いつもの鴇色のガルクに乗ってランゼの少し先を行っていたシオは、大門跡を見下ろす崖上で鞍を降りて立ち止まった。
「あれが標的だな」
女は崖上から“それ”を見下ろす。
少し遅れて追いついたランゼも、相棒――今日はハヤテではなくツキヨである――の背を降りて彼女の視線の先に目を向けた。
“それ”は確かに青熊獣のかたちをしていたが、ランゼには何か別のものに見えた。
全体的に黒く変色した身体、大きく発達した前肢、一層ぎらぎらと光る赤い瞳。
落ち着かない様子で辺りを警戒しているが、普段ならこの辺りにいるはずの狸獣などは影すらもない。激しく降っている雨のおかげか、まだ二人(と二匹)には気づいていない様子だが。
「こっからどうすんだよ」
雨音にかき消されないように、ランゼが一歩シオに寄って声を掛けると、彼女は端的に答えた。
「観察する」
「……正気か?」
思わず聞き返す。この雨の中、じっと動かず、ただ見るだけの時間を作るということか。
「あぁ。雨への対策も防寒も十分できているだろう、何か問題でも?」
確かに彼女の言う通り、二人は普段の装備の上に雨避けのポンチョを着込んでいるし、集会所で団子と一緒に提供される茶には目的地に応じて気候に対応できるような成分が含まれている……らしい。小難しい理屈には興味がないので、ランゼはよく知らない。
が、“できる”と“する”は全く別の問題である。
いくらしっかり装備を整えたってその隙間から雨粒は浸入してくるし、寒さを感じなくなるわけでもない。
そも、ランゼは長時間じっとしていることが苦手だ。晴天の狩猟でも、事前に対象を確認しようなんて発想に至ったことはなかった。
依然言葉を失ったままのランゼに、女はにやりと笑って言った。
「いいから騙されたと思って付き合え。思ったより良いものかもしれないぞ?」
「……
結局「これも狩猟の幅を広げる経験になるだろう」などと丸め込まれて、ランゼは渋々シオの隣に収まった。
詭弁ではと思わないでもないが、変に反発してもまたやり込められてしまうなら、そんなことはするだけ無駄だ。
それに元々『彼女と狩猟をすれば経験になるのでは』と自分を納得させたのはランゼである。
だからこれは断じて敗北などではない。一時的な妥協に過ぎない。
と、言い聞かせたところで、退屈も苛々も雨も寒さもランゼを逃がしてはくれない。
肝心のアオアシラはというと、相変わらず。よくよく見ると身体中傷だらけで、並外れた凶暴性はそこから来るものだろうか。
とはいえ目立った動きはなく、当然役に立つような情報も得られない。
小型モンスターの一匹もいないこの有様では当然である。
「良いものでもなんでもねぇじゃねぇかよ」
軽く頭を振って水滴を飛ばしながら、ランゼはシオに文句を言った。
「そうだな、まぁこんなところだろうとは思っていた」
「あ!?
