【完結】水月に手を伸ばす   作:どら水天

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29 水面の月、

『あそこで、終わってほしくはなかったんだ』

 

 彼女はそう言った。

 自分なんかいつ終わっても構わないと、そう思っていたはずなのに、その言葉がずっと心に残っている。

 最近、自分のことがわからない。

 行く先が何処かもわからないまま、ただ進まなければならないという焦燥ばかりが募る。

 以前はこんな風に悩むことなどなかった。

 過去の傷に浸って、心地良く澱んだ苦しみに身を任せていられた。何も言わずに寄り添っていてくれる人もいた。

 それが、今は。

 

「ランゼ、いるか?」

 

 聞き慣れた声で、深みに沈んでいた思考が浮上する。

 少しやりづらそうにしながら左手で扉を開けて入ってきたのは、やはりシオだった。

 突然彼女が訪ねてくることにもすっかり慣れてしまったな、とランゼは小さく嘆息する。

 彼女は未だ右腕を吊っていたが、それ以外は至って平常そうだった。

 強いて言えば。片手では結べないのだろう、いつも高い位置でひとつに結っている髪を下ろしているのが印象的だった。

 

「……もう良いのかよ、出歩いて」

 

「多少は身体を動かしていないと落ち着かないんだ」

 

 そう言ってシオは肩をすくめた。

 人にはちょっとした怪我でも大人しくしていろと言う癖に、自身のこととなるとそれはまた別らしい。

 呆れたランゼが目を細めると、シオは眉を寄せた。

 

「大体お前の方こそここのところ一歩も外に出ていないと聞いたぞ。……どちらが病人なのかわからないな」

 

 今度は誰が彼女に余計なことを吹き込んだのやら。内心苦々しく思うも、この里の人間なら誰だってやりかねないし誰だったところで変わりはしない。

 実際何も間違っていないのだから、それに文句を言えるような筋合いもなかった。

 

 あの後、数日してシオは本人の希望と医者の判断により自宅に帰ることになり、それと同時にランゼも追い出されるようにして自宅に戻った。

 その後は、ほぼ外に出ていない。

 シオがちゃんと意識を取り戻したこともあって、精神状態も暮らし振りも狩猟前よりはいくらかマシな自覚はある。

 

 だが、また自分のせいで自分ではない誰かが傷ついたのは確かで、何より問題の根本が解決していない。

 ――結局、兄とは未だにきちんと話ができていないのだから。

 再び思考の海に沈んでいくランゼに、シオは仕方がないとでも言いたげにため息を吐いた。

 

「私はそろそろ行くが……あまりハクさんに迷惑を掛けるなよ」

 

 こんなにすぐ帰るなんて珍しい。ランゼのそんな考えも、シオには見透かされてしまったらしい。

 

「これからヒオウの見送りに行ってくるんだ」

 

 がらりと戸を開けながら、彼女は背中越しにそう言った。

 へえ、と生返事。

 そういえばそんなこともあったな、とぼんやり考える。

 では、自分は“それ”を控えた彼女に太刀を回収しに行かせたのか。

 そう思うと何故だか無性に馬鹿らしくて、ランゼは口の端から乾いた笑いを零した。

 

 

 すっかり夜も更けた頃、静かなのを確認してむくりと身体を起こす。

 またランゼは床で寝たらしい。本当に、世話の焼ける弟だ。

 

 ひとつ大きく伸びをして、僕は立ち上がった。

 なんとなく、ただ習慣で昼間ランゼが散らかしたであろう部屋の中を軽く片付ける。

 こうするのは“あれ”以来初めてではないから、彼もきっと気付いていると思う。

 

 伝えようと思えば手段はいくらでもあるだろうに、それでも何も言ってこないのは、きっとランゼもどうしたらいいか決めかねているからだろう。

 それは僕も同じだった。

 

 いや、どうすべきなのかはわかっている。わかっていたのに、ずっと前から逃げ続けてきた。

 結局その行いは全部が罪悪感になって自分に返ってきて、それで焦って行動を起こした結果がこの有様だった。何も悪くないどころか、僕の話を真摯に聞いてくれたシオのことを最悪の形で巻き込んだ。

 

 一から十まで、僕のせいだ。

 その事実はあの日からずっと僕を苛んでいる。この五年間経験してきた何よりも暴力的に、そして脅迫的に。

 

 どうすべきなのかは、わかっている。

 僕のことを、僕の真実(ほんとう)を、僕の想いを、伝えなくちゃいけない。

 けれどそれには、僕の方にまだ少しだけ勇気が足りなくて。

 いつも彼女に頼ってしまう自分が情けないけれど、()()前に僕はシオと話がしたいと思った。

 

 思い立ってからは早かった。

 裸足に下駄を突っ掛けて、同居人たち――ハクと二匹のガルクを起こさないように静かに戸を開ける。

 元通り扉を閉めたところで、はたと気が付いた。

 僕、シオの家がどこだか知らない。

 いや、頑張れば見つけられないこともないだろうけど、家がわかればいいという問題でもない。

 そもそもこんな夜更けに尋ねて来られても迷惑だろうし、日を改めて迷惑にならない時間帯――は大体ランゼが起きてるだろうし。

 自分の考えの浅さを嘆きつつ途方に暮れていたとき、背後から聞こえたその声は、

 

「……ナギト?」

 

 

 

 振り返ると、そこにいたのはまさしく僕が話したいと思っていた彼女だった。

 

「シオ……? どうして、こんな時間に」

 

