ウマ娘 ワールドダービー 称号獲得レギュ『1:11:11』 サイレンススズカチャート 作:ルルマンド
僅かに身体が揺れたのを感じて、サイレンススズカは目覚めた。
寝ぼけ眼でむくりと身体を起こそうとして、弾む何かに押し留められるように身体が戻る。
「起きたか」
「……トレーナーさん」
普段から相当淑やかな声色を更に眠気で滲ませて、サイレンススズカはあくびとも言葉ともつかない音を発した。
もう食べられません……という寝言の方が、まだ彩度が鮮やかだった。そう思わないでもないが、彼としては他に言いたいこともある。
「走り方に文句をつける気はないが、走り終わって倒れるときは倒れると、一言言ってほしいものだな」
「……すみません」
意識だけが、引っ張られた。
気絶したのでもなく、寝たのでもなく、何かに引っ張られた。
東京レース場。あそこに、なにかがあるのか。あるいは、天皇賞秋になにかがあるのか。それとも。
総合的にはそれほど疲れてもいない――――一時的にして完璧なガス欠を果たした身体を少し動かしつつ、サイレンススズカはひとまず謝る。
疲れ切るまで走ったことについては咎められていない。そのことがわかっているからこそ、心配させたことが申し訳なかった。
寝起き特有のふわふわとした感覚、自分の身体が自分のものではないような。
車の床をタンタンタンと足で叩き始めた栗毛の少女の方をちらりと見て、参謀はため息をつ
いた。
「…………いや、これは俺の未熟だな。疲れ切ったから倒れたのだろうし、疲れ切ったから寝たのだろう。第一、あの場でそんなことを言われても俺は聴き取れなかっただろう」
「なるべく大声で言いましょうか」
「忘れてくれ」
ド天然な解決法を提案してくる彼女は、走りきった瞬間に倒れることを宣誓するように叫んでぶっ倒れる自分がどのように見られるかを気にする神経の持ち合わせがないらしい。
「で、どうだった?」
「すごかったです……」
「……まあ、そうだろうな」
恍惚とした声が後ろからして、そりゃあそうでしょうよと肩を竦める。
自分の世界を言語化することをあまり得意にしていないらしい彼女は、いかにもな天才型である。競技者としては傑出している。むしろ研ぎ澄まされ、下手な扱いをすれば即座に折れかねない程に先鋭化された才能を持っている。
(まさかあそこまで肉薄するとは)
エアグルーヴが勝つだろうと思っていた。それも結構あっさりと。
サイレンススズカには才能がある。しかしトゥインクルシリーズは才能だけで勝てるほど甘い世界でもない。
トレセン学園に入学してくるのは津々浦々で天才と呼ばれたウマ娘たちだし、ここは中央である。その天才の中でも更に選びぬかれた天才が集う。
その上澄みの上澄みが、GⅠに参加できるのだ。故に他のウマ娘も、質と量を兼ね備えた才能を備えている。
そんな中に原石を放り込んだのだ。しかも、カットにしくじった原石を。
だから善戦はできても勝てはしないだろうと踏んでいた。勝つのが目的ならばGⅢにでも出す。GⅡでもよかったかもしれない。
だが今回はあくまでも、レースというものが彼女の夢を果たすにつけて如何に役に立つか。そういうものを確認するためのものである。
GⅠに出走できるレベルの高いウマ娘たちと競うことにより、より具体的な目標への一里塚を築ける。
それは彼女の茫漠たる夢――――スピードの向こう側へと行きたい、という――――に届くための一歩になると、自分は思った。だが当人がどう思うかはわからない。
「レースへの参加は、君の夢を後押しする一助になるか?」
「はい」
そう答えて、走っていた経験を噛み締めるように黙り込むサイレンススズカが口を開いたのは、実に3分16秒後のことだった。
「そう言えばトレーナーさんは、変なひとですね」
君には負けるよ。
ルドルフあたりを相手にするときのような皮肉が口をついて出かけて、慌てて飲み込む。
「どこが?」
「レースに勝つためのことを重視しません。走るのも、トレーニングするのも、食事を制限するのも、全部レースに勝つためだと。勝つために最善を尽くすのだと。トレーナーさんは、そういうことを言わないので、へんなひとだな、と」
勝ち、負け。
サイレンススズカとしては別にその概念にこだわることをバカにする気もないし、浅ましいなどと思いもしない。
だが彼女は、不思議だった。みんながみんな、勝ち負けに一喜一憂する姿が。
多く会ってきたウマ娘はどんなに変でも、たとえ占いに傾倒していても、勝ちたいという執念があった。
だが、サイレンススズカにそれはない。勝ちたい、ではなく、速く走りたい。それしかない。
他のウマ娘が手段としているところに、目的がある。それがおかしいことを自分でもわかっていて、それで色々と悩んでいる。
「でも私は、そんなトレーナーさんをとてもありがたいと思っています。勝つとか負けるとかを、うまく理解できないというか……」
「負けて悔しいと思ったことはないのか?」
「負けて悔しいと思ったことは、あります。ですけどそれは……その、負けたことにではなく、自分の走りをできなかったことに対してで――――」
自分の心をうまく言葉にできないサイレンススズカの訥々とした言葉に合わせるように、車の速度を下げる。
まだもう少し、走っておこう。そうした方が、本音を拾えるかもしれない。
トレセン学園前の環状道路の方へと曲がり、東条隼瀬は思ったことを口にした。
「君はどうやら、外圧によって自分が自分でなくなってしまったときに悔しさを感じるようだな」
「……はい。確かに、そうですね」
指示はしない。
求められれば、助ける。
