気が付いたら、自宅の畳の上だった。
窓に垂らした
外から賑やかな人の声が聞こえてくる辺り、時間は昼前といったところか。布団も敷かずに寝ていたせいで、身体の節々が凝っていた。
シオと狩猟に行ったのは昨日、のはずだ。
だがあの後、どうやってここまで帰ってきたのか全く覚えていない。
それどころか、その前の――狩猟が終わった辺りから、霞が掛かったように記憶が曖昧だった。全てが夢だったのだ、と言われても今なら信じてしまうだろう。
なんとなく手持ち無沙汰で、傍らに丸くなっているツキヨの紫紺の毛並みをくしゃくしゃとかき回す。その反対側から、ハヤテがランゼを心配するようにその頬に鼻先を寄せた。
「全部、夢じゃないよ」
ぼんやりと考えていたランゼに、兄が静かにそう告げる。
「僕がランゼの代わりに行ったことも、それにシオが気付いちゃったことも……その後のことも」
「……そうかよ」
ひとつ、深々とため息。
どうやら思い過ごしではないらしい。勘付いた彼女にランゼが刃を抜こうとしたことも、結局何も出来なかったことも。
ランゼがこんな時間まで呑気に惰眠を貪ることができているのだから、彼女はその言葉に違わず誰にも何も言っていないのだろう。全く殊勝なことだ。
正直、どういう感情を持ったらいいのかわからない。
本当に口外するつもりはないのか、という疑心を抱きたくなるが、一方で彼女ならば今更どうこうということはあるまいという慢心にも似た気持ちもある。
彼女の深緋の瞳は、嘘をつかない。自分すらも騙して、誤魔化して、逃げてばかりのランゼとは大違いだ。
だが、今逃げるべきでないのはわかる。というよりは、ここまで知られてしまったからにはもうどう足掻こうと逃げられる状況ではない。
自分の気持ちにどう整理を付けたものかはわからないが、こういうときはとりあえず身体を動かすに限る。
そう割り切って兎にも角にも動き出そうとした、その瞬間。
二匹のガルクが、ピンと耳を立てる。
かたん、と扉が鳴った。
「なんだ、暗いからまだ寝ているのかと思ったぞ」
さも当たり前のような顔をして入ってきたのは、もちろん黒髪の女ハンターである。今日は集会所にも修練場にも行く予定がないからか、簡素な平服に羽織という装い。
ハヤテなどはもうすっかり仲良くなった気でいるのか、尻尾を振って撫でてくれと自己主張を始めた。
しかし当然、ランゼの方は彼女と話す心の準備などできていない。どういう態度を取ればいいのかすらわからなくて、中途半端に身構えた。
「そう警戒するな。別に取って食ったりは……前も同じようなことを言ったな。もう少し力を抜いたらどうだ」
ハヤテの頭をぽんぽんと撫でるシオに言われて、不必要に肩に力が入っていたことに気付く。
「……何しに来た」
寝起きの少し掠れた声でぼそぼそと問いかけると、彼女は「ああ」と思い出したように言った。
「昨日あの後、あまりにも心ここに在らずといった様子でちゃんと帰れたか心配だったからな」
要は、気を遣われたらしい。
目を細め舌打ちするランゼを見て、シオは愉快そうに笑った。
「っはは、元気そうで何よりだ」
最早何を言っても無駄なことは身に染みて理解しているので、黙って鼻を鳴らす。
シオは少し不満そうな顔をしたが、すぐにそれを引っ込めて紅の瞳に真剣な色を浮かべた。
「――ついでと言ってはなんだが。もう少し、詳しく話を聞かせてはくれないか?」
「話したくなければ無理にとは言わない。……私に言えたことではないかもしれないが」
彼女はそう言って目を伏せた。
ランゼとしては、別に話すこと自体は構わない――というか、もうどうにでもなれという自棄にも近い気持ちだ。が、現状を他人に説明したことなどもちろんないためどこからどう話したものか全く分からない。
『ランゼ、代わって』
何か言おうと口を開いたもののそのまま固まっていたランゼに、兄が言った。
返事をする暇もなく彼はするりと表に出てくる。奥に追いやられた形になったランゼは、しかし特に自分にできることもないので反抗もせず大人しく引っ込んだ。
表に出ているのがナギトのときは、さながら相手の視界を少し後ろから眺めているような感覚だ。その状態でも声を出して話すことくらいなら出来る――始めの頃はよく舌を噛んだ――が、この状態でランゼも話し始めるのはシオと言えどさすがに気味悪がるだろう。
「あー……、シオ」
「ん、ナギトか?」
兄の躊躇いがちな第一声を聞いただけで、シオは事情を察したらしい。
「そんなにわかりやすいかな」
彼は驚いたランゼの気持ちを代弁するように、そう言って苦笑した。
「そうだな、“入れ替わる”瞬間は特にわかりやすいんだろう。連続していない、というのは存外違和感を生むものだ」
事もなげな顔をするシオに、兄弟揃って言葉を失う。身体が一つでなかったら、顔を見合わせていただろう。
今までそれなりに上手くやっていたつもりでいたが、もしかすると他人とほとんど接していなかったがためにどうにかなっていただけなのかもしれない。
「なるほど、そっか……まあいいや、そっちは後で詳しく聞かせてほしいな」
ナギトはそう言って立ち上がった。窓の
