【完結】水月に手を伸ばす   作:どら水天

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23 二組の双刃

「シオにさ。聞いてほしい、話があるんだけど」

 

 おもむろに口を開いたナギトの方を向くと、彼は焚火を見つめたまま続けた。

 

「五年前、ここで起きたこと」

 

 シオの記憶が正しければ、それは彼が死んだときのことだろう。

 果たして自分が聞くべきことなのか、という疑問を飲み込んで、シオは頷いた。

 

「私で、良いなら」

 

「うん。――()()()、いいんだ」

 

 彼はそう言うと、僅かに目を細めて、落ち着いた口調で語り始めた。

 

「五年前の、ちょうど今と同じくらいの季節だった。ここを通って近くの里に人に会いに行って、その帰り道のことなんだけど――」

 

 

 一歩脚を踏み出すと、積もった雪がぎゅ、と小さく音を立てた。

 空は雲一つなく晴れ渡っているが、それでも夕暮れの寒冷群島の空気は刺すように冷たい。

 

「……大丈夫か」

 

 前を歩く父親が、立ち止まってちらりとこちらを見た。

 

「大丈夫、早く帰ろう。ね、ランゼ」

 

「ん」

 

 片割れの言葉に、短く肯定を返す。

 休んでいる暇などない。間もなく日が暮れる。

 この寒さも相まって既に脚は棒のようだったが、弱音を吐いてはいられない。

 

 ――それに。寒さとは別に、ランゼは背中が粟立つような、ぴりつくような、嫌な感覚を覚えていた。

 不安要素はないはずだ。寒冷群島はよく大型モンスターが出現する地域だが、里のハンターが定期的に脅威となり得るモンスターを排除している。

 どうか気のせいであれ、思い過ごしであれ、と思うが、いずれにせよランゼにはただ足早に歩みを進めることしかできない。

 

 雪を踏みしめる三人分の足音以外に、全ての音がない世界。不気味なほどの静寂。

 沈みゆく夕陽は真っ赤に燃えているはずなのにどこか寒々しく、それでいて緊張感と疲労のせいか、着こんだ装備の下にじわりと汗がにじんだ。

 そのとき、不意に空気が震える。厚く積もった雪がかき消そうとしてなお力強く響く“それ”は、

 

「咆哮……」

 

 隣のナギトが小さく呟いた。

 彼が言う通り、その音は間違いなく大型モンスターの咆哮だった。

 思わず足を止める。声が聞こえてきた背後を振り返る。そこには一面の銀世界とそびえる山々以外に何もない。

 けれど、いる。確かに。この近くに、どこかに。

 

「父さん」

 

 呆然とするだけのランゼを横目に、ナギトが父親に指示を仰ぐ。

 

「――どこかに隠れてやり過ごすような時間はない。二人とも、翔蟲は」

 

「うん、問題ない」

 

 兄の言葉にはっと我に返り、ランゼも慌てて頷いた。

 翔蟲を使えば高速で移動できるが、連続で疾翔けを行えばそれだけ体力を使う。こと寒冷群島においては、冷たい風が体温を奪いさらに消耗しやすい。

 十四になったばかりの双子には負担が大きい、と父が判断した故の徒歩での移動だったが、もうそうは言っていられない。

 

 三条の輝線が伸びる。

 鉄蟲糸に強く身体を引かれて、景色が飛ぶように通り過ぎて行く。

 頬を撫でる風は切るように冷たく、耳元で唸りを上げる。

 

 そのとき、焦りか寒さか。鉄蟲糸を掴む指が滑った。

 転びそうになりながらもなんとか体勢を整えて着地する。

 

「大丈夫か、――」

 

 振り返る父親の声が、不自然に途切れる。

 ランゼが顔を上げると、父と兄はランゼの背後を見て呆然と目を見開いていた。二人に釣られて思わず振り返る。

 

 

 鬼が、佇んでいた。

 

 

 “それ”の纏う空気のなんと冷たく絶望的なことか。

 不気味な眼光に射抜かれて、ランゼは立ち尽くしていた。どうしようもなく身体が竦んで動けなかった。

 

「目を(つぶ)れ!」

 

