唯一の家族、精神の支え、何よりも大切な人。
心から信頼していただけに、ランゼが受けた衝撃は計り知れなかった。
ナギトはあれ以来、ランゼがどれだけ呼びかけても出てこない。真意を知るどころか、言葉を交わすことすら叶わない。
兄は自分の望まぬことはしないと、全てがどうにかなると、ただ盲目的に信じてきた。その結果がこの
馬鹿みたいだと思った。シオには偉そうに講釈を垂れておいて、『勝手に期待して勝手に失望している』のは自分ではないか。
何かしなければならないのはわかっていたのに、何をしようにも身体が動かなかった。ただ自分の身を守るように、何かを恐れるように小さくなっていた。
嫌なことがあるとこうして全てを投げ出してしまうのは、あの頃と何も変わっていない。そんな自分が何よりも嫌いだったのに、こんな形で思い知らされるのはなんという皮肉か。
俺のことなんか、誰も知らなくていいんだ。
そうすれば、ランゼがどこかで人知れず死んだときに、全部が――過去も、罪も、全てが静かに消え去ってくれるような気がして。
「寒冷群島に、雪鬼獣が」
不意に耳に入ったその声は、いやにはっきりと聞こえた。
それは、運命の悪戯かそれとも悪鬼の誘いか。
「おい――受付嬢」
行かなければならない、と直感した。
「
※
雪鬼獣、ゴシャハギ。
寒冷群島における生態系の頂点と言っても過言ではない、危険度の高いモンスター。
志が高いのは良いことだが誰もがたどり着ける領域ではない、気負いすぎないように、と。あの男にそう言われたのは、師事し始めて間もなくだったか。
しかし、そんな言葉を掛けられれば余計に意識してしまうというもの。諦めてたまるかと、それ以外のありとあらゆるものを削って狩猟に生きてきた。
戦いを楽しめる
復讐、とは違う。
五年前のあのゴシャハギは、ランゼが戻ってすぐにクエストが発行され、腕利きのハンターに狩られたと聞いた。今回の狩猟対象は、全く関係のない個体だろう。
同族だという理由で別の個体に怒りを向けるのがいかに愚かなことかは、心得ているつもりだ。そもそも、ランゼが憎悪にも似た怒りを覚えているのは、ゴシャハギでもイズチでもなく自分自身とその行いである。
だからこれは――ランゼなりのけじめ、と言うのが一番近いのだろう。
一人でクエストを受けようとしたランゼに対して「お前が行くなら私も行く」と頑なに同行を主張したシオは、ランゼが難色を示したにも関わらず結局着いてきた。
「ゴコク様、本当に私たちで良いのですか」
挙句ギルドマネージャーにそんなことを問いかけるのだから、全く理解に苦しむ。
「確かに、奴はお主らが普段狩るモンスターよりはいくらか格上でゲコ。じゃが――お主らにはその力があると、ワシは信じておる」
この狸爺が何を考えているかは知らないが、シオや受付嬢と違い彼は渋ることもなくあっさりと狩猟の許可を出した。
「そう、でしょうか」
「うむ。危険があるのもまた事実じゃが、それはいつもの狩猟と同じゲコ。故にワシから言うことはただひとつ、これもいつも通り」
未だ不安そうにするシオに、老齢の竜人はひとつ深呼吸して言った。
「無理はせんで、厳しいと思ったらすぐに撤退すること。いいね?」
「――はい。わかりました」
ギルドマネージャーは最後にランゼの方を一瞥して付け加えた。
「シオよ。……頼んだでゲコ」
※
寒冷群島の風は、あの日と同じく冷たかった。
一歩踏み出すと、さく、と足元で雪が鳴る。
「ランゼ」
やはり兄はいない。
そんなことは当然初めてで、全く不安がないと言えば嘘になる。だが一人でも平気だと、
「――っ」
ずき、と頭に鈍い痛みが走る。
これ以上、考えてはいけない。脳がそう警鐘を鳴らしていた。
「ランゼ?」
一度は無視した呼びかけに、舌打ちしながら顔を上げる。
「……何だよ」
