七話 Realize
冬の大阪レース場。
肌寒い風が頬を撫で、吐息はそっと白く流れる。
「来たな」
初めてのGIレース。ホープフルステークス。
会場前はひどく賑わっている。
きっとあの会見が原因だろう。
『次のホープフルステークスを見れば一目瞭然。全てが分かるだろう』
一強と呼ばれたビワハヤヒデの一言。それは多くのファンを焚きつけた。
「やあ、タイシン」
ふと、後ろから声がかかった。
「チケット」
「涼子」
振り返った先に居たのは今日のライバル。
「よろしくね!」
自信に満ちた顔でチケットはタイシンを見つめた。
「今回のレースは私たちが勝たせてもらうよ」
相変わらずの余裕そうな笑みを見せる涼子。
「いいや、タイシンが勝つぜ」
「……」
鼻で笑って彼女は目を伏せ、横を通り過ぎる。
「私たちが勝つことが今、確定した」
耳元でそう言い残して彼女はレース場へ姿を消した。
「言ってくれるじゃねぇか」
「観客もアイツも全員ビビらせてやろう」
タイシンは彼女らの背中を睨んで言った。
◆
控室での最終ミーティング。
三回の出走で慣れたのか、彼女から緊張は微塵も感じない。
それよりも、何かを胸の奥で反芻しているようだった。
「タイシン。作戦を伝える」
何も言わずに歩いてきて、俺の目の前に座った。
「今回の作戦も追い込みだ」
「分かってる」
「だが、いつもと違うことが一点ある」
「ウイニングチケット」
「そうだ。ヤツの作戦は差しだろう。だからこそ、仕掛けるタイミングが重要になってくる」
最後のコーナーからの直線。彼女の伸びは決して侮れない。
なにしろトレーナーが強力だ。
「チケットと並走するとき。アイツは力を出すタイミングをわかってた」
「そう。そして、今日もヤツはお前よりも先に仕掛けると予想している」
「どうして?」
「単純に差しの場合、レース展開に引っ張られる。逃げウマ娘がレースの主導権を握る。それ次第で追い込み意外の展開は大きく変わる」
「今日はそういうメンツが多いって訳ね」
頷く。
「チケットはお前よりも先に仕掛けて前へ行く。だが、お前はタイミングを自分で作るんだ。置いていかれたとしても、最後は自分で決めるんだ。いいな」
「うん」
大きく頷いて、作戦会議は幕を下ろした。
◇
眩しい日の光。寒空の下。芝の上で天を仰ぐライバルがいた。
「チケット」
「!」
気づいてこちらを振り向いた。
「やあ、タイシン」
「…………?」
違う。
いつものチケットとは全く違う雰囲気を漂わせている。
元気ハツラツの無邪気な少女。それが普段の姿だったのに、今はとても澄んでいる。
その姿は雪の様。
柄にもなく詩的な表現をしてしまうほど、その姿は空気に溶け込んでいた。
彼女は白い息を吐いて、笑う。
「今日は、勝つよ」
自信に満ちた顔で言い切る。
異質な雰囲気。それでも、今の一言はアタシへの挑戦状。返す言葉は決まっていた。
「勝つのはアタシ。後で吠えずらかかせてやるから!」
くるりと周りチケットに背を向けて、その場を立ち去った。
後ろの観客からのうざい声が聞こえる。
「なあ、あの子。ウイニングチケット。ただならぬオーラ出てないか?」
「なんかこう、風になりそうな……」
「こりゃレースが楽しみだ!」
「あの子勝つんじゃないかな!」
期待の声は全てチケットのもの。
アタシの気持ちも彼らに似ている。
ただならぬオーラ。
そう。
あのトレーナーに似ている。
「絶対負けない」
吐き捨ててゲートへと足を進めた。
◇
観客席はすごい人だ。溢れかえっている。
最前列を確保して、手すりを掴んで喧騒の中、思考する。
ビワハヤヒデ。彼女の影響力はそれほどまでに高いということだ。
ライバルは多い。
タイシン、お前の強さを今日見せつけてやれ……!