 響く声に、半ば無意識のうち目を閉じた。

 次の瞬間、瞼越しにも感じられる強烈な光が瞳を灼く。

 目を開くと、そこには一時的に視力を失って前肢をめちゃくちゃに振り回す姿。

 

「急げ、今のうちに」

 

 父親にとんと肩を叩かれて、ランゼはようやく恐怖の呪縛から抜け出した。

 浅くなった呼吸を整える暇もないまま、がむしゃらに鉄蟲糸を伸ばす。

 こうしてあまりにも唐突に、帰路は命がけの鬼ごっこと化した。

 

「奴の視覚が戻る前に、迂回して岩山で視線を切る。一時的にでも撒いたらどちらかのサブキャンプに避難して、ギルドに救援要請を出そう」

 

 父の声は、ほんの微かに震えていた。こんな状況でなければ、気付かなかったかもしれ

ない。

 けれどそれに触れるどころか、父の言葉に頷くこともできなかった。

 

 背中を嫌な汗が伝う。

 暑いのか寒いのか、耳元で鳴る音は風の声か獣の唸りか。

 大きく回り道をしながらも、三人はようやくサブキャンプ付近までやってきた。

 息が苦しい。肺が破れそうだ。

 父親はサブキャンプに近づく前に辺りを見回して、

 

「――っ!」

 

 双子を石柱の影に押し込んだ。

 し、と指を立てられて、何がなんだかわからないまま上がった息を必死に殺す。

 しかし――やがて、聞こえてくる。逃げた獲物を探す獣の声が。地の底を這うような唸りが。

 

 気付いた瞬間、息が止まった。心臓の音が痛いほどに鳴り響く。

 声は、段々近づいてくるように聞こえた。こちらに気付いてか気付かずか、はたまた恐怖がそう思わせているか。

 

 ざば、ざば、と水面を歩く足音は、しかし気のせいでは済まないほど明確に、三人が身を潜める石柱の方へと向かってくる。

 父が、覚悟を決めたように細く息を吐き出した。

 

「……俺が向こうの隙間から出て奴の注意を引く。お前たちは反対側から背後に出て逃げろ」

 

「でも――、」

 

「……父さんは?」

 

 反射的に言い返したランゼの言葉の後を、落ち着いた口調でナギトが継ぐ。

 

「平気だ、俺一人なら。だがこの状況からお前たちを連れて逃げることは、俺にはできない」

 

 ざば、ざば。

 

「ベースキャンプに向かえ。着いたら、里に救援要請を出せ」

 

 敢えてゆっくり、こちらが痺れを切らすのを待っているかのように。

 

「できるな」

 

 最後まで、返事はできなかった。

 

 ざば。

 

 足音が止まった瞬間、父親は石柱の影から飛び出した。

 しゃん、と澄んだ音は彼が背の双剣を抜いた音。続いて何かを切り裂く音、地を揺らす一歩。

 

「ランゼ」

 

「行け、早く!!」

 

 兄と父親の声に、ランゼはぐっと歯を噛み締めて立ち上がった。

 ナギトと同時に、父が出て行ったのとは反対側へと鉄蟲糸を伸ばす。

 せめて一目、父親の姿を見てから。そう思って振り返ったランゼの目に、雪鬼獣の背が映ることはなかった。

 ――どこへ?

 その疑問は、すぐに解消される。

 

 対峙していたはずの父親の後ろに、双子と父の立っている場所を直線で繋いだその先に。

 高く飛び上がっていた鬼の巨大な体躯が、落ちてくる。

 叩きつけられた拳を起点に、地面がめくれ上がる。

 咄嗟に横へ回避した父親が、こちらを見る。

 

 どん、と強い衝撃に吹っ飛ばされた。反転する視界に映るのは自分に覆い被さる兄の姿。

 

「ごめん。大、丈夫?」

 

 声色、表情、微かな違和感。頷きながら起き上がって、その正体に気付く。

 深く裂けた装備、滴る鮮やかな赤。

 

「ナギト、」

 

 続けるべき言葉を探している間に、鋭い金属音が響き渡る。

 父親の双剣が、ゴシャハギがいつの間にかまとっている氷の刃に弾かれた音だった。

 

「行け!! 急げ。躊躇うな。振り返るな」

 

 父の声は、今度は誤魔化しようがないほど震えていた。

 