少しはわかってきたかもしれないと思っていたこの女のことは、もうすっかりわからなくなってしまった。いや、わかりたくないという方が正しいか。
ランゼはフクズクを放ちながらシオの次の言葉を待ったが、彼女は押し黙ったまましばらく考え込んでいた。
「忘れるなよ。……私がいる」
シオはやがてそう言ったが、その表情は苦しそうに見えた。
穏やかな響きの言葉は、何故か無性にランゼを苛立たせた。
「……だから、何だよ。
震える声でそう言い放って、話は終わりだとばかりに顔を背ける。
自分が、みっともない八つ当たりをしていることくらいわかっていた。後ろめたさでどうにかなってしまいそうだ。
最初に聞こえてきたのは、低い唸り声だった。
耳にした途端、心拍が少し早くなるのを感じる。
「いる、な」
小さく呟いたシオが隣にいるのをちらりと確認して、ツキヨに『速度を上げろ』の合図を出す。
彼女は何も言わなかった。ランゼがやりたいようにやらせてくれる、ということか。
岩壁に挟まれた狭い道を抜けた瞬間、ぱっと視界が開ける。
「――見つけた」
その姿は、記憶の中のそれよりもずっと小さかった。しかしその圧倒的な存在感はあのときと変わらない。
ざわりと身をもたげた何かを、心の奥に無理矢理押し込む。
速度を落とさずに駆けるツキヨの背を蹴って、空中に飛び上がった。
弓を展開しビンを装填するまでを一拍で済ませる。振り向いたその顔に、至近距離から挨拶代わりの一射。
ランゼが着地した瞬間、ゴシャハギの黄色く光る眼が彼を見据える。
そして、鬼は咆えた。
矢斬りで防ぐような暇すらなかった。普段よりも身体が強張っているのを感じる。
「平気か」
「黙れ」
隣で太刀を構える女に唸るように返答して、改めてそいつを見上げた。
牙獣種にしては大きな体躯、発達した前肢の爪。
しかし、それだけだ。それは得体の知れない化け物などではなく、大型モンスターだった。
「――来るぞ」
シオがそう言った途端、雪鬼獣は前脚を大きく振り上げた。
後方に退いて薙ぎ払いを回避する。
一太刀返したシオが正面を空けたのに合わせ、再びその頭に矢を叩き込んだ。
大きく両手を広げる構えに、ステップでは間に合わないと矢を戻し雪上を転がるように回避。
立ち上がって、いつもの数倍と錯覚するほどに早鐘を打つ心臓を深く息を吸い落ち着ける。
問題ない、きちんと戦えている。大丈夫だ。
突進を外した雪鬼獣はぐるんとシオに向き直り、拳を振り上げた。
彼女は一撃目を太刀で流し、続く二撃目を前に出ながら回避した。獣の懐に潜り込み、水平に斬り払う。
鮮血が雪に飛んだ。
背後に抜けていったシオを追おうとするゴシャハギに、牽制の射撃を。
雪鬼獣は煩わしそうにこちらを向いたが、既にその身体には多くの傷が刻まれていた。
飛び掛かるような攻撃を横っ飛びに回避する。振り向くと、前肢を地面に突いて突進の勢いを殺したゴシャハギがこちらを睨みつけていた。
静かに一呼吸した雪鬼獣は、ゆらりと立ち上がる。威嚇するような唸り声と共に、その全身が赤く染まった。
二人から距離を取って、息を吸い込む動作。ブレスが来る。
ランゼが大きく横に回り込むように距離を取ると、極低温の液体がすぐ横を掠めた。
なびいた髪が巻き込まれて、ぱき、と凍り付く。
横薙ぎのブレスを疾翔けで空中に回避し、ゴシャハギの背後に着地。
弓を構え直しながら振り向いた、その瞬間。
自分の喉がひゅっと鳴ったのがわかった。
二振りの氷刃を提げるその姿が、あのときと重なる。
逃げろと叫ぶ声が、大丈夫だと無理をする顔が、噎せ返るような血の臭いが、自分の隣で失われていく温度が、
「――おれ、は」
空白。
横から割り入る影、乱暴に突き飛ばされる身体。
後退ることすらできずにふらりと倒れ込む。
がきん、と硬質な音。
折れた刀身と血飛沫が、雪上を舞った。