思わずいつぞやのようにその胸倉を掴みそうになって、自制して怒鳴るだけに留める。
額に青筋を立てながら行き場を失った拳を震わせるランゼを見て、女は苦笑した。
「落ち着け、人の話は最後まで聞くものだ」
彼女は崖の下で依然落ち着きなく周囲を見回すその獣に向き直って、言葉を続ける。
「あのアオアシラ、発見したハンターが応戦したというのも多少はあるだろうが、それでは説明が付かないくらいに傷が多く弱っているようだ。ここまでは良いな?」
「……ん」
彼女の意図が不明瞭なことに釈然としない気持ちを抱きながらも、肯定を返す。
「だから、その凶暴性も踏まえて考えると、出来れば短期決戦で決着をつけたいところだな」
続く言葉に、ランゼは曖昧に頷いた。
わかるような、わからないような。
女が短期決戦を望む理由も、その理屈も理解した。だが、狩りとなれば常に全力で臨むランゼには、『短期決戦で』と言われても普段と何を変えれば良いのかがよくわからない。
「ここまでではそれがわかれば上出来だ。つまるところ、本番はこれからというわけだな」
それだけ言って、シオはどこからか取り出した何かを崖下に放った。
ランゼが目で追っていると、“それ”は暴風雨の中で羽をばたつかせながら落ちていき、青熊獣の目の前に着地して、
「ピエエエエエエエエエエエエエエ――‼」
けたたましい声で、鳴いた。
子泣キジ。存在こそ知ってはいたものの、実物を目にしたのはランゼは初めてだ。
女が子泣キジを取り出した時点で何をするのかは察しがついていたものの、想像以上の音量に思わず飛び上がりかけた。
「驚いている暇はないぞ。あちらに泥翁竜がいたから、すぐにでも鳴き声につられてやって来るだろう」
『縄張り争いの相手がいた方が攻撃手段がわかりやすいからね』
ナギトが納得したように――多分ランゼへの説明も兼ねている――呟いた。
数秒もしないうちに、シオの言った通り長い身体をくねらせながらオロミドロが姿を現す。
泥翁竜は、その長い尻尾と強力な溶解液を利用して泥を巧みに扱う竜だ。大社跡に出現するモンスターの中ではかなり上位の力を持つモンスターで、縄張り争いにおいても他のモンスターを圧倒する様子がよく見られる。
『ここは水場じゃないけど、今日は雨のせいで足元がぬかるんでる。本来の力関係なら言うまでもなくオロミドロが有利だけど、どうなるかな』
互いに気が付いた二匹は、しばし睨み合う。張り詰めた空気が崖上まで伝わってくるようだ。
しかしそんな緊張も束の間――先に動いたのは、アオアシラだった。
「――グガオオオオオオオオンッ‼」
空気がびりびりと震えているのが肌に感じられるほどの咆哮。
二人がいる場所はアオアシラからはかなり離れているはずなのに、思わず耳を塞ぎたくなる。ただ音が大きいというだけでなく、圧倒的な威圧感がそこにはあった。
対するオロミドロは気圧されたように一瞬動きを止めたが、すぐに攻撃に転じた。溶解液で泥を生成し、尻尾の一振りで起こした波がアオアシラに押し寄せる。
あの攻撃は範囲が広く、翔蟲が使えるハンターはまだしもモンスターが回避するのは難しい。なす術もなく被弾するかと思われた青熊獣は、しかし次の瞬間、大きく
泥の波を飛び越えると同時に、着地の衝撃で地面が揺れる。衝撃で怯んだ泥翁竜の横っ面に、異形のアオアシラの発達した前肢による強烈なアッパーが炸裂した。
上体をぐらりと揺らしたオロミドロだが、負けじと尻尾を振り回して応戦する。しかし、その大きな身体が災いして懐に入られるとやはり分が悪い。
なんとか叩きつけた一撃にも、青熊獣は全く怯まなかった。
次の瞬間、身体ごと振り回すような引っ掻きがオロミドロの首を捉える。長い髭が片方、ぱっと散るように落ちた。
泥翁竜は諦めたかのように動きを止めてしまった。縄張り争いとしては、これで決着らしい。
「潮時だな」
呟くようにそう言って、シオはフードに付いた雨を払った。
「観察は終わりかよ」
「あぁ、もう十分だろう。お前もあのアオアシラの動きはおおよそは把握できたか?」
太刀の握りを確かめる彼女に、無言で頷きを返す。
やはりあの前肢による広範囲かつ強力な攻撃には、十分に注意する必要があるだろう。動作の速さもおおよそわかった。
「下りたら、すぐにオロミドロを操竜する。危ないから離れておけ」
「ちッ、指図すんじゃねぇ」
何が面白いのか、舌打ちするランゼにふ、と笑みを零して、女は崖を飛び降りた。その手から鉄蟲糸が伸びて、泥翁竜の四肢に絡みつく。
