汝、獣を恐れよ 作:貴公、かねて人を恐れ給え
見事としか言い様の無い、不潔極まりなり下水道には似合わない、本当に正しく童話に語られる〝お菓子の家〟。
外見だけでヴィオラが喉を鳴らしてしまうその扉、一枚のクッキーから成るそれを開けると、その中も正しく〝お菓子の家〟であり、童女が好みそうな装飾や調度品に家具、全てお菓子で出来たそれが、所狭しと敷き詰められていた。
そしてその奥に居る家主も、正しく童話の住人と呼べる者であった。
「ハンス、毎度毎度思うのだが、君はアポイントという文化を知っているのかね?」
家主、アイリーンと呼ばれた少女は、飴細工の様に艶やかなティーカップを傾けながら、血の如く真っ赤な頭巾の奥に隠れた、人形の如く端正な顔を歪めた。
「なら、家に電信回線を通せ」
「電信回線、実に風情の無いものではないか。そこはもっと、上質な詩歌を語れる使者に、文を持たせるとか無いのかね?」
「時代錯誤も甚だしいな」
遠慮会釈も無しにハンスは、部屋の中央にテーブルを挟んで向かい合わせに置かれた、パウンドケーキで出来たソファーに腰を下ろした。
そして、そう言うと細巻き煙草に火を点けた。
「ちょっと、ハンス警部」
ヴィオラがハンスに非難するが、ハンスは無視する。鼻に刺さる様な強い臭いを孕んだ紫煙が、ハンスの口から吐き出され、ファンシーな部屋内に充満する。
気付けば、丹念に磨き上げられたチョコレートのテーブルに、ビスケットと飴で作られた灰皿があった。
「……バンハードの一番安い銘柄だね。まったく、仮にも〝誘い人〟で刑事、高給取りの癖に風情が無いね君は」
「喧しい。余計なお世話だ。……アイリーン、仕事だ」
「仕事、ねえ。ふむ、一つ気になったのだが、彼女は誰で、〝ヴィクトール〟はどうしたのかね?」
「こいつはヴィオラ、ヴィクトールは出世して上等なスーツを穿いた尻で、上等な椅子を磨く仕事をしている」
「おや、あの坊やが出世とは……、年を取るものだね」
ヴィオラは二人の会話についていけなかった。
この不可思議な家と、その家主もそうなのだが、ヴィクトールと言えば、ヴィオラが籍を置く警察署のトップであり、この街の治安を維持する機関の最高責任者だ。
その人物が、この様な場所に出入りしていた。
混乱を更に深めるヴィオラを横に、二人は平然とした様子で話を進めていく。
「判明しているだげて、この一ヶ月で七件。先月を含めると十件、まだ身元不明の遺体まで含めると二十は下らん数の被害が出ている」
「ふむり、しかし今になって私の元に来たのは何故かね? それだけの数なら早々に話を持ってきそうなものだが?」
「……お上がうちに圧力をかけてきた。お前ら〝組合〟の手を借りず事件を収めろ、とな」
「そして結果はご覧の有り様。まったく、連中もどうして理解しないね? 彼奴らの相手を出来るのは我々だけだと」
「それを理解出来たなら、お前ら〝組合〟を正式な機関として認可している」
二人が何を言っているのか、ヴィオラには理解すら出来ない域に達していた。
ハンスとアイリーンの口から出てくる名前は、彼女ですら知っている警察組織のトップ歴々であり、ヴィオラの様な下っぱが耳にする名前ではなかった。
だが、二人の口から出てくるそれらの名前は、輝かしい経歴を示す階級と並んで、数々の罵倒で装飾されていた。
「まったく、何時になったら彼奴らは理解するのかね? ヘムズブリッジでの被害を、もう忘れ去ったのか。あの陰惨な事件を忘れ去れるとは、何とも羨ましい頭をしているではないか」
「そう言うな。第一、ヘムズブリッジでの事件は俺が産まれる前の事件だろうが」
「ふむり、……大体百年は前だったかね?」
「正確には百五十六年前だ。お前ら〝組合〟が初めて、俺達の前に姿を現したあの事件。その裏で、まさかこんな事が起きてるなんざ、ガキの頃の俺に教えてやりたいくらいだ」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
あまりにあまりな内容が続く事に耐えきれず、ヴィオラは二人の会話に割って入った。
「婦警」
「ハンス警部、ヘムズブリッジの事件は私も知っています。ですが、今の話を聞いていると、まるで彼女が当事者の様に聞こえました」
「……そうだ」
「有り得ません。先程も言っていた様に、あの事件は百年以上前に起きたものです。当事者が生きている筈も無く、それに……、彼女はどう見ても子供じゃないですか」