「――っ、大した傷じゃない。行くよ」

 

 ナギトは言うなり、ランゼの返事も待たずに翔蟲を飛ばした。

 慌てて兄の後を追う。

 最後に一度、思わず振り返りそうになってぐっとこらえた。

 父さんは大丈夫。俺たちの、父さんなんだから。そう言い聞かせて。

 

 

「ランゼ」

 

 兄の声が静寂を破る。

 

「あ? 黙ってろ、傷に障るだろ」

 

 あの後、父親のおかげか雪鬼獣は逃げる二人をあっさりと見逃した。

 

 十分に距離を取れたことを確認してナギトの傷を確認すると、太腿の外側が大きくざっくりと裂けていた。確かに今すぐ命に関わるような傷ではなかったが、『大した傷じゃない』かと言われると判断に悩む深さだ。

 

 この場で出来るだけの応急処置は施したものの、ナギトの足取りは重い。自分が鈍かったばかりにと後悔の念を抱きながらも、脚を庇う兄を支えながらじりじりと歩みを進めていた。

 

「別に話すくらい平気だよ、大袈裟だな」

 

 困ったように笑う顔には、しかし苦痛の色が濃く表れている。

 話すことなんかよりも、歩かせることの方がずっと負担になっているのはわかっていた。けれどランゼとて元から体力の限界に近い。体格の変わらない兄を背負って移動するのは難しい。だから、見て見ぬ振りをしていた。

 

 そういう負い目もあって、無言でナギトに先を促す。

 彼はゆっくりと息を吸って、こう告げた。

 

「僕を置いて行ってくれないか。こんなんじゃ、足手まといだろ」

 

 意味をきちんと理解するまでに、しばらくかかった。

 

「んな、こと……できるかよ」

 

 どんな思いで父親をあの場に残してきたか、それはナギトだってわかっているはずなのに。それでもなお、自らを置いて行けというのか。

 

「この辺には小さい洞窟も多い。そういうところなら、モンスターも入ってこないから」

 

「でもその怪我で……ナギトに何かあったら」

 

 例えナギトの言っていることが正しくても、この状態の兄から片時でも目を離したくなかった。

 

「そう、か。わかったよ」

 

 それっきり会話は途切れた。

 雪を踏みしめる二人分の足音だけが静かに響く。

 遠くから時折聞こえる咆哮だけが、時間の経過を感じさせた。

 

 父さんは、まだ戦っている。

 大丈夫。ちゃんと帰れる。絶対。

 

 

 

「やっぱり、先に行きなよ」

 

 あれから数十分か、それとも数時間か。それすらもわからなくなった頃、ナギトが呟くようにそう言った。

 

「馬鹿言うな。俺は……ナギトまで置いて行ったりしない」

 

 強く首を振る。

 

「でも、僕はこの状態じゃ疾翔けもできない。それならランゼが僕の翔蟲を使って先に行った方が良い」

 

 返事はしない。ナギトの言うことには一理あるとも感じていたが、譲る気は全くなかった。

 どちらにせよ可能性の話でしかないが、置いて行った結果モンスターに襲われて、ということも十分有り得るし、そうでなくともこの厳しい寒さの中動かずにいれば凍死しかねない。自分のいないところでナギトに何かあるのが一番嫌だった。

 

 兄は張り詰めた表情で、ランゼの顔をちらりと伺って躊躇いがちに付け加えた。

 

「遅くなればなるほど、父さんだって」

 

 ナギトが何を言わんとしているかがわかってしまって、思わず声を荒げる。

 

「父さんは負けたりしない!!」

 

 不安がないかと言われれば嘘になる。けれど、信じていたかった。

 信じていなければ……本当に、父親が消えてしまうような気がして。

 

「……ごめん。そうだよね、僕たちは信じなきゃ」

 

「いや、俺も……悪かった」

 

 どちらからともなく、再び黙って歩みを進める。

 いつしか星が瞬き始めた黄昏の空を背に、身を寄せ合って、寒さから互いを守るように。

 

 

 

 それは唐突だった。

 支える手に掛かる重さが急に消えたと思ったら、ナギトが膝を付いていた。

 

「ごめん……ごめんね」

 

