助けになりたかった。
そのためにここにいるのだと最初から悟っていたし、疑問も覚えなかった。
ただ、それだけだったはずなのに。
何がいけなかったんだろう。
嘘を吐いたこと? それを重ねたこと?
そんなことはもう知る方法もないのに、ずっと頭から離れない。
望まれる姿で在り続けたいと、そう願ってきた。
けれど、どう上辺を取り繕っても――取り繕えば取り繕うほど、心の底には濁ったものが溜まっていって。
いつからだろう。
気が付いたら、深い穴の縁を裸足で歩いていたのは、ぼくの方だった。
※
今日の里は、暗雲垂れこめる嫌な天気だった。
狩猟中に降り出されると面倒だと、自宅を出たランゼは空を見上げて顔をしかめる。
しかし、彼はすぐに首を振ってため息をついた。
天気の急変には常に備えている。必要以上に憂いても仕方がない。
『そういえば、結局シオに納得するような話は聞けたのかよ』
気分を変えようと、兄に問いかけた。
ナギトが急に「シオと話したい」と言い出したときには驚いたものだ。彼が何かしたいと言うことは滅多にないから、二つ返事で快諾した。
『――うん、そうだね。代わってくれて助かったよ』
満足気な言葉に、『なら良かった』と答える。
中身についてを訊ねるつもりはなかった。
不本意ながら最後の辺りは聞いてしまったが、シオは唯一ナギトがナギトとして会話できる人物だ。そのささやかな自由を、邪魔したくはない。
ランゼに話す必要があることなら、兄から話してくれるだろう。
そうこうしているうちに集会所にたどり着いたランゼが
軽く手を上げて挨拶する彼女に、同じ動作こそ返さないが「ん」と応じる。
ランゼが彼女の隣に腰を下ろして団子を頼むと、シオは控えめな声で問いかけた。
「今日は……ナギトは?」
「あ? 何か用でも?」
茶屋のアイルーたちが鮮やかな手さばきで団子を作っているのを横目に、首を傾げる。同時に兄に呼びかけようとするが、シオはその前に言った。
「いや、どちらでも構わないんだ。聞いていないようなら後でお前が伝えてくれ」
ランゼが続く言葉を待っていると、彼女は躊躇いがちに告げる。
「話してくれてありがとう、と」
なんとなく。なんとなく、嫌な予感がした。
「――
声が震えないように、怒気を孕まないように、努めて静かに言う。
「何を聞いた?」
しかし、それだけで彼女には十分だったらしい。シオはランゼの目を見つめたままぴたりと動きを止めた。
「……もしかして、お前は何も聞いていないのか?」
彼女の言葉には答えないまま、ランゼは顔を伏せた。今どんな表情をしているか、シオに見られたくなかった。
『兄さん』
半ば祈るような気持ちで――なんでもないことのように答えてくれと、そう願いながら問いかける。
『……っ』
しかし、ランゼの願い虚しくナギトは言葉に詰まって黙り込んだ。
ぎゅっと唇を噛む。これでは、ランゼが望まぬことを話したと言っているも同然ではないか。
そんなものは、ひとつしかない。
『ぁ……違う、違うんだ。僕は――っ、いや。シオは、悪くない』
『そんなことは! ッ……どうでも、いい』
求めていたのはそんな言葉じゃない。
拳を固く握りしめて、今にも爆発しそうな激情を必死に抑え込む。
「ランゼ……?」
怪訝そうな声に、顔を上げないまま言った。
「帰る」
「ぁ――、おい待ってくれ、」
彼女の言葉を最後まで聞くような余裕などなかった。
椅子を蹴飛ばすように席を立つ。
配膳のアイルーとぶつかりそうになりながら、急いでその場を後にした。
※
“あれ”以来ランゼが集会所に来ないと、ゴコクから聞いた。
数日――下手したら一週間、だろうか。老齢のギルドマネージャーは、全く異例のことだと彼を案じていた。
そんなことを聞かされては、訪ねないわけにいかない。
すっかり通い慣れてしまった道の先、シオは耳を澄ませながら軽く戸を叩いた。
「ランゼ……?」
返事はない。中から物音もしない。
静かに戸を開けると、昼間にも関わらず中は暗かった。
