ごう、と。
不意に、踏ん張らなければ飛ばされてしまいそうなほどの突風が吹いた。
固定が甘かった篝火が数個、倒れて消えた。
遥か上空より、
前触れと言えるものは何もなかった。ただ静かに、どこからか、あるいは頭の中で、竜人の受付嬢の声が響く。
――対は何処 対は何処
今この瞬間までああも必死に砦を突破せんとしていたモンスターたちが、蜘蛛の子を散らすように逃げていく。
――我は狂飄 並べて薙ぎ
だが、それを気に留める者はいなかった。誰もが、その威容に呆然と空を見上げている。
――楽土が辻の 淵とならん
その龍は青白い燐光をまとって、優雅にとも言えるほどゆったりと空中を漂っていた。しかしそれだけで、ただそこに在るというだけで、ランゼが今まで相対してきたどの竜の比にもならないほどの圧を放っていた。
これが、古龍というものか。
誰もがその存在感に圧倒されて動けずにいるうちに、龍は空中でくるりと身を翻し、咆えた。
背筋を駆け上がる本能的な恐怖。思わず頭を抱えるようにして耳を塞ぐ。それでもなお、空気の振動がびりびりと肌を焦がす。
「……来るぞ!」
いち早く我に返った誰かが、そう叫んだ。
次の瞬間、今までのゆるりとした動きからは想像も付かない速度で、イブシマキヒコは身体を捻るようにして突進を繰り出した。
その龍がまとう突風も相まって、設備どころか足場ごと広範囲がまとめて破壊される。
不運にもすぐ傍にいた里守が一人、まともに突進に巻き込まれて宙を舞った。
それでようやく、思い出したように砦は再び動き始めた。
どうやら意識を失っているらしい里守に向かってシオが鉄蟲糸を伸ばし、どうにか追いついてその身体を受け止める。
ランゼは、崩れそうな膝を叱咤して地面を踏みしめた。
既に関門は破られているが、すぐに先へ進もうとはせず攻撃を仕掛けてくる辺り、この龍の目的は里ではないらしい。
であれば、この区画でも迎撃をする必要がある。未だどこか浮足立った空気を、誰かが――いや、
「ドラ鳴らせ、気合い入れろ! 怖気づいた奴から死ぬぞ!!」
思い切り息を吸って叫び、大きく前方に翔蟲を飛ばす。空中で弓を展開して、龍の頭部を狙い矢を放った。
芯を捉えることはできなかったようで、複数本の矢は全て龍の表皮を浅く傷付けるに留まった。が、確かに血が流れている。
倒せない相手ではない。それが、一番大事なことだ。
どぉん、とドラの音が響く。身体の芯に、心の奥に、力強い音色が響く。
「うおおおおおおおおお――!!」
最初に声を上げた誰かに続くように、里守たちは次々と雄叫びを上げた。
一度のみならず、二度三度と、ひとの反撃を告げるドラは鳴り続ける。
龍を包むように吹く風は、いつしかばちばちと音を立てる赤黒い光をまとっていた。大きく開かれた異形の下顎も相まって、異名から連想されるような神聖な印象よりむしろおどろおどろしさを強く感じさせる。
龍が、ぎらりと光る黄色い目をランゼに向けた。
攻撃の前触れかと身構えた彼はしかし、ぴたりと動きを止める。
「――ぁ、」
目が、合ってしまう。
ランゼの心の中まで見透かそうとするかのような瞳。その奥にあるものを、感じ取ってしまう。
それは殺意でも怒りでもなく、生きるという意志ですらなく。
深い、深い孤独だった。
思わず後退ってしまったのは、きっと龍の身じろぎで起こった突風のせいだけではない。踏み止まろうとすれば、そうすることもできたはずだ。
呆然と見上げるランゼに、イブシマキヒコは逆さだった姿勢からくるりと反転して前肢を振り上げた。
『ランゼ!』
「……、ちッ!」
兄の呼びかけではっと我に返って、大きく地を蹴り後退。
叩きつけられた前脚それ自体はすんでのところで避けられたが、直後爆発的に噴出した風に吹き飛ばされた。
