汝、獣を恐れよ 作:貴公、かねて人を恐れ給え
人狼病に関する設定の説明が、かなり面倒くさいので、これから何話かに分けて、アイリーンに語らせます。
「着いたぞ」
ハンスが車を停め、さっさと降りていく。
「……え、ハンス警部。ここは署の裏側ですよ」
「……いいんだ」
ハンスが溜め息混じりにそう言うと、コートのポケットから手帳を一つ取り出した。
警察官の身分を示すものではない。しかし、私用のものとしては些か装飾が派手なものだ。
しかし、何故に署の裏側に車を停めたのか。ハンスは敏腕で知られる刑事だが、それと同時にかなり強引な捜査でも有名だ。
だから、署内でも上司からはかなり疎まれている。
「ハンス警部、いくらなんでも裏口から入らなくても……」
「婦警、お前は何を言っているんだ?」
「え?」
「俺達が行くのは、〝組合〟のカルッセル支部だ。それに、こいつを連れて署に入れる訳が無いだろう」
呆気に取られるヴィオラを他所に、ハンスは慣れた足取りで、警察署の裏手に半ば放置されている物置小屋へ向かう。そして、物置小屋の扉を開くと、中に雑多に詰め込まれたガラクタを力任せに退けていく。
ヴィオラはハンスがとうとうおかしくなったのかと疑ったが、自分の隣で響く硬いヒールの足音と、ハンスが押し退けた古い棚の後ろから出たそれが否定する。
「いやしかし、こうして支部に来るのは少々久し振りだね」
「お前が如何に狩人として働いていないかだな」
「失敬な。つい先週も〝フェーズ2〟を狩ったばかりだよ」
「……おい、初めて聞いたぞ」
「おや、報告はしたよ? 文が届いただろう」
「あのやけに凝った装飾のやつか。次からは現代文字で書いてこい。お前の時代の文字は、俺達には読めん」
「ふむり、不勉強だね。しかし、電信回線を使えと言われるかと思ったが、使わなくていいのかね?」
「お前があれを使う事には期待していない。アイリーン。〝証〟を」
古い棚の後ろに隠された、異様な雰囲気を放つ扉を前に、ハンスに促され、アイリーンがトランクケースから、一つのアミュレットを取り出す。
年期は入った木目に、大小様々な宝石で彩られ、中央部には赤黒いインクで、斧と猟銃の象られたマークと、ヴィオラも大学の史学でしか見た事の無い、古い文字が刻まれていた。
そして、ヴィオラは読めない筈のそれが何故か読めた。
「我ら狩人はかねてより獣を狩り、しかして、慈悲を忘れぬ者也。故に警句を告げる。汝、獣を恐れよ」
「今のは?」
「合言葉だ」
忘れるな。
そう言ったハンスの言葉をかき消すかの様に、扉が軋みを挙げて開く。
その先には、如何にもと言った雰囲気を醸し出す狭い石造りの階段が、古めかしい角灯に照らされていた。
「な、え?」
「婦警、行くぞ。……説明は後でアイリーンがする」
「ほう、全て私任せかね?」
「その方が早い。そして、この先を見てからの方が理解出来るだろうよ」
「あの、その前にですけど、これは現実ですよね?」
「ああ、現実だ。……お前の昇進試験の時からな」
「え?」
呆けるヴィオラを置いて、ハンスは階段を迷い無く降りていく。
「さて、行こうか婦警。この先に真実が待っているのだからね」
アイリーンに促され、足を踏み入れた世界はいやに冷たく、そして逃れられないと思わせる何かがあった。
「ふむり、そうだね。車内での話の続きといこう。我ら狩人が長年に渡り狩り続ける人狼は、元はその辺に居る人だ」
「人って……」
「そう、つまりは我ら狩人は殺人者だ」
ヴィオラは思わず息を飲んだ。
今までの会話から、もしかしたらそうなのではないかと、そう思っていた。
だが、聞くのは恐ろしかった。
アイリーンは今日出会ったばかりだが、ハンスは違う。
ハンスは街でも優秀な刑事であり、多少強引な捜査は行うが、それでも犯罪者を追い詰め捕まえる手腕と、その刑事としての在り方は、尊敬に値するものだ。
しかし、そのハンスが殺人者を自称する者を連れ、あまつさえそれに協力し、その行動を黙認している。
ヴィオラは言葉を出せなかった。
ハンスは信頼している。だが、今はその信頼は揺らいでいる。
自分は刑事として、どう行動し、どう発言するべきなのか。
揺らぐヴィオラに、アイリーンは何も言わなかった。
ただ、ハンスだけは言葉を向けた。
「ヴィオラ婦警」
「は、はい!」
「お前が本当にこの街を、人々を守りたいと、あの日にお前が語った刑事になった理由が嘘でないなら、この先にある真実から目を逸らすな。この先にあるのは、そういうものだ」
そう言ったハンスの目の前には、また扉があった。