「――私に従え‼」
抜刀しながら、ランゼはアオアシラを挟んで彼女とは反対側に降り立った。
彼は普段操竜などしないし、目にするのすら何年も前に里の闘技場で教わって以来だ。が、おそらくこの位置取りでしっかり注意を払えば、操竜するシオと同時に青熊獣を攻撃することができるだろう。遠距離攻撃ができるガンナーの強みである。
『相手が“何をしたいのか”』、か。
以前人魚竜を狩猟した際、彼女に言われたことを思い出す。
別に納得したなどというわけではないが、できないと思われるのも癪だ。
「仕方ねぇ、付き合ってやるよ」
ぼそりと漏らした一言は、おそらくシオには聞こえていないのだが。
『まぁ……いいんじゃないかな。ランゼがそれでいいなら』
兄の言葉を無視したランゼは、展開した弓に黙ってビンを装填した。
シオ操るオロミドロは、ランゼから距離を取ってその鉤爪を振るう。
鉄蟲糸を操る彼女の手元や視線を見ると、ランゼの邪魔をしないよう気を配っているのがなんとなくわかる。
初めはそれが嫌だった。他の人間に対してもそうだが、言外に『だからお前も気を配れ』と言われているような気がしてしまうからだ。
けれど、案外そうでもないのかもしれない。少なくともこの女は、ずけずけと物を言う割にはランゼのことを怒ったり責めたりしない。落胆を孕んだ目で見ない。
では代わりにそこにある感情が何なのか、ランゼはまだ知らない。
――だが。柄にもなく、それでもいいと思っている自分がいる。
ランゼは鉄蟲糸を伸ばして、ゆるりと右手にまとわせた。
鉄蟲糸技・剛力の弓がけ。弓を引く力を強化する技だ。これをランゼに教示した人間のことは気に食わないが、使える技術であることは間違いない。
青熊獣はというと、シオを乗せた泥翁竜にすっかり気を取られている。しかし、ランゼに背を向けるこの角度では弓で有効打を入れるのは難しい。
どこを狙ったものか、と逡巡した瞬間、泥翁竜が動いた。
溶解液と雨でぬかるんだ地面を、滑るようにしてアオアシラの右手側に回り込む。アオアシラは当然そちらに向き直り、その横顔がランゼの前に晒された。
なるほど、これなら。
一般的なアオアシラは、弓であれば特に人間で言う胸や首の辺りの皮膚が薄く矢が通りやすい。が――あの女の言うことを参考にするのなら、このタイミングでは効率良く獲物を弱らせるよりも、これからの戦いが楽になるように動いた方が良いのだろう。
で、あれば。
今狙うべきは、あの発達した前肢だ。泥翁竜との縄張り争いを見る限り、ほとんどの攻撃の起点はあの前脚である。
幸い、シオがその場に留まりながらアオアシラの攻撃をいなしているおかげで、的はさほど動かない。オロミドロがこの場にいるうちは、ランゼの方に注意が向くことはないだろう。
素早く矢を番えて一射。続けて剛射、さらに剛連射。
着弾を確認して、ふと違和感を抱いた。
思ったよりも矢が通りやすい。弓は当然剣士たちの扱う武器と違って手応えが伝わってくることはないが、それでも見ていればわかる。
なるほど。あの前脚は異常に発達しているために高い攻撃性能を持つ反面、装甲はさほど厚くないらしい。それどころか出血の具合から見るに、表層に近い部分にかなり太い血管が通っている可能性がある。
「ランゼ!」
「わかってる‼」
注意を促すシオに怒鳴り返して大きく横へステップ。
次の瞬間、オロミドロの尻尾での殴りつけを正面から受けたアオアシラが大きく吹っ飛んで先ほどまでランゼがいた地点に落ちてきた。
「大技行くぞ! 離れていろ‼」
立ち上がれずもがいている青熊獣を、渦巻くように回転した泥翁竜が起こした大波が襲う。それは当然すぐ横にいたランゼにも押し寄せるが、
「舐めんじゃ――ねぇよ‼」
抜刀したまま、真上に翔蟲を飛ばす。
鉄蟲糸に引かれて大きく飛び上がったランゼは、そのまま空中で狙いを定めて、先ほど矢を叩き込んだ場所に寸分違わず矢を継いだ。反動で浮き上がり、さらに矢の雨を降らせる。
彼が再び地に足を付けた頃には、泥の大波はもう背後へと去っている。
オロミドロから鉄蟲糸を解いたシオは、未だ地面に倒れたままのアオアシラを飛び越えて、ランゼの隣に降り立った。涼やかな音を鳴らして太刀を抜き放つ。
「もう少し、だな。決着をつけようか」
執筆ペースが追いつかなくなってきたので来週はお休みです。
次回更新は12/3(金)20:00予定になります。