どうやら昨夜の土砂降り雨はお天道様の気の迷いのようだった。
一時限目が始まった後の学校施設は、どことなく結界めいたものを張っていと思う。遅れて正門を潜ろうとする者は、そこに正当な理由があろうがなかろうが、胸の中に奇妙な靄を抱えて立ち止まる。
そして今日の四時限目が水泳の授業で、プールへと教室を出たクラスメイト達に紛れ込むこめるという事実は、直接教室に向かうよりも筒地錬次の気分を幾らか軽くしていた。
「珍しいな、お前が遅れてくるなんてよ。―――不良か?ついに筒地さんも不良か?」
「いやいや、佐々木さんほどじゃありませんぜ」
いや、珍しいこともあるもんだ。
その日の朝会に筒地の姿がなかった。佐々木浩一は友人を心配するよりもまず、何よりもまずその事実を珍しがった。担任の話によると学校に連絡も来ていないとの事である。
筒地錬次という奴は、成績は俺よりも少し良い程度だが、しかし、サボりがちな俺と違って学校を休むということはありえない。それこそ、毎日教室に入ると必ず自分より先に筒地は居る。というか、昼食時に小耳に挟んだ女子トークを事実とするならば、誰よりも先に教室に入って呆けたように青空を眺めている何それキモイキャハハー、という奴である。
うん、若干可哀想な奴だ。
まあ、その事実は置いておくとしても本当に珍しい事だった。だから、その日の朝会で黒髪ポニテの美少女転校生が2-Aに来たと言うことよりも、まず最初に筒地錬次が遅刻するかもしれないという現実に驚いた。 あの筒地が、両足骨折した翌日も朝一番に来ていた筒地が。
遅刻したのである。
朝会は進む。
「えー、今日、我がクラスに転校生が来た」
と担任の秋山の声。この時期に珍しいというか高校の転校生なんてものは、創作のなかの存在でついぞ実在するとは思わなかった。女だろうか?女だったら可愛いやつがいいし、男なら面白いやつだといい。
「はい、じゃあ入ってきて。自己紹介よろしく頼む」
ガラガラとドアが引かれる。
おや、と思った。
怯まない。ビビらない。するっと教室に入って来た。
一見すると静かな感じだが、ただの地味な女子とはオーラが違う。まるで見てはいけないものを日常的に見ていて様な。真正面から睨み合いたくない目をしていた。
「
さあ、と頭を下げたとき後ろで束ねた髪が揺れた。
「……UFOの夏だった、」
「って惚れてねえよ。変なまとめ方すんな!」
いやいやいやいや。
頬を緩めながら筒地はにやにやと佐々木の顔を眺めている。家を出て二分で雨は止んで、代わって顔を出した太陽が水気を持っていてってしまったらしい。熱した鉄板に等しいプールサイドのタイルの上で、無数の足がステップを踏む。蝉の鳴き声と夏は、土砂降りの後にやって来た。
「で、件の転校生は今どこにいるんだね、浩一君?」
「ぬう、嫌な笑い方をしよるな。こやつ」
震える佐々木の指先がプールサイドの向かい側を指す。
「ん~~~どれどれ、おほお!いい趣味しとりますのう。佐々木はん」
いい、足首をしていた。北山天が七十五点ならばあれこそ九十三点。現段階最高の足首である。足首から上はまあ、北山天と互角ぐらいだろうか。……どうでもいい。と思う俺カッコいいな!
「足首マニアの俺から見ても点数高いですぜ旦那!」
「いや、違うからね!」
悲鳴のような笑い声のような声で佐々木は否定した。
「そういうのじゃ無いから!ってかしつこい筒地さんこそどうなよって話だから!」
奇妙なダンスを踊りながら向けた言葉がブーメランする。
「俺は足首だけでいいよ」
「……切り裂きジャックかよ。怖いよ!この近くでバラバラ殺人が起きたら犯人は間違いなく筒だよ」
「現場からは足首だけが……」
「そうそう、で捕まった後自宅から保存液に漬けられた足首がどばっと」
「人間?うん、知らないな。俺にとってそれは足首でしかなかった……」
「ヘンリー・リー・ルーカスさんはやめい」
足元は焼けるようだというのに、冷えて来たのだろうか佐々木が鼻水をチュルリと啜った。大気が震える音。遠くの空に黒雲が見える。ちょうどその時、号令がかかった。ようやく生徒たちは水の中へ飛び込んだ。水が温かくて気持ちがいい。
睡眠の四時限目―――世界史、を終えて昼休み。外は再びの雨。空いた左手で目尻を擦りながら弁当を持った佐々木が机のそばにやってきたのは常のこと。
「世界史寝てたん?」
「おう、四分の一くらいな。ノートはちゃんと取っておいたから大丈夫だ。さて、飯食おう」
「うい、少し待ってくれ。あと少しでまとめが終わる」
二年から始まった世界史は今丁度、アッティラが西ゴートを逃走させている辺りだった。がりがりと床を擦りながら、佐々木が隣の席を移動して陣形を完成させる。同時にノートのまとめも終わった。
「さて、あ、」
鞄から弁当を取り出そうとした筒地の手が止まる。
「どうした?」
向かいでは佐々木が弁当箱の蓋を片手に、こっちを眺めていた。