動くものはない――が、部屋の奥には布団に包まって丸くなる影。傍らには寄り添うように二匹のガルクが丸くなっていた。
「ランゼ」
「……ん」
返ってきた声は、随分と掠れていた。
まさか、あれからずっと
狩猟頻度や浪費癖もなさそうなところから考えるに、しばらく家にこもっていても金にこそ困らないだろうが――と辺りを見回したところで、その存在に気付く。
白いアイルー。微動だにしていないため今の今まで視界にすら入っていなかったが、今確かに瞬きした。
そういえば、この前ナギトと話していたアイルーがこんな毛色ではなかったか。シオがそう思った瞬間、彼はぺこりとお辞儀をして口を開いた。
「ご機嫌ようございます、シオ殿」
丁寧な口調に少々驚きながらも、軽く礼を返す。
「こんにちは。ハク、さん」
以前ナギトから伝え聞いていた名前を呼ぶと、彼はやんわりと首を振った。
「ハク、で構いません」
シオがどう返事をしたものか量りかねていると、ハクはおもむろに立ち上がって言った。
「自分は買い出しに行って参りますので、どうぞお気になさらず」
「待ってください。私もお手伝いします」
反射的に引き留めていた。
「そう、ですか? しかし――」
「荷物が多いと大変でしょう」
我ながら詭弁だとは思ったが、今さら退くこともできない。
彼は迷うように、顔を上げて布団の隣からやってきたツキヨ――おそらく、普段は彼女に荷を任せているのだろう――を見遣ったが、動作で彼女に下がるよう伝えながら言った。
「わかりました。では、ご一緒いただけますか?」
二人連れ立って家を出る。
引き戸を静かに閉めながら、白いアイルーはシオを見上げた。
獣人の表情は人間よりもわかりづらいが、不思議そうにしていることはわかる。
「すみません、無理を言ってしまって」
「いえ、手伝っていただくのは自分ですから構いませんが……彼の前では話せないことでも?」
シオが謝ると、ハクはそう問いかけた。
さすがに露骨だっただろうか。彼の言う通り、シオは単に手伝いがしたくて出てきたわけではない。
「はい。あなたがどこまで知っているのか、と」
「――なるほど。それは失念しておりました、申し訳ありません」
シオの言葉に、ハクは深くゆっくりと頷いた。
「結論から申し上げると、ほぼ全て存じ上げています」
ナギトは彼をルームサービスに例えた。もしかしたら、とは思っていたが、やはり知っているらしい。
「差し支えなければですが、どういう縁で?」
問いかけたシオに、ハクは小さく笑って答えた。
「イブキは――彼の父は、自分の旦那様ですから」
それで“みたいな”か。おそらく彼は、書類上は父親から引き継いだランゼのオトモなのだろう。
「そう、でしたか」
彼もまた、喪った側ということだ。その上、五年の間ずっと彼らと向き合い続けてきたことになる。
「……どう、思っていますか」
極めて抽象的な質問だが、彼の認識を知っておきたかった。
「…………」
アイルーは黙ったまましばらく考え込んだ。
「難しいことを仰いますね」
彼はこてんと首を傾げて、思いを巡らすように目を瞑る。
「そう、ですね――」
やがて口を開いたハクは、悲しそうに目を細めた。
「彼らがどうであれ、自分にできることは変わりません」
思わずその顔をまじまじと見つめる。シオの目を見返した彼は、へにゃりと笑った。
「口を出さない、干渉しない。それが自分がランゼ殿のお傍にいるための条件です」
「それでは、まるで」
物言わぬからくりのようではないか。
そう言おうとしたシオの言葉を、ハクはそっと遮った。
「いえ、構わないのです。相棒の忘れ形見をお傍で見守ることができるだけで、自分は」
シオは喉元まで出かかった反駁をぐっと飲み込んだ。
「ですが、お二人の現状は薄氷を踏むような危ういものであることも理解しています」
「なら、」
思わず結論を焦るシオに、ハクはゆるゆると首を振った。
「貴女がお二人に害を為さない限り、ご協力はいたしましょう。ですが、自分にできることは多くはありません」
それが、最大限の譲歩ということか。