 気持ちが強すぎて幻覚でも見ているんだろうか。

 恐る恐る呼びかけると、彼女は肩をすくめて言った。

 

「なんとなく胸騒ぎがして眠れなかったんだ。外の空気でも吸おうかと」

 

 何気なく「お前は?」と振られて、僕は言葉に詰まった。

 朧げに考えていた言葉は全部どこかへ飛んで行ってしまって、それでも何か言わなくてはと衝動的に言葉を紡ぐ。

 

「その……ちょうど! ――シオと、話したいと思ってたんだ」

 

 彼女は僕の言葉に、不思議そうに目を丸くした。

 が、すぐに優しげに微笑んで言う。

 

「なら、私はお前に呼ばれたのかもしれないな」

 

 僕が呆気に取られているうちに、シオは続けた。

 

「私で良ければ聞くよ、どこで話す?」

 

 あまりにもすんなりと話が進むことに驚きながら、僕は思わず口走っていた。

 

「……そうだな。月が、見えるところがいい」

 

 僕の抽象的な注文に文句も言わず頷いた彼女に連れられてやってきたのは、オトモ広場だった。

 いつぞやランゼが悪夢を見ていてシオに起こされた、あの大樹の裏に回り込む。

 

「本当はもっと高いところが良いと思ったんだが……生憎この腕では、な」

 

 そう言って肩をすくめたシオは、ちょうど真正面に輝く月を見上げて言った。

 

「……綺麗だな。今日は、満月だったか」

 

 呟くような彼女の言葉に、そういえばそうだったな、と思う。

 

「それで、話というのは?」

 

 シオは直接的にそう切り込んだ。

 ごくり、と喉を鳴らす。

 

「これから、可笑しな……話を、するけど。シオは――笑わないで、聞いてくれるよね?」

 

 問いかけた僕の声は情けなく震えていた。

 シオは何も言わなかったが、赤い瞳はじっと真剣に僕を見つめていた。

 

 これからする告白は彼女には一切関係のないことのはずなのに、心臓がどうしようもなく早鐘を打っている。

 怖い。怖くて仕方がない。けれど、これ以上抱えていたらきっと僕は潰れてしまう。

 

「僕は――嘘を、吐いてたんだ」

 

 

「僕は……ぼくは、――――――――」

 

 

 それを口にした途端、どっと嫌な汗が吹き出した。

 恐る恐るシオの様子を伺う。その表情には懐疑も嫌悪もなくて、僕はひとまずほっと胸を撫で下ろした。

 沈黙。

 やがて彼女は、困ったような声で言った。

 

「それは、私ではなくて――」

 

 やっと口を開いた彼女の一言目に、ぐっと身体が強張る。「ランゼに、」と言いかけたシオの言葉を、僕は遮るようにして言った。

 

「わかってる」

 

 ぎゅっと唇を噛む。

 

「……わかってるんだ」

 

 こちらを見つめるシオは、困惑と悲しみと切なさをぐちゃぐちゃにかき混ぜたような表情をしていた。

 自分でこんな話をしておいて、今さら申し訳なさが込み上げる。

 こんな話を聞かされても、シオはどうしようもない。

 だが彼女はすぐにいつもの凛とした顔で言った。

 

「なら、ランゼにもきちんと話すんだな?」

 

 問いかけというより確認のようなその口調に、「……近いうちに」と曖昧な返答をする。

 「そうか」と頷いた彼女は、少し迷うような素振りを見せてから言った。

 

「なぁ、聞いているんだろう」

 

 ま、さか。

 

「――ランゼ」

 

 そんな、馬鹿な。最初から居たっていうのか?

 言葉も出ない僕を、彼は後ろからそっと押しのけた。

 

「……手前(てめぇ)、どういう目してんだよ」

 

「いいや、今回はただの勘だ」

 

 聞かれた? 今の話を全部?

 

「ぁ……ランゼ、僕は、ぼくは……っ」

 

「大丈夫だ、兄さん。大丈夫、だから」

 

 零れた声は言い訳にもならなかった。宥めるようなランゼの声も、少しだけ揺れていた。

 

「はぁ……勘弁してくれよ。黙ってりゃもう少し――考える時間が、できると思ったのに」

 

「お前は、わかっていたんじゃないのか?」

 

 シオの静かな声が、やけによく通る。

 

「そう、だな。きっと最初から、全部わかってたんだ」

 

 その言葉に、千々に乱れていた心がすっと凪いだのがわかった。

 

「俺はただ信じたくなくて、ずっと目を背けてただけなんだろう」

 

 納得したようなその響きが、心の奥の深いところに染み込むように収まる。

 

「でも――今こうしていられるのは、俺が押し付けたものを全部兄さんが代わりに背負ってくれたおかげで」

 

 ランゼはそこで言葉を切って、一つ深呼吸する。

 

「だから、兄さん」

 

「……っ」

 

 その呼びかけに、僕は満足に返事もできなかった。

 それでもランゼは、全部わかっているとでも言いたそうな声で言葉を紡いだ。

 

「ごめん。感謝してる。……でも、俺からはそれだけだ。責めることも咎めることもない」

 

「そう、か。うん、そっか」

 

 怖いという気持ちは、いつの間にかなくなっていた。

 

「ランゼ。……ありがとう」

 

「いや。礼を言わなきゃいけないのは、本当に俺の方なんだ。兄さんが支えてくれなかったら、きっと受け止められる日は来なかった」

 

 

「――ナギトは、もういないんだって」

 

 

 

 

 

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