「それにしても……」
後ろを振り返る。
顎を上げて最も高い席を見た。
そこには白髪の女性トレーナーが腕を組んで微笑していた。
まるで、全てを知る支配者みたいに。
「その余裕、壊してやるよ」
呟いた瞬間。ファンファーレが流れる。
さあ、出走だ。
◇
一歩、足を踏み入れる。
狭いゲートの中。
深呼吸して、思考をレースだけに集中させる。
奥を見るとチケットも深く息を吐いていた。
「……!」
そして気づく。
瞼を開けたアイツはレースに燃えていた。
負けない……。
アイツを抜き去ってやる。
心に抱いた時、ファンファーレが鳴り響く。
『誰もを魅了し、心を奪う希望の星が誕生する! ホープフルステークス!』
実況がレース場に轟いて、雰囲気が一変する。
次々と人気ウマ娘が紹介され、会場が沸き上がる。
『威風堂々とスタートを待つウマ娘。本日の一番人気はこの子! ウイニングチケット!』
『彼女の鋭い差し。今日この日も爆発するのか!』
そして最後の一言で会場が静寂に包まれる。
『出走準備が整いました』
足を引き、前を見つめる。
駆ける合図を待って、拳を握る。
大丈夫。
アタシは、強くなってる。
チケットが相手だとしても、勝ってやる……!
◆
そして、時が来る。
『スタートです!』
ガコン——。
視界が開け、道ができる。
「はあっ!」
思いっきり足を踏み出して、戦いが始まった。
全員がアタシの前に居る。
『5番。凄い速さで逃げていく! このレース、縦に長くなりそうです』
アイツの言った通りの展開だ。
大逃げするのが一人。それにつられて皆ペースが速くなっている。
右前方をちらりと見る。
チケットもまたレース展開に合わせて走っている。
追い込みはアタシだけ。
『第二コーナーから直線』
『先頭からしんがりまで13馬身。ペースが速い。間違いなく5番の彼女がレースを展開しています』
先頭が遠い。
けど、大丈夫だ。
スタミナも減ってないし、このくらいの差なら無くせる。
今はタイミングを見計らうんだ。
メイクデビューからこの日までの基礎練で身体は進化している。
今、身体は正常に動いている。
アタシの能力に不満も不安も無い。でも、ただ一つ気になることが5馬身前にある。
チケット……全く疲れてない!
◇
「すげぇ……」
思わず声が出た。
大きなモニターに映る彼女らの走り。
予想以上の大逃げをしてペースを乱す先頭。
それに流されず最後方からレースを窺うタイシン。俺の作戦を信じて実行してくれている。
それはこの上なく良い。だが、おかしい。
「チケットの体力は無尽蔵か……?」
目を疑った。
乱れるレースによって先頭せさえ息が整っていないのに……チケットは顔色一つ変えずゴールを見据えている。
後ろを向き、天を睨んだ。
「どうやって……」
疑問を振り払って、目の前を再び見る。
今の俺はタイシンを信じるしかない。
勝てよ……!
鉄柵を握りしめて、終盤に差し掛かるレースに没入した。
◇
『第三コーナーを回る』
『状況は依然変わらず、縦に長いレースとなっています』
アタシはじりじり脚を溜める。
仕掛けるタイミングはもう見えた。
『第四コーナーに差し掛かる!』
身体が向心力に引っ張られるようにコーナーを回る。
ごちゃごちゃしたレース。
前にあるのは11人の背中。
ゴールはまだ見えない。
でも、それを追い抜かすタイミングがアタシにはある。
全員ペースが乱れて体力残ってない!
勝つのは、アタシだ!
『最後の直線!』
コーナーを回っているとき、その言葉は芝に響いた。
「ここっ!」
先頭が直線に入った瞬間。自分がコーナーを抜け出す瞬間。
アタシは思いっきり大地を蹴っ飛ばした。
『ここで上がってきたぞ、ナリタタイシン!』
「「「おおおおお!!!」」」
会場が破裂した。
いける!