「悪い、弁当忘れた。なんか買ってくるよ」
「外、雨だぜ?」
「コンビニ近いし何とかなるだろ」
小銭が心許なかったが、朝食も遅かったから何とかなるだろう。席を立って早足で廊下に向かう。開けたドアを閉める時、佐々木がいってらっさいと手を振っていた。
生徒会会則第五条、一度校内に入った生徒は原則的に放課後まで出入りを禁ずる。
知らぬな、と筒地は首を振る。それよりも雨が酷い。晴れたと思ったらまた気まぐれにも雲で天を閉ざす。土砂降り一歩手前の激しさでアスファルトを叩く雨の中を歩けば、ずぶ濡れは必至。
「お、筒地。飯買いに行くのか?」
一瞬、四十過ぎのおっさんの声で、筒地の心臓の鼓動が跳ね上がった。振り返ると担任の秋山がにやにやと笑っている。
「あ、先生。弁当忘れたので」
「おう、気を付けろよ。先生の傘、傘置き場にあるから使ってもいいぞ」
ついでにハイライト頼むよと手をひらひら振りながら秋山は去っていった。
「……びびるわ、」
とにかく傘を貸してくれると言うならばありがたい。そう思っていた時期が筒地にもありました。でも、このド派手な花柄の傘というのはいかがなものかと小生は思うのであります秋山軍曹。
コンビニは校門を出て二十メートル先の丁字路の右にポツンと光る。灰色の駐車場に、叩きつけられた雨粒が跳ね返ってまた落ちる。無人の其処はどうにも物悲しい。三階の教室から見れば、このド派手な花柄の秋山傘はさぞかし目立つことに違いない。自動ドアが目前でうろちょろする筒地に反応して開いては閉じる、と見せかけてはかけてはまた開き、誘うような動きは筒地を急かしているようだった。
窓ガラス越しに見ると昼休みはまだ三十五分ほど残っている。昼飯には十分間に合うはずだ。
うっし、うっし。
自動ドアを超えると一気にアニソンが流れ込んできた。軽音部の四人が学園生活を満喫する日常系アニメだったようなそうでないような。有名らしいが興味がないから見ていなかった。
「らーしゃーせー」
立地も合わせて変な時間帯だからだろう。女性の中国人か韓国人のアルバイトが退屈そうに宙を眺めているだけで、店内に客の影はない。
とりあえず筒地の小銭で買えるものはパンか御握り。パンは腑抜けの食うものだと常々考えている筒地がパンを手に取ることは無い。レジに持っていくのは鮭と紀州梅とそれから、小さなペットボトルのお茶を一つ。
「三百四十四エンに、ナります」
差し出された女の右手首には蝶の刺青が彫られていた。青と赤で二重に彩られたそれはマフィアっぽい雰囲気を醸し出している。水商売の人かもしれない。あんまり目を合わせたくないと思ったのはここだけの秘密だ。
「……、」
黙って財布から三百四十五円を渡した。女の匂いが妙に引っ掛かる。そういえば、廊下ですれ違ったあの転校生は寺の匂いがした。
「あノ、お客様……」
生甘いあの独特な香りが、たちの悪い風邪にかかってしまったみたいに鼻の奥をくすぐった。
「あ、はい」
店員の拙い日本語にふと我に返り、ひょっとして代金が不足していたのかと慌てたが、どうもそういうわけではないらしい。
「鼻血、出てます」
え?
店員の指摘に半信半疑のまま、咄嗟に手鼻の下をで拭う。嘘偽りなく本当だった。
「すびばせん」
右手で出血を抑えている間に左手でジャージのポケットを探る。無い。目的のティッシュペーパーを探す間も鼻血は絶え間なく零れ落ちて、右手で作った受け皿からすでに溢れんばかりの様相だ。
鼻血が止まらない。
平和な昼飯の時間だったはずである。
「おい!……筒地さん鼻血出てるって、」
「いきなり出た」
鼻にティッシュを詰め込んだ筒地は簡潔な答えを返してどっかりと筒地は椅子に身を預けた。そのまま机に突っ伏した友人は何か頭が痛いと言う。目の奥の脳味噌が抉られるように声が響くらしい。
「保健室行って来いよ。おまえ顔色悪いぞ」
うう、とかああ、筒地はとか佐々木の言葉に適当に頷く。そしてよたよたとコンビニの袋を探り、中身を取り出さない内に机の上においたビニール袋を叩き落とす。
ああもう、目も当てられない。
飯を食おうと意地汚く足掻く友人にもう一度。
「おいおい大丈夫か?」
二度目の声。ここらへんが引き際ではないかと思ったが、どうやら筒地も同じ考えに至ったと見える。
「なんか気分悪りい。保健室行ってくる」
会話の間にも痛みは増しているようで、呼吸がどんどん浅くなっていた。それやるよと、筒地は空いた左手でコンビニの袋を指さして廊下にノロノロと飛び出した。こんな事は今まで一度もなかった。
「転校生に興奮したとか……?」
そう一人呟いて、佐々木はないなと首を振る。
結局、5時限目の始まる前に、筒地は早退したらしい。秋山から知らせがあった。
ところで、と佐々木は黒板の漸化式を眺めながらシャーペンを回す。筒地の家には両親がいない。三日前に出張中と聞いた。
ならば、誰があいつを連れていったのだろうか?
懲りずに投稿。