地面を転がりながらかろうじて受け身を取るランゼを見据えたまま、龍は身体を丸めるようにして尾を振りかぶる。
見たことがなくとも、薙ぎ払いが来ると一目でわかる予備動作。
立ち上がることもままならないまま、地面すれすれを横っ飛びに回避。
なんとか体勢を立て直したランゼが一度距離を取ると、待っていたとばかりに次々とバリスタや大砲の弾が風神龍に向かって放たれる。
「すまない、大丈夫か」
声の方向に目を向けると、負傷者を搬送隊に預けてきたらしいシオの姿があった。
ランゼが無言で頷きを返すと、彼女は即座に抜刀し躊躇なく龍に斬りかかる。
その一太刀はゴム状と思しき表皮を捉え、深く傷を刻んだ。
イブシマキヒコはランゼのときと同じように、自らに傷を負わせた小さき者を見遣る。しかし先程とは違い、急に彼女から興味を失ったかのようについと視線を逸らした。
勢いを増した突風に怯む二人をよそに、龍が進路を取るは破られた第一関門――そして、その奥。
目的は里ではないと、そう思っていたが読み違えたか。
この龍は。
最終関門を、破る気だ。
龍の動きは一見ゆったりとしているが、その飛翔速度は人はおろかガルクの脚よりも速かった。
仄かに光るその姿が、闇夜に溶けるように関門の奥へ消えて行く。
ランゼは龍を追おうと弓を畳んだが、シオの声に引き留められた。
「ここは一旦拠点に戻ろう。最終関門にだってハンターは控えている、私たちは少しでも力を発揮できる状態で向かうべきだ」
仕方がない、とため息を吐く。気力体力共に消耗が激しいのは認めざるを得ない。
シオは辺りを見回しモンスターの姿がないことを確認して、周囲の里守たちに呼びかけた。
「すまない、私たちは最終関門の援護に向かう! 動ける者は怪我人の救護を最優先してくれ!!」
それを横目に、ランゼは口笛を吹いてツキヨを呼び寄せる。シオを待たず、砦の中心部へ続く通路に鉄蟲糸を伸ばした。
二人はそのまま拠点奥の簡易的な診療所に向かったが、意識があって五体満足な人間が治療を受けられるような余裕はとてもなかった。
包帯や湿布などの物資だけを拝借して、自分で手早く処置をする。
「動けるか? 血が足りないようなら無理はするな」
先に治療と準備を終えたシオの言葉に、装備を身に付けながら「平気だ」と短く答える。
万全とは言えないが、夜が明けるくらいまでは動けるだろう。それで、十分だと思いたい。
関門と関門の間は、元からこの地にある渓谷を利用して、迂回するように大きく距離を取った作りになっている。
ランゼとシオが最終関門前にたどり着いたのは、風神龍が関門前に到達した直後だったらしい。
「ハンターじゃない人は下がって! 伝令の人、控えのハンターで動ける人を呼んできて!!」
ゆるりと浮かぶ龍を警戒しながら、赤髪の女ハンターが叫んでいる。
「ハンターでも経験が浅い子はバリスタ隊・大砲隊と交代して援護をお願い!」
彼女の指示に数人のハンターが動くが、しっかり数えなくとも事前に配置されていたより明らかに人数が少ない。
「ヒオウ、応援に来た。……他のハンターは」
「逃げ出した群れが砦の外で暴れてるの。教官が頑張ってくれてるけど負傷者が出てて……でも、そっちも抑えないと周りの里に被害が出ちゃうから」
シオと女の会話を聞くに、どうやら砦外の部隊の増援に回したらしい。
それで最終関門が疎かになっては元も子もない、とランゼは眉をひそめるが。
「今この場にいるハンターで、
同じことを考えていたらしいシオの言葉に、ヒオウは不敵に笑った。
「私を誰だと思ってるの? 大丈夫、私なら――私たちなら、できるよ」
炎のような色をした橙色の瞳が、激しく燃え盛る。
「どのみち退くことはできないでしょ? 例え砦が破られても、最後に死ぬのが