先に仕掛けた差しウマ娘を抜かして、先行ウマ娘を抜き去って、試合を操った先頭を追い越した。
チケットの後姿をあっけなく追い越していたのだ。
『すごい、すごい加速だ!』
『先頭はナリタタイシン! 残り200! これは圧勝か!?』
圧勝。確信できた。
全員を追い越した。作戦は追い込み。アタシが居たのは最後方。そして今は最前線。
勝つ。
このレースは、アタシが貰った。
視界に入るヤツは誰も居ない。
ゴールを、掴むんだ。
もう一段、ギアを上げる。そう思った刹那、会場が揺らいだ。
『あ、上がってきた。上がってきた! ウイニングチケットが上がってきた!』
『5人、8人……、爆発の様な脚で全てを差し切る!』
「す、すげええええええ!」
「どんどん抜かしてく!」
「もう少しで、一着変わるぞ!」
走りが実況を、観客を、会場を飲み込んだ。
そして、前に居るアタシまで飲み込まれそうになる。
『はやい、はやいぞウイニングチケット!』
『残り100!』
「絶対に、守り切るッ!」
奥歯を噛んで足を踏み出したとき、横に風が吹き抜けた。
「勝つのは、私たちだよ!」
「…………!?」
真横に焦点が定まる。
そいつの横顔は、力強くて、真っ直ぐで、よく知った『ウイニングチケット』のものだった。
「やあああああああっ!」
最後の叫びは遠のいていく。
前へ、前へ、背中はどんどん小さくなる。
「あ………っ」
何かが崩れて、全身から力が抜ける感覚。
「勝て……な……」
絶対に言いたくない言葉が、口から零れそうになったとき……。
「タイシンッッ!!!」
「っ!」
アイツの声で目が覚めた。
崩れそうな身体。それを一本の脚を突き出して、支えて、押し上げた。
歯が砕けそうなくらい噛み締める。
まだ……レースは終わってない!
「アタシは、勝つんだ!」
もう片方、踏みしめて、身体を前に突き出した。
『ラスト50! チケット……タイシン! 上がってきた! 伸びる! 進む! まだ終わっていない!』
「はあああああああっ!」
追いつく、追い付くんだ!
『ゴールはすぐそこ、まだ3馬身差がある。タイシン来るか!』
来るに決まってんでしょ!
『チケット強い! チケット強い!』
まだ、行ける! 進めるんだ!
「はああああああっ!」
手足を前に……! 届……っ!
『届かない!』
無慈悲に響いた一言が、アタシの力を吸い取った……。
『チケット勝利! 一着だ!』
———————。
「…………」
気づいたときにはゴール版を駆け抜けていた。
「はぁ……はぁ……」
肩で息をして、芝を歩く。
空を見ようと顔を上げると、勝者がそこに立っていた。
力強く、拳を握って、割れるような歓声を一心に浴びていた。
「チケットおおおお!」
「すごいぞ!」
「力強い差し、かっこよかったぞ!」
「ビワハヤヒデが言っていたのってアナタだったのね!」
「これからも期待してるぞおおお!!」
彼らの言葉を受け止めて、ぷるぷると体を震わせ、
「皆……」
弾けた。
「ありがどおおおおおおおおおお!!!!!」
ジャンプして大きく両手を振った。
いつもの変わらないチケット。
レース前の雪のような雰囲気は解けて、暑苦しいチケットに戻っていた。
掲示板を見る。
「5馬身差……」
うそ、だ……。
表示を見たとき、とうとうアタシは体を支えられなくなって、膝を突いた。
あれから、最後のアタシの加速で縮められないどころか、突き放されていた。
負けたんだ。
分かり切った感情が拳に宿って、
「…………っ!」
敗北した戦場に叩きつけた。
◇
芝のレース場へ続く地下通路。
敗北のあと。
反省点をあれこれ考えながら歩いていると、正面に人影があった。
「涼子……」
白髪の女。今日の勝者の指導者だった。
「浮かない顔だ」
微笑して、俺を見つめた。
「まあな。チケットにここまでやられるとは思っていなかった」
「チケットに、か……」
目を伏せ、腕を組む。そして出たのはため息。
もう一度ゆっくりと瞼を開き、
「今の君は、彼女に会う資格は無い」
冷たい宣告。
「資格が、無い……?」
