【完結】水月に手を伸ばす   作:どら水天

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27 零れ落ちるは鮮やかな

 頬に飛んだ血は、自分の温度ではなかった。

 

 では、誰の?

 そんなことは少し()()()に視線をやれば明らかなのだが、頭が理解を拒んでいた。

 

 くい、と何かがベストの裾を引っ張った。

 何も、考えられない。身体が動かない。

 

 氷刃を携えた鬼はランゼには目もくれなかった。右手の得物を引きずりながら、ゆっくり、ゆっくりと歩いて行く。

 

 先ほどよりも強く裾を引かれた。視線を落とすと、一頭のガルクがこちらを見上げていた。

 目が合ったツキヨは、一声咆える。しっかりしなさい、と言うように。

 

 その瞬間、急に世界が再び動き出した。

 弾かれたようにそちらを向く。ちょうどゴシャハギが、彼女の目の前でぴたりと足を止めたところだった。

 分厚い氷の刃が重そうに持ち上げられる。

 

「――っ!」

 

 全速で雪面を蹴り、鉄蟲糸を伸ばした。

 間に合え、届け。

 

 だらりと力の抜けた身体を抱え上げ、再び翔蟲を飛ばす。

 振り下ろされる刃を、姿勢を低くして無理矢理すり抜けた。

 

「ぐっ、う――」

 

 避けきれなかった刃が背を切り裂いた。だが、そんなことを気にしてはいられない。

 後ろは振り返らなかった。見てしまえば、再び過去の影に囚われてしまう気がした。

 

 今はただ、離脱することを考えなければ。

 叩きつけるように閃光玉を投げて、全力でその場を後にした。

 

 

 

「はーっ、はぁー……っ」

 

 撒いた、だろうか。

 耳を澄ますもあの唸り声は聞こえず、辺りは不気味なほどの静寂に包まれていた。

 

 そうなると意識が向くのは抱えた彼女の重さ。流した血の分だけ軽いはずのその身体が、物理的にも精神的にもひたすらに重たかった。

 一刻も早く帰還しなければならないのは確かだが、それよりもまず先に出来る限りの処置はここでしておくべきだ。

 

 彼女の身体をそっと下ろすと、その下の雪があっという間に真っ赤に染まった。

 胸下辺りから斜め下に向かって、斬るというよりは叩き折るように。割れた防具の隙間から、とめどなく血が溢れ出している。

 

 目を背けたくなるほど、酷い有様だった。

 

 駄目だ、逃げるな。――俺のせいだろうが。

 

 震える手で彼女のポーチから回復薬のビンを取り出して、浸すように包帯に染み込ませる。

 既に意味を成さない防具を脱がせると、流れる血の量はさらに増した。

 

 冷たい手に心臓を鷲掴みにされるような感覚を覚えながら、淡々と応急処置を進める。ほとんど何も考えられないのにきちんと手が動いてくれるのは、誰の教えのおかげか。

 

 そのとき不意に、シオが僅かに身じろぎした。目蓋が薄らと持ち上げられる。

 

「……ランゼ?」

 

「――っ、シオ……!」

 

「良かった。無事、だな……」

 

 血の気の引いた顔で微笑む彼女に、ぎゅっと奥歯を噛み締める。

 こんなときまで、他人の心配か。

 

「どう、して」

 

「……さあ、何故――だろう、な」

 

 ランゼの問いかけに、シオは緩慢にそう答えた。

 ゆるゆると持ち上げられた手が、ランゼの頬に添えられる。彼女の指先は、信じられないほど冷たかった。

 

「そんな、顔を……するな」

 

 自分が酷い顔をしていることなんて、とっくにわかっていた。けれどそんなことはどうだっていい。

 どうだっていい、はずなのに。

 

「大丈夫。大丈夫、だから」

 

「何が――っ」

 

 ランゼが反論を終える前に、力を失った手がぱたりと落ちる。

 

「シオ!? シオ……!」

 

 縋るような少年の叫びに、答える声はもうなかった。

 

 

 

 シオのガルク――レイに彼女を預け、自分はツキヨの背に跨る。

 行けと合図を出すまでもなく、二頭は真っ直ぐにベースキャンプを目指して駆け出した。

 

 よく見ると、レイは傷だらけだった。

 通常ハンターよりも狙われづらいガルクには考えられないことだ。ランゼが呆けている間、彼が戦っていたことの証左だろう。

 主想いで、しっかりしたガルクだ。それに引き換え、自分は。

 

 気を抜くと、自責と後悔で潰れそうになる。今この瞬間自分に出来ることが何もないのが、それに拍車を掛けていた。

 しっかりしろ。

 あのときとは違う。置いて行ったりしない。里まで連れ帰れば、きちんと医者に診せれば、きっと。

 

 大丈夫、大丈夫なはずだ。彼女もそう言った。

 ――本当に?

