカはその為に今まで努力を重ねてきた。
そして、それを否定されるのが怖くて、ああやって駄々を捏ねていたのだった。
(ああ……)
けれど、今度も否定される事はなかった。
東条は『リギルのサイレンススズカ』に夢を見ている訳では無かった。
ただ、『サイレンススズカ』に夢を見ていたのだ。
スズカの身体から完全に力が抜けていく。
抵抗するように上げていた腕を東条の背に回す。
それだけで、十分だった。
「ごめん、なさい……」
「貴方が謝る必要は無いわ。悪いのはこうする事しか出来なかった私だから……」
暫しの抱擁の後、東条の腕から解放されたスズカは、『ポラリス』のパンフレットを手に取る。
不安はまだあるが、東条が自分を任せようとしているチームだ。きっと悪いようにはならないだろうと思った。
小さく息を吐くと、覚悟を決めたように真剣な表情で東条を見上げる。
東条も1つ頷くと、改めてスズカを真っ直ぐ見つめ返し、口を開いた。
「……スズカ、貴方には今後のメンタルケアやサポートの事を考えて、チーム『ポラリス』への移籍を提案するわ」
「分かりました、その提案を受けます。……今までありがとうございました」
「ええ。あのチームにはあの桐生院家のトレーナーや貴方の同期もいるから、きっと大丈夫よ。だから、また貴方が思いっきり走る所を見せてちょうだい」
「……はい!」
席を立ち、深々と頭を下げるスズカ。
その姿に東条は何処か寂寥感を覚えながらも頷き、スズカとこれからの事について改めて話を詰めていく。
こうして、サイレンススズカは『リギル』から『ポラリス』へ移籍することが決定したのだった。
それは一欠片の輝き。
かつては自分の中にもあった、熱い炎。
今は消えて久しいそれに、少女によって種火が植え付けられる。
それは大火となるか、燃え上がる事無く消えるか。
確かめる為に、少女は飛び立つことを決意する。
まるで、親鳥の元から巣立つ雛鳥の様に。
ここまで読んでいただきありがとうございました。
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