静かにそう言って、彼女は背負っていた自らの得物――操虫棍を手に取りくるりと一回転させた。
顔を上げ、息を大きく吸って声を上げる。
「続け! 焔の加護は我が胸にあり!!」
ただその一言で、その場にいる人間の顔つきが変わった。信を置かれているというのは本当らしい。
飛び出す彼女、そしてシオを始めとした他のハンターに続き、ランゼも弓を構えた。
※
その龍の思いは、ただひとつであった。
“対”と――探し求めて止まぬ己が半身と、巡り逢うこと。
それが果たされぬ限り、この身を引き裂くような孤独が癒えることはないだろうと、龍は本能的に知っていた。
焦燥に誘われるまま追い求める先々で、あらゆる生物が傷つくことには気が付いていた。しかし、気に留める必要は感じていなかった。
彼の風には、自らが意図して起こすものも、そうでないものもある。
龍が気にしたとて、変えることなどできぬものだ。それによって生命が脅かされるものがあるのならば、分を弁えて大人しく道を空ければ良い。
そのような自身の在り方を、龍は正しく理解していた。
故に、彼にとってこの世界に必要なものは
の、だが。
今まで退けてきたどんな竜よりも小さく非力な生き物が、彼を押し留めようと、その進路を変えようと、必死に抗っている。
ひとという生命を、その龍はよく知らなかった。しかしそれにしたって、彼の風はあれほどの小さな生き物には耐え難いものだろうに。
素直に退くようならば必要以上に荒らすつもりはなかったのだが、あくまで立ちはだかるつもりならばそうも行かぬ。
その真意は、龍には理解できぬものだった。ここに来るまでも、有象無象に目を凝らすなど慣れないことをしたが、やはりひとの考えることはわからなかった。
渓谷を抜けて辿り着いた開けた場所で、忙しなく動くそれをじっと眺める。龍に意識を向けつつも刃を構えない様子から、気が変わったかとも思ったが違ったらしい。
声を上げ、その小さな武器を以て、龍を打ち倒さんと向かってくる。
それがわかった時点で、既に彼はひとへの興味を失っていた。
対よ。優美なる霹靂よ。未だ姿見せぬ我が半身よ。
その思いを以て今ひとの領域を蹂躙せんと、龍は咆えた。
※
赤髪の操虫棍使いが、軽やかに空を舞う。
近接武器を使うハンターたちは、常に浮遊しているイブシマキヒコを相手にどうにも攻めあぐねていたが、操虫棍という武器は他と違って地に縛られない。
棍の先端から印弾を射出し、龍のまとう風すらも利用してひらりひらりと踊る彼女は、戦いが始まった頃からずっと龍の注意を引き付けていた。
ランゼはそんな彼女に矢を当てないように射撃を続けていたが、龍属性エネルギーをまとう圧縮された空気の塊が飛んでくるのを確認して大きく側方に回避。
あの龍の攻撃を受けると風の力で上空に吹き飛ばされるようで、翔蟲を使って自力で着地することができなければどうなるかは想像に難くない。
ランゼは一瞬龍とヒオウから視線を外し、ちらりと地上に目をやる。その先にいるのはシオ。
ここで龍と戦い始めてからの彼女は、活躍する幼馴染と違って普段より精彩を欠いているように見えた。
いつもならば何かしらの故障を疑うところだが――彼女に限ってこの局面でそれはない。それに、原因として思い当たる節もある。
太刀は、相手の攻撃を受け流しその力を利用して攻撃する武器だ。性能を十全に発揮するためには、膨大な知識と熟練を必要とする。
未知の古龍を相手に苦戦しているのはこの場のハンター皆同じだが、その中でもシオ含む太刀使いは特に割を食っている、と言えよう。
「叩きつけ……っ、来るよ!」
ヒオウの呼びかけで、ハンターたちは各々距離を取って攻撃に備えた。声を上げた当人は、鉄蟲糸を伸ばして後方に着地したらしい。