「お茶でいいかな? 外、寒いだろ」
表からは相変わらず子供が元気に騒ぐ声が聞こえてくるが、初冬と言うにはもう少し遅い。
「ありがとう、いただくよ」
兄に礼を言った彼女はにやりと笑って、「ランゼとは大違いだな」と付け足した。
人が黙っていればこのクソアマ。
先ほどまでの考えをすっかり忘れて怒鳴り散らしたい衝動に駆られる。
「ランゼ、すごく怒ってるよ」
「だろうな」
ナギトがそう伝えるが、シオは涼しい顔を崩さない。そういうところがいけ好かないのだ、と内心苦々しく思った。
「――ま、いいや」
シオの態度につられるようにして兄もランゼの怒りをあっさり流す。
彼はそのまま、一足飛びに本題へと踏み込んだ。
「五年前に、ナギトという一個人は死んだ。それは知ってるよね」
「……ああ」
ランゼが普段気にして言わないようにしているのが馬鹿らしいくらいに、軽い口調でナギトは語る。
いや、ランゼが気にしているからこそ、かもしれない。
「それからひと月くらい経ったころ、だったっけ? 気付いたら
ナギトは冗談めかすように笑った。
「ランゼがまだ僕を必要としてたから、かもね」
シオはというと、いつもの真面目な顔で兄の話に聞き入っている。
まだ心のどこかで彼女を信じきれない気持ちがあったからか、その様子を見てランゼは少し安心したような気分になった。
「その後はずっとこのまま。頭の中で会話したり、好きなときに入れ替わったりできるけど、僕は詳しい仕組みは知らない」
「……そう、か」
シオは考え込む様子を見せるが、それも当然のことだろう。ランゼだって、当時状況を自分なりに整理するのにはしばらくかかった。
「やっぱり、変だろ。僕もたまに思うよ、やっぱり
兄の言葉に、思わず口を挟みそうになる。
彼がそんなことを思っていたなんて、知らなかった。
「案外、“僕”なんていないのかも」
「それは――」
「あ、お湯沸いた」
返答しようとしたシオの声を遮って、ナギトは立ち上がった。
その背中越しに、呟くように静かな声が掛けられる。
「仮にそうだとして……ナギトの存在を認めないのは、違うだろう」
一瞬、ごく一瞬、兄は動きを止める。
シオに背を向けたまま彼がきゅっと眉を寄せたことは、ランゼしか知らない。
「……君がそういう考え方をしてくれる人で良かったよ」
けれど、きっとこれから『兄についてランゼしか知らないこと』は減っていくのだろう。
それがランゼにとって嬉しいことなのか、嫌なことなのかは、まだ彼にはわからない。
その後もしばしあれこれととりとめのないことを話してから、シオは帰っていった。
どうやら、本当にランゼの様子を見に来ただけだったらしい。
「マジで信じる気なんだな、あいつ」
拍子抜けしたように呟く。
「信じてほしいって一番思ってたのはランゼの癖に」
ナギトの返答にむっと押し黙った。
自分は――期待していたのだろうか。誰か、そういう存在が現れてほしいと思っていたのだろうか。
ただひとつ言えることがあるとすれば、四六時中ランゼの肩に圧し掛かっていた重圧と焦燥感が、今日は少しだけ軽いということだった。
「……本当だったな」
「悪い人じゃないって話? 当然だろ、僕の勘は外れないよ」
いつぞやの兄の言葉を思い出す。結局、ランゼはこういうことに関しては逆立ちしたって彼に敵わないのだ。
「……あの人なら、」
不意に、ナギトがぼそりと言った。しかし、ランゼが黙って聞いていてもその先が続く気配はない。
「あ?」
「ごめん、何でもない」
聞き返すが、兄はそう言ったきり口をつぐんだ。
腑に落ちないような気持ちになりながらも、大人しく引き下がる。
ランゼが兄の考えを全て知ることはできない。しかし、ナギトは間違ったりしない。たまにお節介なこともあるが、いつもランゼのことを思ってくれているのはよくわかっている。
兄は正しい。ランゼは兄を信じている。それ以上のものはないし、必要もない。
外からは相変わらず、子供たちが遊ぶ声が聞こえてきていた。
※
見渡す限り、一面の銀世界。踏みしめる足音は二つ分。
自分に寄りかかるようにして隣を歩く兄の姿を認めて、ああ、
振り返らずとも、背後には点々と血の跡が続いているのだろう。兄の命が、零れていく様が。
兄が、ぴたりと足を止めた。それにつられてランゼも立ち止まる。
続く言葉を、ランゼはもう知っていた。
やめてくれ。
頼むからやめてくれ。
俺を、拒絶しないでくれ。
耳を塞ぎたいのに、身体が言うことを聞かない。目をつぶることも、背けることもできない。
振り返るランゼに、彼は告げる。
「僕がいなくても、大丈夫だよね」
その声は、異音が混ざったようにざらついていた。その顔は、真っ黒に塗り潰されていた。
伸ばした手も虚しく、目の前にあったはずの姿が掻き消える。
「――! ランゼ!!」
同時に、周りの世界までもがぐにゃりと歪んで溶けていく。
「――ランゼ! しっかりしろ!!」
今誰かが、自分の名前を、
「……っ!!」
はっと目を覚ました。
どっ、どっ、と心臓が暴れている。
浅い呼吸を繰り返しながらも視線を上げると、そこにいたのは、
「……シ、オ?」
紅の瞳が、真っ直ぐにランゼを見ていた。