確かに彼が出過ぎた行動をしてランゼの傍にいられなくなれば、それは回り回って彼の首を絞めることになる。ナギトがいれば問題ないかもしれないが、おそらく今の状態ではそれは期待できない。
シオは大人しく退き、話題を変えることにした。
「何があったか、聞いていますか?」
数日前――おそらくはシオがナギトから聞いた話と、何気なく口に出した一言で、兄弟の間に何かが起こったことは予想が着く。しかし、状況はできる限り詳細に知っておきたい。
「直接聞いてはいませんが、およそはわかります」
彼はそう言って、あの日のことを話し始めた。
※
思い切り叩きつけられた拳で、柱が大きく揺れた。
「どういうことだよ……ッ!」
「……ごめん」
兄の消え入るような声は、ランゼを余計に苛立たせる要因にしかならなかった。
“あれ”は、ランゼの弱さを、無力さを、最も端的に表すものだ。他人に言ったことなどもちろんない。
シオには、シオにだけは、知られたくなかった。
不甲斐ないところなら、彼女には散々見せてきたと思っている。だが、譲れない一線だった。
家族を見捨てて生き延びた人間だと、一人逃げ出した人間だと、そう思われるのが何よりも嫌だった。
「でも、シオは! そんなことはきっと気にしないって、」
「――シオがシオがってうるせぇよ!! んなことはどうでもいいって言っただろ!?」
馬鹿みたいだ。相手がシオであることを一番気にしているのは自分だというのに。
シオが多分気にしないことも、頭ではわかっている。
だからきっと――ただ、決して拭い去れない自らの罪を知られたくなかっただけなんだろう。
「……どうして」
「必要なことだと思った」
ナギトはいつもランゼより優秀だった。
何でもそつなくこなす人で、ランゼはいつもその背を追っていた。
ナギトにはランゼの考えることなど全てお見通しだったが、ランゼがナギトの考えを知ることなどほとんどなかった。
でも、それで構わなかった。
五年前までも、五年前からも、それで全部が正しく回っていたはずなのに。
兄の考えがわからないことが、こんなにも恨めしいと思ったことはない。
「どうして」
「シオなら、受け止めてくれると思った」
既に、会話の体など成していなかった。
言葉の表面をなぞるばかり。すくい上げようとした途端に、それは意味を成さなくなって手のひらから零れ落ちてゆく。
「どう、して」
「…………」
呟く声に、もう返答はなかった。
遠く、空の遠く、雷の音が響く。
※
買い出しを終えた二人が帰ってくると、ランゼは未だ変わらず布団の中で丸くなっていた。
あの後もハクと話したが、シオとしてはそっとしておく他ないという結論に至った。
仕方がないが、しばらくはたまに様子を見に来ることしかできないだろう。
そうして、シオがその場を立ち去ろうとした、その瞬間。
「シオ、さんは、こちらに……っ?」
乱暴に開けられた扉の外には、息を切らしたヒノエが立っていた。
「すみません、急に」
上がった息を整えながら、ヒノエは謝罪の言葉を口にした。
「いや、私は構わないが……その様子だと急ぎのクエストでも?」
「はい、そうなんです。ミノトの体調が悪く、ギルド側も慌ただしい折で……みっともないところを見せて申し訳ありませんわ」
シオが先を促すと、彼女はひとつ深呼吸をして告げた。
「寒冷群島に、雪鬼獣が」
一体何の因果か。あまりの機の悪さに、背中を嫌な汗が伝う。
「おい――受付嬢」
シオが振り返ると、ゆらりと立ち上がる影があった。
「
「は、はい」
続く言葉は、シオの予想通りで。
「そのクエスト、俺に寄越せ」
「だが……ランゼ、」
今の彼を狩猟に行かせるのはあまりに危険だ。
「んだよ。俺じゃいけない正当な理由があるなら言ってみろ」
だがその気迫に、言葉が続かない。どんな説得をしても、今の彼には無駄だろう。
「なぁ受付嬢、構わねぇだろ」
「……っ、急ぎゴコク様に報告して参ります」
走り去るヒノエの背中を、シオはただ見送ることしかできなかった。