ヴィオラの言う通りに、今や教科書にも載っている最悪の事件は、今から百年以上前の出来事である。
確かにヴィオラの老獪な口調や、年不相応な態度はそれだけを見れば、それらしい気配はある。
だが、半分程の年齢にしか見えないアイリーンが、その事件の当事者である筈が無い。もしそうだとしたら、アイリーンはこの見た目で、百を悠に超える年齢になる。
この数十年で平均寿命が伸びたとは言え、そんな長命な人間が存在する訳がない。
しかし、そんなヴィオラの考えは、ハンスに簡単に否定された。
「こいつは百超えの婆だ」
「婆とは失敬な若造だね。……まあ、三百を超えた辺りから、年を数えるのは止めたがね」
「有り得ない……」
「有り得ない、か。俺もそう思っていた。ヴィクトールがこいつに会わすまではな」
諦めの様な溜め息を吐いたハンスが、ヴィオラが抱えている紙袋を引ったくる様にして、アイリーンとの間にあるテーブルに置く。
「今回の報酬の半額だ」
「おやおや、まだ仕事を受けるとは、一言も言っていないよ?」
「そうか、ならこれは要らんな。婦警、食っていいぞ」
「え? あ、はあ?」
ハンスが紫煙を意地悪く吐き出しながら、再びヴィオラに紙袋を投げ渡す。
ヴィオラは怪訝に思いながらも、受け取った紙袋の中身を思い出し、少しだけ嬉しげに袋の封を解く。
すると、えもいわれぬ芳しい芳香が鼻を突ついた。
「……待ち給えよ」
「なんだ、仕事を受けないなら、あれは無しだ。あと、因みに言うが、この婦警の胃は底無しだ。現場を見て吐いた後でも、平気な面で俺より食う。特に、あの中身の様な甘い菓子はな」
「え、えーと、本当に食べていいんですか? いや、食べていいなら、喜んで食べますけど……」
ヴィオラが抱えている紙袋は、ハンスが別に用意した無地のものだ。
本来、店で詰めてもらう筈の紙袋から、ハンスが半ば無理矢理、店員に詰め替えさせた。
あの時は意味が判らなかったが、今ならヴィオラも判る。
「待て待て待て! 先程の芳しい芳香は、間違い無く〝ラッツ&シュガー〟のマフィンのものだ。しかも、こんがりと焼けたナッツと蜜の薫りもした。……まさかだがね、ハンス。君、あの店のハニーローストナッツを手に入れたのか?」
「なんなら、あの店のシェフ特製のクロテッドクリームの大瓶もな」
「……私は態度と前言を撤回出来る人間だ。喜んで仕事を受けようではないか」
「婦警」
そう、この紙袋に詰められた菓子は、アイリーンに対する報酬だったのだ。
金ではなく菓子。これだけで、かなりの変わり者だと分かるアイリーンが焦る逸品。
それはこのカルッセルの街でも、一部の金持ちにしか買えない最高級店の菓子。
今、ヴィオラがアイリーンに手渡している紙袋の中身だけで、ヴィオラの給金二週間分は軽く消し飛ぶ。
内心、渡したくないヴィオラだったが、ハンスが二本目の煙草に火を点けたので、素直に手渡した。
「嗚呼……、マフィンとクロテッドクリームならまだ分かる。だが、あの気紛れ店主が、気紛れに年に数度しか作らない、ハニーローストナッツを手に入れられるとは……。ハンス、私は君を誤解していた様だ」
「因みに、誤解ってのはどんなもんだ?」
「甘味の素晴らしさを理解しない、煙草とアルコール漬けの大熊」
「ふっ!」
まさかの上司の評価に、ヴィオラは思わず吹き出してしまった。
確かに、ハンスはあまり身なりを気にしないのか、整髪料で無理矢理撫で付けた黒い髪はボサボサで、無精髭も目立つ。その上、厚いコートの上からでもはっきり分かる程に、分厚い筋肉に全身覆われている。
だから、署内の女性職員の間ではハンスは、常に縄張りを彷徨いている熊、人の姿をした灰色熊と散々な言われ様だったりする。
「まあ、君の評判なんぞどうでもいい。さて、現況を伺おうではないか」
上機嫌に、まるで宝石を磨くかの様な手つきで、バターナイフを手にしたアイリーンが、マフィンにクリームを丁寧に塗り付けながら、渋い顔で紫煙を吐くハンスに問う。
そしてこの日、この時間から、ただの一般警官でしかなかったヴィオラは、この世界で起きてしまった惨劇の中に、身を投じていく事になる。
獣も人も、甘く芳しい芳香に誘われる。
そこに、何の違いなどあろうものか。
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