「そうだ。君は根本的に足りていない。パートナーへの理解が」
「何言ってんだ?」
「今日戦ったのは誰だ?」
返答せずに、別の質問を投げかけられる。
「タイシンだ」
「それだからいけない」
煙に巻かれる感覚。
コイツはいつだってそうだ。
答えを自分で見つけるまで、絶対に教えてくれない。
「去年の君は、それができていたのに……。今はまるで理解できていない子供だね」
カツン、カツン。足音がゆっくりと鳴り響く。
「バラバラだ」
「…………」
そして、答えはくれないが、絶対に必要なことは言ってくれる。
これも、何か意味があるはずなんだ。
『バラバラ』『去年までできていた』
くっそ、見当がつかねぇ。
拳を握りしめる。
悔しいが、トレーナーとして、俺はコイツに負けている。
今もこうして説教されている。そんな自分が情けねぇ……。
足音が、目の前で止まったその時、そっと左手を握られた。
冷たい手。俺の方がよっぽど熱を持っているのに、その手は温かかった。
反射的に顔を上げると、すぐ下には真っ白な髪があった。
「君は普通の人間じゃない。ましてや、普通のトレーナーでもない」
ため息を吐き、彼女は顔を上げる。
「バカなんだ。普通のトレーニングはするな。そして、何よりもまずタイシンのことを考えるんだ」
「…………!」
「彼女は、不安を抱えて走っていたように思えた」
不安。それはきっと、湧かない実感のこと。
強くはなった。一般的なトレーニングで。
しかし、それが彼女に対する最適解ではなかった。
彼女に自信を付けたトレーニング。それは、俺が考えたバカみたいなトレーニング……。
俺に付いてきてくれたアイツが欲しかったのは、『俺』の特訓だったんだ。
「一般的な正解は要らない。彼女のことを想えば、君たちは強くなれる」
「あぁ」
「なるんだろう? 最強に」
屈託のない青い瞳で告げられた。
瞳を見つめ、俺の心の内が、気づくべきだったことが、沸き上がる。
くっそ……。またコイツに気づかされちまった。
本当に……バラバラなんだ。
だから気持ちが浮つく。
俺『たち』の目標は、観客を度肝抜かせることでも、涼子を倒すことでもない……!
「助かったぜ、涼子」
「うん。それならいい」
「次は勝つ。俺たちが」
言うと、彼女は優しい笑みを浮かべたあと、腕を組んで憎たらしく余裕ぶる。
「君が強くないと、張り合いがない。せいぜい頑張ってくれ」
「俺はやっぱりお前のその面、崩したいぜ?」
笑って見下ろすと、鋭く青い瞳の挑発。
「次の舞台は皐月賞。逃げないでくれよ?」
「当り前だ」
互いに挑発しあって、交差した。
横を白い紙が通り過ぎる。
やるべきことが分った。
そして、分かり切った感情が沸き上がってきた。
◇
「タイシン」
チケットの声が頭上に掛かる。
芝の上に膝と両手をつくアタシにとって、彼女は最も敵対心を抱く相手だった。
「なに?」
よろける体に活を入れて立ち上がる。
「私はトレーナーさんと強くなれたよ」
笑って彼女はそう言った。
「タイシンも、トレーナーさんを見てあげてね!」
元気で、落ち着いた声。
「それじゃ!」
いつもの調子で手を振って、彼女はライブへの準備室へ走り去った。
「くっそ……」
アイツに気づかされるなんて……!
チケットが今日走ったのは、勝てたのは、その差なんだ。
さっき以上に感情が込み上げてくる。
早く、アイツと話したい……!
◆
ライブを終え、会場から一人で出る。
真っ暗な冬の夜。
人もまばらな広間を歩く。
これまでアイツとは会わなかった。
失望させたかと思って、不安になったけど、そんなことは無かった。
彼は……アタシのトレーナーは、外でずっと待っていた。
「よっ」
静かに、彼は手を挙げた。
彼が居たことに安心して、感じ取った。
アイツも何か思って、爆発しそうなんだ。
だから、自分がいま一番したいことを真っ直ぐに言う。
「話したいこと、山ほどある」
「俺もだ」
お互い瞳を見つめた一秒後、彼は背中を向けて歩き出す。
「行くぜ」
その後姿を追いかけて、走り出した。
「……うん!」