東条隼瀬は、サイレンススズカへの接し方をある種冷淡とも言えるこんな割り切りで行っていた。
この凄まじい割り切りがなされた所以は、サイレンススズカと言うウマ娘が走るという行為に対して向けている情熱の凄まじさに対する敬意である。
道を極めようとする者特有の雰囲気が、彼女にはある。
どうすればいいでしょうか、と言われれば教える。
現に、大逃げという手法はそう問われたから教えた。
そして彼女がこのまま自分のやりたいことをやりたいようにしていたらどうなるかも、どこで躓くかも予測していた、はずだった。
だがその予想を、彼女は遥かに超えて駆けていった。
頼られるなら応えるつもりでいたし、その自信もあった。
(だが案外、一人でなんとかするかもしれんな)
怪我をしそうになったら口を出す。
それ以外は、求められればその時に。
そう思っていたが、あまり出番はないかもしれない。
管理主義こそ至高だと思うが、それはそれとして本人の適性に合わせた指導が行われるべきである。
彼女は、放任でいい。たぶん彼女も、それを望んでいるだろうし。
そんな予想は、再びあっさりとぶっちぎられることになる。
「今日の練習はどうしましょうか、トレーナーさん」
「……走りに行かないのか?」
「え……はい。トレーナーさんなら、もっと速くなれる方法を知っているのではないかと思ったので」
思ったより早かったな、と素直に彼は思った。あるいは、もともとそんなに指導されること自体は嫌いじゃないのか。
となるとやはり、レースの方法に枷を嵌められるのが嫌だったということなのか、とも。
ただ、ここ1ヶ月は彼女のやりたいようにさせていただけの――――妖怪名義貸しおじさんと化していたわけだが、それでも日々練習メニューは作っていた。
――――どういう練習をするのが最適ですか?
そういう質問が飛んできても即座に提示できるようにはしていたのだ、一応。
それが役立つのは彼女が単純に『走る』だけではこれ以上速くなれない、と気づいてからだと思ってもいたが。
「まず、どこを主戦場にしていきたいかを訊きたい」
長距離とか言われたら結構苦労することになるだろうが、距離の壁は努力で破壊できる、はずである。
まだやったことはないが、おそらくできる。きっと。
「短距離はいやです。他は、どれでも」
「短距離は嫌か。理由はあるのか?」
短距離は嫌だとか、ダートは嫌だとか、そういうことを言い出すウマ娘は多い。
日本のトゥインクルシリーズの中心はあくまでも中距離。その亜種としてのマイルと長距離が左右両翼になっていて、短距離とダートは言葉を選ばずに言えば不人気、日陰の存在である。
世界を見渡してみれば、例えばアメリカではダートが主流だし、香港では短距離が主流と言える。ただ日本では、王道は中距離なのだ。
だがそういう俗っぽい理由で、彼女が拒否するとも思えない。
「短距離では乗り切らないというか……なるべく長く、たくさん、速く走っていたいので」
「まあ、そうだろうな。君の走りを見るに、マイルから中距離が適性だ。短距離もいけるかもしれないが、速度が乗り切らないと思う。君は徐々にギアを上げていくタイプだからな」
わかっていたならなんで訊いたんだろうと不思議に思って、サイレンススズカは少しの間頭を悩ませた。
君はここに適性があるからこうすべき、と言ってくるのが、トレーナーではないのか。
(やっぱり、へんなひとなんだわ)
その『へんな感じ』が、自分と噛み合っている。だから走りやすいのだと、そう感じる。
パタパタと尻尾を揺らしながら、サイレンススズカは精緻で難しい話を傾聴した。内容は半分もわからないが心肺機能の向上、つまりスタミナが必要らしい。
その必要性には頷けるし、なによりも実体験がある。
サイレンススズカは珍しく自分の走りというものを見返した。見返して、わかった。終盤の自分の、あまりにもお粗末な速さを。
あれは、完全に疲れている。思い返せば、そんな感覚もあった。そんな気もする。
「ということで、脚に負担がかかりにくいプールで心肺機能を鍛える。それがひとまず、君に必要なことだと思う」
「わかりました。終わったあとに走ってきても構いませんか?」
「構わない。が」
言葉を切った瞬間にひょい、と。何かが投擲された。受け取りやすいように胸のあたりに投げられたそれを利き手でない方の掌で受け止め、しげしげと見る。
万歩計のような小型の機械と、バンド。
「これ、なんですか? 万歩計……?」
細く白い指で万歩計もどきの機械をつまみ、部室の電気に照らして見る。
硬さと冷たさがあるそれは、走るのに邪魔にならないような小ささと軽さをしていた。
「何キロ走ったかを計測する機械だ。万歩計の改良版だな」
「トレセン学園ってすごいんですね。こんなものも用意しているなんて」
「それは俺が作ったものだ。別に用意されているわけではない」
取り敢えず起動して振ってみるも、万歩計のようにカウントされる気配はない。
どういう仕組みなのかわからないが、取り敢えず脚に付けるものらしかった。
取り敢えず、サイレンススズカはその後ひたすらに泳いだ。ひたすらに泳ぎ、練習が終われば走る。
そんな日々が、1ヶ月程続いた。スタミナをつけ、走って実感し、スタミナをつけ、走って実感する。
日々量が変わっていく遠泳をこなし、走る。
(次のレースでは)
次のレースでは、なにか違う景色が見える気がする。
日々速くなっていく自分を実感しながら、サイレンススズカは笑った。
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