帰省しての数日間は、久々にのんびりと実家で羽を伸ばすことができた。
最近の仕事の話――もちろん、機密情報は伏せて――をしたり、久しぶりに二人っきりでドライブに行ったり、昔よく連れて行ってもらったお店でご飯を食べたり。
そしてもう一つ、重要なこと。
「舞音。今年は真也も戻ってきてくれたぞ」
お父さんはその御影石にそう呼びかけた。
そして一緒に柄杓で水をかけ、スポンジでその直方体を磨き上げる。その石に刻まれた名前、そして10年以上も前の日付には、かすかに土埃が溜まっていた。
その汚れを、やさしく拭き取り、そして水で流す。時計の長い針が半周もする頃には、その表面は鏡のような輝きを取り戻した。
それは、お母さんのお墓。あまりにも幼い頃の話だったのでよく覚えていないし、その時のことをお父さんはあまり話したがらないのでほとんど情報を持っていないのだけれど、僕を生んでくれた大切な肉親なのは確かなのだ。
花束を生け、線香を焚きあげる。そして窪みに水を注げば、お父さんがかつてお母さんが好きだったというおまんじゅうを供えた。
「真也。父さんな、お前にそろそろ話しておこうと思うんだ」
帰りの車の中で、不意にお父さんはそう口を開いた。
「そろそろって、何を?」
「舞音……お前の母さんの、最期の話だ」
舞音はな――
重々しくも、はっきりとお父さんはそう言った。
「そう、だったんだ。お母さんは……」
「だからこそ、あの日お前がトレイナーになりたいと言い出した時。俺は複雑な気持ちだったさ。嬉しいとも思ったし、その一方で行かないでくれとも思った」
「でも、結局は後押ししてくれた」
「あぁ。お前が俺や舞音みたいな不幸な者を生み出さぬ力になるというのなら、俺にはそれを止められなかったんだよ。だからこそ、このことはお前が正式にトレイナーとして働き出すか、あるいはその夢を諦めるか。その時まで、秘密にしておこうと思ったのさ」
そう言うお父さんの表情を、僕は窺うことができなかった。それからしばらくはエンジンの音だけが車内に響いていた。
以前から、僕がトレイナーになるということに対して、お父さんは素直には応援できていないというのは薄っすらと感じてはいた。だけど今日、その原因を初めてお父さんの口から聞いて、理由を痛いほどに理解できてしまった。隠し通していたのも、お父さんなりの配慮の形だったのだろう。
家に着こうかというその時。もう一度、お父さんが口を開いた。
「なぁ真也。一つだけ、父さんのわがままを聞いてくれるか」
「何?」
「俺はな、もう家族を失いたくはない。だから……10年後も、20年後も、俺が生きている限りは、お前はどこかで頑張っていてほしい。わざわざ顔を見せに戻って来なくたっていい、お前が生きているってことだけが俺にとって大事なんだ」
その声は、僅かに震えていた。
「わかった。僕、頑張るから。約束する」
「約束だぞ。お前の人生だ、精いっぱい頑張れ」
その夕方。僕はふと気になって、山に入ってあの場所を目指した。運命的な出会いをした、あの場所へ。
辿りついたその場所は、記憶にあった風景と何一つ変わっていなかった。
「懐かしいな。確かあの時はこのあたりにコロマさんがいて……」
もちろんその人影は今はない。だけれど、トレイナーを目指した原点は、間違いなくこの場所にあるのだ。
崖の岩に寄りかかって、夕日を眺める。いつまでも変わらない、美しい夕日だ。
そう、昔を懐かしんでいたとき。
左手の触れる岩肌に、何か不自然な凹みがあるのに気がついた。
「なんだコレ……文字だ、『真実の星夜』?」
その彫り跡はまだ土埃もほとんど溜まっていないほど新しい。最近誰かがここに来たのだろうか。
よく見てみようとしゃがみ込むと、コツン。かかとが何かを踏んだ。
そこを掘り返してみれば、円筒形のガラス瓶が土に埋まっていた。中には便箋が入っている。
もしかして。開けて取り出せば予想通り。僕に宛てられた手紙だ。
『真也君へ
久々にここに立ち寄ることができたので、手紙を残して置こうと思う。
ボク達の計画もだいぶ進んでいて、遅くとも再来年の11月には全てが終わると思う。
そうなったら、ボクはまた、アナタを見つけにいくよ。
今、アナタが何をしているのかはわからない。約束通り、トレイナーになって企業や組織、あるいは個人として既に活動しているかもしれないし、まだそのための勉強を続けている最中かもしれないね。もしかしたら、夢を諦めかけているかもしれない。
でも、諦めちゃっても大丈夫。アナタに日本一のトレイナーになれる素質があることは、ボクが一番わかっているから。ボクと一緒に、夢をやり直そう。
そして、トレイナーになっているのなら、アナタは間違いなく優秀なトレイナーになっていることかと思う。そうなっていたら、きっとボク達は最高のパートナーになれると思うよ
コロマより』
「ここに、来てたんだ。日付は……今年の頭か」
僕はその便箋を懐にしまい、山を降りた。
「お帰り真也。どこ行ってたんだ?」
「ちょっと昔を懐かしみに、散歩にね」
「そっか。明日もう東京に戻るんだもんな」
翌日、お父さんに宇部の空港まで送ってもらい、僕の帰省は終わったのだった。