翡葉の砦で風神龍を撃退してから、早いもので一週間ほどが経った。
あれから数日は誰もが慌ただしく働いていたが、今はもうそんな様子も見られない。
シオは以前の落ち着きを取り戻しつつある里の景色を眺めながら、目的もなく大通りを歩いていた。
百竜夜行があって以来、まだ狩猟には出ていない。大きな怪我こそなかったものの、消耗が激しかったため大事を取ってもう少し休むつもりでいる。
ランゼはもうクエストに行くのを再開したのだろうか。彼のことだからまた無茶をしてはいないかと思うと気がかりだ。
数日前に里の人間を集めて防衛戦での犠牲者の弔いが行われたが、彼は姿を見せなかった。
ことそれに関しては、今更別段驚きも咎めもしない。
しかし、互いに随分と深いところまで踏み込んだ割に、狩猟がないとほとんど顔も合わせない仲である。様子が気になると思うくらいは許されるだろう。
そんなことを考えていたからか、シオがふと少し向こうに目をやると見慣れた青灰色の髪が見えた。
里ではありふれた色であるシオの黒髪と違って、あの色はカムラではおそらく彼だけだ。
こちらに背を向ける彼は、シオには気付いていないらしい。せっかくだからと声を掛けようとした彼女は、しかしあることに気が付いて足を止めた。
脚運びや体重の移動、姿勢などから見るにおそらくあれはランゼではなくてナギトだ。その上、彼の傍らには白いアイルーがいて何かしら言葉を交わしているらしい。
シオの方は別にこれといって用があるわけでもない。取り込み中ならば無理に言葉を交わす必要もない、とシオは踵を返そうとしたが、その前にアイルーの方が彼女に気付いた。
「……あ、」
目が合ったきり何も言えないでいると、彼あるいは彼女はシオに向かって丁寧に一礼した。
アイルーの視線につられてこちらを向いたナギトの顔が、ぱっと明るくなる。
「シオ」
「すまない、邪魔をしたか?」
シオの問いかけに彼は「いや、別に」と首を振った。
先の呼びかけは少々声が弾んでいたが、今度は声のトーンをランゼに揃えている。
狩場や自宅と違って誰が聞いているかわからないからだろう。器用なものだ、とシオは感心した。
「ランゼ殿、では自分は失礼いたします」
「ん」
白いアイルーはそう言って、最後にもう一度二人にお辞儀をしてから立ち去った。
ランゼと――今はナギトと、ではあるが――何かしらの関係を持っている人、というのが物珍しくて、つい聞いてしまう。
「あの人は?」
「ハク。まぁ、ルームサービス――みてぇな
ルームサービスとは、ハンターズギルドがその福祉の一環としてハンターの自宅に派遣する(一般的には)アイルーのことである。
彼らは主に代わり、日常的な家事炊事からハンターとしての諸手続きまでこなす。事務仕事のできるお手伝いさんと言うと近いだろうか。
派遣を断ることもできると聞くが、実際に断ったという話は滅多に聞かない。
事情が複雑な上、今まで何度か訪問した際も特にそれらしき姿がなかったので、彼らの自宅にはいないものと思っていたのだが。
微妙に言い淀んだところを見るに、一口で語れる関係ではないのだろう。
「……ま、立ち話もなんだ。茶屋か集会所にでも」
考えを巡らせるシオに何を思ってか、彼は不意にそんな提案をした。
それは思いがけない言葉だったが、彼らしいとシオは納得する。ランゼの振りをしていても、やはりナギトの方がよく気が回る。
で、あれば。
「いや、他の場所にしよう。人の目がある場所では話しづらいだろう?」
シオの返答に、ナギトは目を丸くした。声を潜めて、彼自身の声色で問う。
「へぇ。“僕”がお望みなの?」
「お前はお前だ。進んで自分を偽る必要はない」
呆気に取られたような顔と、「そう、か」という小さな声。
「ほら、行こう」
彼はこくりと頷き、シオに続いて歩き出した。
※
シオがナギトと話すために選んだのは、修練場の一角だった。
修練場の入口以外を囲うような岩壁を
普段修練場を利用している里のハンターや訓練中の子供たちの間ではよく知られた場所だが、来るために小舟を出す必要があることも相まって、わざわざここを目的に訪れる者はあまりない。
心地よい滝の音を聞きながら、シオはナギトに隣に座るよう促した。
「先程から音沙汰ないが、今日はランゼはどうしている?」
ナギトが腰かけるなり、シオは彼にそう問いかける。
「一昨日くらいに寝てから起きてこない。最近忙しかったから疲れたんじゃないかな」
「大丈夫なのか、それは」
眉を寄せるシオに、ナギトはなんでもなさそうな顔で答えた。
「たまにあるんだ、普通だよ。明日明後日辺りには起きると思う」
つくづく変わった兄弟だ。物珍しい、と思われるのは特にランゼが嫌がるだろうが、シオからすればわからないことが多すぎる。
「互いの状況も把握できるものなのか?」
「いや、ただの経験則。ランゼが起きてる間長時間黙ってることはほとんどないし、静かだから寝てるんだろうな、くらいに思ってるだけ」
なるほど、と相槌。
二人の特性については興味が尽きないが、あまり根掘り葉掘り聞くのも失礼だろう。
ちょうど話がひと段落したこともあり、シオは話題を変えることにした。
「ナギトは、普段何を?」
広範で抽象的な質問だが、それくらいにシオはナギトのことを何も知らないのだ。
幸いナギトは彼女の意図を察してか、嫌な顔もせず答えてくれた。
「ランゼが表に出てるときは、大体後ろから眺めてるよ。僕が見てないとすぐ揉めるし」