 何も言えずにいるランゼを見上げる申し訳なさそうな顔には、この寒さにも関わらず大量の汗が浮かんでいた。

 

 そのとき、視界の端で何かが動いた……と思った次の瞬間にはもう囲まれていた。

 イズチの群れ。ざっと見る限り五匹はいる。

 よりにもよって、このタイミングで。

 

 反射的に兄を庇うように立って、しかしそれ以上にどうすればいいかわからない。

 ハンターの武器なら多少なりとも扱えるが、今は当然そんなものは持っていない。

 イズチたちも“獲物”が弱っていることは知っているようで、こちらが何もできないことをわかっていてじりじりと付かず離れずの距離から様子を伺っている。

 

 互いに睨み合ったまま、動かない。

 どうする。どうすればこの状況を打開できる。

 

 何をしたってもう手遅れなんじゃないかという絶望の影は感じている。それでも認めたくないと、必死に考えを巡らせた。

 そのとき、不意にナギトが口を開く。

 

「――ランゼ。一人でも帰れるよね。君は、僕の自慢の片割れだ」

 

 聞き返す暇もなく、がくんと手を斜め後ろに引っ張り上げられる。見れば手首には鉄蟲糸が巻き付いていて、何が起こったか辛うじて理解した瞬間、ランゼは空中に放り出された。

 考える前に手を伸ばす。届くはずもなかった。

 「嫌だ」、と零れた言葉に、口の動きだけで「大丈夫」と返事をされる。

 ランゼとは反対の方向に翔蟲を飛ばして自らも包囲から離脱しながら、ナギトはしてやったりと晴れやかに笑った。

 

 

「その後のことは――正直、よく覚えてなくて。まぁ、むしろ忘れてて幸せだったかもしれないけど」

 

 ナギトはそう言って、一旦言葉を切った。

 ぱちぱちと薪がはぜる音が響く。

 

「……よくある話だよね」

 

 否定も肯定もできなかった。

 

 彼の言う通り、この辺りではモンスターが原因で家族を失うというのはさほど珍しい話ではない。シオたちの世代は元より、もっと上の――フゲンたちの世代は、百竜夜行もあって大勢が死んだと聞いている。

 今現在の不思議な状況を除けば、家族を襲ったそれがありふれた悲劇なのは確かだった。

 

「ランゼは」

 

 ナギトは焚火を見つめたまま、ぽつりと言った。

 

「ずっと、自分のせいだって思ってる」

 

 話を聞いた限りでは、シオはそうは思わない。目の前の彼も同じなのは、その顔を見れば明白だ。

 しかし同時に、十四の少年が自責を抱くのも無理はないと思ってしまった。一人遺されてしまった彼には、その認識を正してくれる人もいなかったのだろう。

 

「もうやめてほしいんだ、過去に囚われるのは。でも、僕の言葉じゃ届かない」

 

 その声に滲むのは、悲しみか悔しさか、それとも諦めか。

 

「ねえ、シオ。君なら――ランゼのことを、助けてあげられないかな」

 

 思わずナギトの顔をまじまじと見つめた。

 本人の言葉ですら届かないのに、他人の言うことがランゼの心に響くのだろうか。

 いや、違うのかもしれない。彼の言葉だからこそ、届かないのか。

 

「身勝手な話なのはわかってる」

 

 ナギトは消え入りそうな声でそう言った。

 

「無理にとは言わない、機会があったらでいいんだ」

 

「そう、か」

 

 まるで血を吐くように告げられる言葉は、シオにそれ以上を言うことを許さなかった。

 

 

 

 重い沈黙を破ったのは、テントの外からの声だった。

 

「取り込み中だったらすまない、シオに里から(ふみ)が来てる」

 

 ここに届くということは、里からフクズクで届けられた文だ。急ぎの連絡かもしれない。

 入口の垂れ幕を上げて、渡し守から手渡されたそれを手早く広げる。

 手紙の主は、ヒオウだった。

 内容を軽く目で追って、自らの目を疑って、背後のナギトを振り返る。

 

「――どうしたの?」

 

 彼の顔に、先ほどまでの沈んだ表情は既になかった。

 どのような思いを持てば良いのかもわからないまま、事実だけを口に出す。

 

「ヒオウが、雷神討伐戦の指名を受けた」

 

 

 

 

 

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