汝、獣を恐れよ 作:貴公、かねて人を恐れ給え
場所は、甘い匂いに満たされたお菓子の家から、凄惨な事件現場に移った。
「ふむ、ふむ。確かに私が出張るべき案件の様だね」
赤い頭巾が、暗く湿った裏路地に揺れながら、小さな手で事件現場に刻み付けられた痕跡をなぞっていく。
「ハンス、君は今までに何回これに遭遇したかな?」
「三十から数えてないな。だが、今回で五十四だ」
「ふむり、上々だね。獲物の数は数えるものではなく、覚えるものだ。婦警も心に刻み給えよ」
「は、はあ……?」
気の抜けたヴィオラの返事に、何を思ったのか。アイリーンは愉快そうに、現場の検分を進めていく。
しかし、こうして眺めていると、本当にアイリーンはこの凄惨な現場に似つかわしくない。
童話から飛び出してきたかの様な、真っ赤な頭巾にケープ、そして真っ白なシャツとサスペンダー。人形の如く端整な愛らしい顔立ちと、鮮やかな茶髪に小柄な体。
そんな愛らしい服装と見た目に反するものが、彼女の穿いているレザーパンツとサイハイブーツ、そしてハンスに預けた小さなトランクケースだ。
先程からチラチラとケープの裾から覗く、パンッと張りのある臀部と、確かな太さのある太股を包む艶のあるレザーパンツ、その蠱惑的な脚を更に魅力的に魅せ、艶やかさの中に厳つさを演出するヒールの高いサイハイブーツ。
アイリーンの幼さの一切を否定する、その肉感的な艶と色気は、その気の無いヴィオラでも視線を向けてしまうものだった。
「……アイリーン、あまり人の部下をからかうな」
「おや、中々の熱視線を感じたので、私なりのサービスのつもりだっだが、お気に召さなかったかね?」
「…………婦警?」
「いや、いやいや! 違います! 違いますからね!」
「ふふん。まあ、そういう事にしておこうではないか。しかし、婦警。私は構わないよと、言っておこう」
「アイリーン、結果は?」
ハンスが厳めしい顔で、懐中時計を見せながら、アイリーンに問う。
「模倣犯の可能性も全く以て無いという訳ではないが、ほぼ間違い無く〝人狼病〟患者だろうね」
「被害者は既に二桁になってる。治療は?」
「これを見給え。これ程の爪痕、かなり変質が進んでいる証拠である。……治療は不可能だね」
「あの、ハンス警部。〝人狼病〟って、病気なら医者の仕事です、よね?」
ヴィオラの疑問に、アイリーンがハンスに眇を向ける。
「……まさかとは思うが、君は本当に婦警に何も言っていないのかね?」
「俺が言うより、お前が言った方が早い」
「はあ……、だから君は誤解されるのだ。ヴィオラ婦警」
「は、はい!」
「君はもう既に、引き返せぬ場所にまで来てしまっている。まあ、この男のせいなのだが、この際は置いておこう。だから、君には説明をしなくてはならない。この世界に蔓延する病〝人狼病〟について、ね」
「……ここでは目につく。車に乗れ。そろそろ、検死結果も出ている筈だ」
ハンスがそう言い、車に乗るアイリーンにヴィオラが続いた。
これは警察の所有する数台の内の一台の蒸気車だが、基本署に居ないハンスの専用車になっていた。
だからか、こびりついてのきそうにない程に、煙草の臭いが染み着いていた。
「まったく、何時も何時も思うが、君はマナーというものが無いのかね?」
「なら、歩いて署まで行くか? 最重要機密をべらべら喋りながら」
「あの、それで人狼病とは一体?」
「そうだね、このマナーを知らない熊擬きは置こう。まず人狼病を語る前に、ヴィオラ婦警。君は人を人に至らしめるものはなんだと考えるかね?」
「人を人至らしめるもの?」
この世界で広く信仰されている宗教では、人は人であるから人足り得るとされている。人でいたいならば、神の教えに反する事無く、日々節制し清廉に生きよという事だ。
だが、アイリーンの問いは少し違う気がする。
宗教は人が人である為のもの。
アイリーンが問うているのは、人を人に至らしめる何か。
ヴィオラは考える。
何処からか取り出した砂糖菓子を、口に放り込みながらハンスをからかう少女は、上司の言に由れば人から離れた人である。
齢三百を悠に超えるという、人の常識から外れた少女。しかし、彼女を見る限り彼女は、ヴィオラの常識にある人である。
「ふむり、悩んでいるね。ならば、サービス、そうサーヴィスだ。魔が差した、ついカッとなったと、人は言うね?」
「はあ、よく聞きますけど……」
この仕事、警察官をしていれば、必ず一度は耳にする言葉だ。
つい魔が差して、ついカッとなって、人は法を犯し犯行に及んでしまう。
そう、よく聞く大した事の無い言い訳。
警察官でなくとも、誰もが一度は耳した事ある言葉だ。
だが、アイリーンはこれらの言葉を問い掛けのサービスと称した。
なら、何か意味がある筈だ。これらの言葉に共通する事は、全て我を失っていたという意味。
であるならば、その失った我とは何なのか。
「……理性」
「正解だ、婦警。そう、人を人に至らしめる何かとは、理性に他ならない。人だけが、人という奇怪な生物足らしめる確固たる理性と、獣の本能を持つ。そして、〝人狼病〟とはそれだよ」
「それ?」
荒れた鋪装の道を走る車に揺られながら、アイリーンが色気のある所作で足を組み替え、砂糖菓子を噛み砕く。
「〝人狼病〟とは、人の本能に感染する病だ。そしてこの病は、人の理性を餌に本能を膨れ上がらせ、人を獣へと至らしめる。我ら狩人が長年に渡り狩り続ける最悪の疫病なのだよ」
「そんな、事が……」
「有り得る筈が無い、かね? 遥か彼方の東の国の言葉に、百聞は一見にしかずという言葉がある。百の言葉は一回の経験に劣るという意味だ」
有り得る筈が無い。
人から人を失わせる病が存在するなど、有り得る筈が無い。
もし、そんなものが存在するならば、人が人で居られる筈が無いのだから。
「さて、ヴィオラ婦警。真実の時間が来たよ」
甘く蕩ける様なアイリーンの声が耳を擽り、警察署が間近に迫る。
ヴィオラはこの場から逃げ出したくなった。
見慣れた職場、聞きなれた上司の声、それらが全て真実が塗り隠す為の虚言の楼閣だったとすれば、ヴィオラが信じてきたものが、全て波に消え去る砂山の様なものだったとすれば、彼女自身も容易く崩れ去る。
だが、真実はそれすら赦さない。
人とは、真実の前では最も無力なのだから。
甘い甘い真実ほと、人を魅了し離さないものなのだよ。
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