見ていても揉めるだろう、という言葉が喉元まで出かかったが、口に出すのはなんとか思いとどまる。
「ナギトが……その、『出ている』ときは?」
「大体家の中のことをしてる。料理とか、狩猟道具の管理とか、そういうのかな」
へぇ、と感心の声を漏らす。今のランゼの生活は彼あってのものらしい。
「出掛けたりは?」
「全然ないね。隠そうって決めてる以上、僕が外に行ってできることなんてほとんどないし」
「随分と献身的だ」
特に他意はなく、呟くように口に出した。
シオの姉は自らの心に従って里を出ている。彼女はそれを普通のことだと思っていたし、その姿に憧れすら抱いていたから、兄姉としての在り方がそれ以外にもあることが新鮮だった。
しかしナギトは「やめてよ」と首を振る。
「そんなんじゃない。僕には、それしかないだけだ」
「だが仕方なくやっていることではないだろう。立派なことだと思うよ、私は」
「そう、かなぁ……」
彼は怪訝そうな顔をしてそう言った。
「あ、でも一人のときはランゼに代わってもらって狩猟に行くこともあるよ。さすがに気晴らしもなくそんなことはできないから」
まるで言い訳でもするように彼は言うが、その口振りにシオは疑問を覚える。
彼が一人で狩猟をする日にしか出てこないのならば、そもそも
「あの日……私とナギトが初めて会った日は、“一人の日”という慣例を破ってまでお前が来たということなのか?」
彼女の指摘を受けて、ナギトは気まずそうにがりがりと頭を掻いた。
こういう細かい仕草は、たまに驚くほど弟によく似ている、などと思う。
「あー、あの日は……そうだね。シオと話したくなかったみたいで」
「それでナギトが代わりに来た、と?」
シオの問いに「ん」と短く答えて、ナギトは言葉を続けた。
「――その前回の話、なんだけど。確かアオアシラを狩猟したあのとき、帰り際にあったことは覚えてる?」
シオは無言で頷いた。あの出来事については、忘れろという方が難しい相談だ。
『黙れよ、放っておいてくれ。もう俺に構うんじゃねぇ』
あのときのランゼの表情は長い前髪に隠れてよく見えなかったが、その声が何かを堪えるように震えていたのはよく覚えていた。
きっかけは、シオの何気ない一言だったように思う。
純粋に褒めるつもりで、「良い動きだった」と彼に声を掛けた。
拒絶されるかもしれない、などとは全く考えてもいなかった。もし少しでもそういった覚悟があれば、ああもショックを受けることはなかっただろう。
そのせいで、あのときのシオには後を追うこともせずその場に立ち尽くすことしかできなかった。
偶然がいくつも重なった結果、兄弟とは今もこうして親交を保っているが、あのときもう少し上手くやれていたら、と思うことはある。
無論、今更何を考えようと無駄なことは理解しているが。
「あれが原因か? あのときは、てっきり私が何かまずいことを言ったのかとばかり」
「いや、あれは僕らが悪いよ」
意外なことに、ナギトはシオの言葉を即座に否定した。
シオが首を傾げると、彼は言葉を選ぶようにしながら続ける。
「たまたま、シオの言葉にランゼにとって引っかかるところがあっただけ。それも、シオじゃなく僕らのせいだ」
僕ら、という言い回しが耳に残る。
実情はどうあれ、彼は頑なに自分も責任を背負うつもりらしい。
「その理由までは……ランゼ
ナギトの言葉から小さな違和感を拾い上げて、口に出す。
「お前自身はわかっているような言い方だ」
「意地悪だってよく言われない?」
ナギトはにやりと、しかしどこか困ったような顔で笑ったが、シオは表情も変えずに答えた。
「誤魔化すような言い方をする方が悪いだろう」
「心外だな。どちらかと言えばシオも
生憎そのような自覚はない。シオが首を傾げると、彼はため息混じりに苦笑した。
「まぁ、思い当たる節くらいならあるよ。別に、大した話じゃないんだけどね」
遠くを見るように目を細める彼は、とても優しい顔をしていた。
「あのときシオに動きを褒められて、きっとランゼは嬉しかったんだ。でも――いや、
「怖かった……?」
「驚いたって言ってもいい。……僕らは、
にわかには信じがたかったが、あの時点で既にシオはそれだけの――彼の心を動かすことができるほどの信頼を得ていたらしい。
しかし、それでもなおランゼは“知ってしまった”シオを殺そうとした。
後ろ指をさされることが耐えられないと、彼はそう言ったが、それはきっと自分以上に兄のことを思ってなのだろうとシオは考えている。
「慕われているんだな」
その言葉は本心から出たものだったが、ナギトは自嘲するような笑いを零した。
「僕は――ランゼには、そんなことは気にしないで生きてほしいけどね」
「どうして?」
「わかるだろ。例え僕らが
別々の個が共に在り続けることは難しい、それはわかる。
しかし彼の言い方ではまるで、二人がその特異性故にいつかは決別しなければならない、と言っているようで。
「ダメだな、重苦しい話はやめ! ごめん、シオといるとつい話しすぎちゃって」
シオの思考は、意図的にトーンを変えたナギトの声で霧散した。
「あー、ほら、僕シオの話も聞きたいよ」
彼の真意を掴めず、もやもやしたものを言語化できないまま、さりとて蒸し返すわけにもいかない。
その後も二人はしばらく他愛のない会話を続けたが、やがて日が傾いてきたからと解散した。
帰宅してなお、シオの心の片隅には彼の言葉と寂しげな声が残っていた。