黄色く光る瞳が、ぎょろりと人々を見下ろす。
「俺だ、離れろ!」
龍と“目が合った”ガンランス使いの壮年ハンターが叫んだ。
次の瞬間、龍は垂直方向に勢いよく回転し、その尾が遠心力と重力を乗せて地に叩きつけられる。
狙われていたハンターは、大きく後退しつつも右手の盾でなんとか防いだらしい。
が、衝撃で発生した振動に少なくないハンターが足を取られている。
『ランゼ』
『わかってる』
離れた場所にいて揺れの影響を受けなかったランゼは、イブシマキヒコの視線が体勢を崩すハンターたちへ向かないよう、地面に近い位置で滞空する龍の頭に狙いを付けた。
一射二射と素早く矢を放つが、それが風神龍を捉えることはなかった。空中でとぐろを巻くように急回転した龍は、その顎をいっぱいに広げる。
「まずい、ブレスだ!」
後方でライトボウガンを構えていたハンターが叫ぶ。
戦端が開かれて早数刻、ハンターたちを最も苦しめているのがこの攻撃だった。
直線状に放たれて後地面すれすれを薙ぎ払うように放たれるそれは範囲が広く、剣士の交戦距離で予兆を確認してから回避するのは困難だ。
他の攻撃と同様に被弾すると空高く打ち上げられ、適切に翔蟲で回避行動を取らないと追撃を受けるかそのまま墜落する羽目になる。
ブレスの当たらない高さまで疾翔けで飛び上がって回避するか、一か八か身体を切り裂かれないことを祈って近くの上昇気流に身を任せるかする必要があるが、振動によって未だ体勢の整わない者はどちらの選択肢を取ることもできない。
動けない人間がいることを知ってか知らずか、龍は無慈悲に口内のエネルギーを解放した。
安全圏まで下がってやり過ごそうとしたランゼは、しかし前方、明らかに薙ぎ払いの範囲内に一つ結びの黒髪が呆けたように揺れているのを認め、
「ちっ――くっそ……っ!」
体当たりするようにして彼女もろとも上昇気流に突っ込んだ。
ぐい、と持ち上げられる感覚。次の瞬間、二人は風によって上空に浮かび上がっていた。
「……すまない、不甲斐ないところを見せた」
「んなこたどうでもいい。落ち着けよ、らしくねぇぞ」
状況を把握したシオは、悔しそうに歯噛みした。
弓を構え直しながら、ランゼは素っ気なく告げる。
「お前にそれを言われるとはな」
苦笑交じりの言葉にふんと鼻を鳴らした。そんなことを言う余裕があるのなら、ひとまずは大丈夫だろう。
二人ほぼ同時に、文字通り風を蹴るようにして気流から離脱する。
見下ろすと、被弾しなかったもしくは被害が軽微なハンターが協力して、ブレスの直撃を避けられず戦闘不能に陥ったハンターを退避させているところだった。
「手を貸そう、大丈夫か!?」
自然にそちらへと加わるシオを横目に、着地したランゼは龍を見上げた。
風神龍は依然健在で、仄かに青白く光る風袋と思しき器官から盛んに風を吹き出して浮かんでいる。その目は、今も空を舞う操虫棍使いに向けられていた。
ランゼの視線に気付いた彼女は、にこりと笑みを浮かべた。
しかし次の瞬間、彼女は急に方向転換した龍が起こす風に巻き込まれ、吹き飛ばされるように落下する。
上昇していく龍と、なんとか着地したもののぐらりと身体を揺らした彼女、どちらに目を向けるか刹那の逡巡の後に、ランゼは彼女に
「……おい」
「平気ッ!」
ランゼのことを一瞥もせずにそう答えるヒオウの額には、しかし滝のような汗が伝っている。
だが彼女の声に拒絶の色を感じ取って、ランゼは口を閉じた。
龍は砦の入口方面に向かって上昇を続けている。
このまま飛び去るつもりか、と甘い考えが一瞬頭をよぎるが、それは当たり前のように裏切られた。
「あれ、は――」
ランゼが
ゆるりと旋回して関門前に戻ってきた龍の周りには、ひとつひとつが人の身の丈以上もある岩が大量に浮遊していた。