ここが最後の分水嶺だ。ここを越えてしまえば、もう後戻りは出来ない。
しかし、ハンスの言葉が正しいならば、ここで背を向ける事は、ヴィオラの志を否定する事になる。
──……兄さん──
行方不明となった兄の様な、立派な刑事になりたくて、様々なハンデを乗り越えてきた。
そして今、兄と同期であったハンスの直属の部下となり、この街の、世界の真実の扉の前に居る。
「ヴィオラ、今ならまだ戻れる。だが戻れば、俺はお前を部下から外し、今までの事は永遠に口を塞いでもらう」
「……行きます」
「…………分かった。アイリーン、鍵を」
「宜しい、下がってい給え」
年季の入った鍵を手に、アイリーンが扉の前に立つ。
目の前に聳える扉は、木製ながらも鋼の様な重さを感じさせ、施された装飾は素人でも見事と解る。
その扉に、アイリーンは鍵を鍵穴へと挿し込み、鍵を回した。
「さあ、婦警。これより真実を知る時間である」
「覚悟は、出来ました」
「宜しい。若者よ、君に慈悲と救いの有らん事を」
重々しい、とても木製とは思えない音を立てて、最後の扉が開く。
扉の向こうは、階段と同じく薄暗く、しかし何故か確かな光を感じさせた。
「ようこそ、我ら〝組合〟のカルッセル支部に」
アイリーンに迎えられ、まず目に入ったのは膨大なまでの書物が納められた本棚の森だった。
現代風の装丁のものから、中世の羊皮紙に至るまで、ありとあらゆる書物が、所狭しと詰め込まれた部屋。
それが見渡す限りに、多層構造に広がっていた。
「まずは資料室である。ここにはありとあらゆる風土や風習や因習、そして我らが紡ぎ続けた人狼病に関する資料がある」
「相変わらず、無駄に広いな」
ハンスの言葉通り、アイリーンが〝組合〟と呼ぶ組織の支部は、地下とは思えない程に広かった。もしかしなくても、カルッセル署よりも遥かに広い。
「こんな、ものが……」
「はっはっはっ、婦警。ここはあくまでも資料室であるよ。本命は向こうである」
「はい?」
「行くぞ、婦警」
二人に続き、鬱蒼とした複雑な本の森を抜け、階段を降りて更に下層へ向かう。
埃一つ無い棚に目をやり、アイリーンを見ると、
「今は休憩中なのだよ。騒がしくなる前に、君に見せなければならないものと、教えなければならないものを済ませよう」
「アイリーン、現状〝組合〟が掴んでいる人狼病患者の情報はあるのか?」
「せっかちな男だね、君は。……無論、有るだろうよ。人狼病根絶は、〝組合〟の、狩人の悲願なのだからね」
「そうか。分かった」
「あの、人狼病って……」
「車で話した通り、人の本能に罹患し、理性を餌に成長する病である。もう少し詳しくいこうか」
アイリーンの長く艶かしい足が、資料室から続く廊下の石畳に軽快な音を響かせる。
「そも、人狼病とは、人の心に巣食う病だ。一種の精神病と言ってもいい。だが、違う部分があるとすれば、罹患者の精神だけでなく、肉体にも著しい変貌をもたらすという事である」
「肉体にも、ですか? 昔に流行ったという疱瘡の様な?」
「そう言った症状もあるね。しかし、それは初期症状に過ぎない」
先頭を行くケープの裾から覗く、丸く張りのある形の良いアイリーンの尻が、一つの扉の前で止まる。
それは昇降機だった。アイリーンは操作盤を操りながら、言葉を作る。
「初期症状として、まず精神的な高揚感と万能感、肉体的には体温の上昇と先程の疱瘡や湿疹といったものと、新陳代謝の増大等が挙げられる」
「新陳代謝の増大ですか?」
「うむ、全体的に高揚した状態となり、行動や発言が大胆になるのだ。そして、大半の者はここで犯罪を犯す」
「逮捕される凶悪犯の二割から三割近くは、この人狼病の初期段階だ。覚えておけ、婦警」
ハンスの言葉に、もしかしたら自分が逮捕した犯人の中にも、語られる病の患者が居たのかもしれない。
そう思うと、ヴィオラは身震いをした。
それは恐れか、それとも別の何かなのか。
思案するヴィオラの思考を遮る昇降機の稼働音が、三人の前で止まる。
「さて、続きを話そう。そもそも、何故に人の心に巣食う病などという奇病が蔓延し、我々の様な狩人が暗躍しているのか。これは遥か昔、ある最悪の疫病が流行った事が原因なのだ」
「最悪の疫病……、まさか、〝
「君は賢いね。詳しい話は、下の第二資料室で話そう」
促される先は、一縷の光の導か、それとも無明の闇の先触れか。
身震いの奥に潜む何かを無視する様に、ヴィオラはただ前を見て進んだ。
それは恐怖か、それとも愉悦か。
どちらにせよ、人でありたいならば、そうあるべき在り方を選び給えよ。
――●●●●●