 思考の渦に沈むうち、どうやら目的地までたどり着いていたらしい。

 

 力が抜けそうになる身体に鞭打って、レイの背から再びシオを担ぎ上げる。

 ベースキャンプ入口の布を乱暴にめくると、慌てたような声がランゼを出迎えた。

 

「――おい、大丈夫か!?」

 

 居合わせた渡し守は、ランゼが無言で首を振っただけで状況を把握したらしい。傍らのアイルーに迅速に指示を飛ばした。

 

「サギリ、包帯と薬あるだけ持ってこい!」

 

「にゃ、ニャー!」

 

 再度こちらに向き直った彼は、宥めるように落ち着いた口調で言った。

 

「そこに下ろしてくれ。ゆっくり、ゆっくりだ」

 

 ランゼが従うのを確認しつつアイルーが両手いっぱいに抱えたものを受け取った彼は、続けて告げる。

 

「サギリ、里に(ふみ)出して。ゼンチ先生に、重傷者って」

 

「ニャ!」

 

 彼は、ランゼには何も聞かなかった。

 自分のせいだと、言い出すこともできなかった。

 てきぱきと動く渡し守を呆然と見つめていると、不意に顔を上げた彼と目が合った。

 

「ランゼ、悪いけどお前とガルクたちの方は自分でできるか?」

 

 言葉と同時に投げて寄越された包帯を受け止めた。一瞬何のことかわからずに混乱するが、そうこうしているうちに思い出したように背中の傷が痛み始める。

 自分でさえ忘れていたのに、しっかり気付かれていたらしい。

 

 それどころではないという気持ちが強くて、ランゼはしばらく手の中の包帯を見つめたまま呆けていた。が、やがて自分はもう何もできないということに思い至る。

 振り返ると、後ろには二頭のガルクが大人しく控えていた。

 

 おそるおそるレイを呼ぶと、鴇色のガルクは怪我をしたところを僅かに庇いながらこちらに歩み寄ってきた。

 

「……悪い」

 

 手当てをしながら呟くように言うと、レイは低い唸りで応じた。

 何故か、その態度に安堵してしまう自分がいる。

 本当は誰かに責めてほしかったんだと気付いた。今も、あのときも。

 

「――とりあえず今出来ることは全部した」

 

 渡し守の男の声に、はっと我に返る。

 

「帰るぞランゼ。……きっと、大丈夫だ」

 

 言い聞かせるような声に、こくりと頷いた。頷くことしかできなかった。

 

 

 疲れているはずなのに、目が冴えて仕方ない。

 休めと言われたが、そんなことできるはずもなかった。

 

 ここは――医者の診療所か。

 

「……くそ」

 

 壁を背に座り込んだまま、何かを振り払うように首を振った。

 ベースキャンプに着いたところまではおぼろげにだが覚えている。が、船に乗ってからのことが判然としない。

 悪い癖だ。何か衝撃を受けることがあると、前後の記憶や意識が曖昧になってしまう。

 

 シオは? 医者は?

 隣に目を向けるとそこには二頭のガルクがいたが、彼らに答える術はない。

 そのとき、がらりと扉が開く音と、同時に響く声。

 

「ニャ~、全く辛気臭い面ニャ」

 

 弾かれたように顔を上げ、出てきたアイルーに噛み付かんばかりに迫る。

 

「シオは! どうなった!? 無事なのか、助かるのか!?」

 

 ランゼに胸倉を掴まれて、医者は目を白黒させた。

 

「頼む。頼むから、助けてくれよ……なぁ、」

 

「手は尽くした。あとはシオの頑張り次第、ニャ」

 

 絞り出すようなランゼの声に、アイルーはまっすぐこちらを向いたままそう答えた。

 

「…………」

 

 手から力が抜ける。すとんと着地した医者は、深々とため息を吐いた。

 

「お前さんまで倒れたらかなわんニャ。……ほれ」

 

 一度後ろに引っ込んで、戻ってきた彼の手にあったのはゆらゆらと湯気を上げる湯呑。

 押し付けるように渡されたそれを拒否するような気力もなくて、大人しく口を付けた。

 

 中身は白湯ではなく薬湯らしいが、どうせ味などさして変わらない。

 飲み干した後の湯呑をアイルーに返すと、彼は受け取った湯呑を持ったままじっとこちらを見つめていた。

 

「……んだよ。まだ何か」

 

「いんや。そろそろかニャ、と」

 

 要領を得ない言葉に「あ?」と聞き返そうとして、さっきまであれほど冴えていたはずの頭がぼんやりしてきたことに気が付く。

 身体全体にまとわりつくような重さに耐えきれずに倒れ込んだ。いつの間にか隣にあった柔らかい感触が、ぼす、と身体を受け止める。

 

 ――これは。一服盛られた、な。

 

「こうでもしないと寝ないじゃろ。全く、いつまで経っても世話の焼ける奴ニャ」

 

 

 

 

 

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