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幻の特急。
かつてそう呼ばれた気動車がいた。
ある者は彼女をこう評した。『技術者の狂気の夢が具現化されたもの』と。
ある者は彼女をこう評した。『学習したコンコルド』と。
ある者は彼女をこう評した。『動力性能向上と環境性能向上を両立させる次世代特急車両』と。
ある者は彼女をこう評した。『身の丈に合わぬ贅沢品』と。
彼女は一度本線に出たっきり、何一つ乗せることは叶わなかった。デビューランすら、夢のまた夢だった。
これは、そんな彼女がまた別の形でデビューランを迎えるまでのおはなし。
★
「もう話す機会がないかもしれないから、あやまっておきたいことがあるんだよ」
イノベイテックはその車に片手を当てて話しかけていた。
まだ肌寒い日が続くなか。雪の積もる工場の解体線に、ぽつんと1両だけ停まっている。もともと3両編成だったその車のうち2両の解体は完了し、もはや跡形もない。
その車の横では、重機のスタンバイが完了していた。
「ごめん。僕が、力不足だったよ」
その謝罪の言葉は、おそらくその車には届いているだろう。だが、既にほぼ全てのぎ装が取り外されたその車は、もはやその声が聞こえていても言葉を返すことはできなかった。
「君がやってきた前の日、僕はどうすればいいかわからなくて、昔お客様を乗せていた懐かしい路線でぶらりと一日散歩をしていたんだよね」
途中の駅でおりて、ぶらりと街なかに出て。汽車が来ないのがわかっているからと、本線上を駆け抜けたり。そして海辺の駅で夕日を眺め、終点に向かっていた。
「でも、最後の交換駅で怖くなってしまってね。涙がこらえきれなくなってしまったんだ」
その駅の待合室でひとり泣いていたベーテクに声をかけたのは、近くで農業に従事する老いた男性だった。
『何があったのかはわからぬ。じゃが辛いことがあれば、吐き出してしまえばいい』
男性はベーテクの背中を優しく叩きながらそう語りかけた。
ベーテクは話した。一人ぼっちで走った日々のこと。先輩きょうだいが急に全員いなくなったこと。この線路を離れなくてはならなくなったこと。実験のこと、そして明日やってくる、きょうだいのような車のことを。
だけどその車は――既に、その役目を終えてしまった。まだ生まれたばかりで、工場からの回送すら終わってもいないのに。その車が元の計画通りにお客様を乗せて駆けるということは、もう決してないと言われたも同然のような状態だった。
『新聞が騒いでおったな、幻の特急と』
『もう僕の頭の中はぐるぐるなんだよ。初めての直接の弟か妹かという車がやってくる嬉しさと。その閉ざされた、失われた来るはずだった未来の大きさとで! あの子はたくさんのお客様を乗せて、想いを乗せて走るはずだった、なのに、なのに!』
男性はそう慟哭するベーテクの言葉を否定しなかった。優しく受け止めて、まるで自分がその境遇になったかのように、その感情を咀嚼してくれていた。
『お前さんの抱える気持ち、痛いほどに伝わってきおった』
『だったら教えてほしい。僕はいったい、どうしたらいい。どうやってあの子を迎えればいい。何度上を説得してなお、その不幸な決定一つすら覆せなかったこの僕が』
『既に起きてしまった事は変えられぬ。それを悔やんでも仕方のないことじゃ』
『諦めろっていうのかい』
『そう受け止めるのなら、お前さんがその子を迎えるべきではないじゃろうな』
事実ベーテクの思考回路は、尋常な状態を外れかかっていた。その根底にあったのは、焦りだった。
彼は成ってからのこの1か月間、常にその車の事だけを考えて行動していた。直々に上にかけあったりもして、その最悪の結末だけは回避されるように努めて、そして失敗し続けていた。
『例え話じゃよ。お前さんが足を怪我していたとする。お前さんはその状態で走りだすのかね』
ベーテクはその言葉を聞いて気を悪くした。ベーテクのみならず、会社の皆が一番気にしている事だったからだ。
『冗談を言っているのかい、3年前に何があったか知っているだろう? 車輪のフラット、人間で言えば足の爪先を怪我しているようなもの。そのフラットがあるのに走り続けたのが原因で、僕達は特急を燃やしてしまったんだよ。その傷が今、あの子を幻の特急にしようとしているというのに』
『そうじゃったか……。じゃが今のお前さんは今にも走り出そうとしているように見える。結論に向っての。そんな走りじゃ、その子を本当に幻の特急にしてしまうじゃろうよ』
彼のその言葉には、強い芯があった。それはベーテクの傷ついた思考回路を、ぐちゃぐちゃの感情を一度崩壊させてその内に宿る弱気と無力感と、そして臆病さを瓦礫の下敷きにしてしまった。そのかわりに落ち着いた空間だけが残って、その時ようやく、成ってから初めてベーテクはその車を取り巻く状況を一歩引いて、客観的に認識することができた。
内側からの働きかけだけでは、何も変えられやしない。外からも、何かをせねば。
『そんなのは嫌だね、絶対に』
『そうじゃろう。幻という言葉ほど、悔しい言葉もあるまいて』
『ありがとう。疑わしい時は手落ちなく考えて最も安全と認められるみちを採らなければならない。いつも心がけていた言葉の1つだけれど、その意味をもう1段階深く理解できたよ』
そのとき作られた芯は、今なおベーテクのメンタルモデルに強く刻まれている。
「あの日、あの時。僕の物語は最後の交換駅を出た。君を助け出すために」
本社はスピードを悪と考える世論に呑まれた。ならばその世論を変えてしまえばいい。
だからベーテクはその子に受け継がれるはずだったその身に宿すスピードを衆目に焼き付かせることにした。そうすれば、世論は大きく動くだろうと考えた。
では、スピードを衆目に晒すことのできる手段とは何か? 軌道系のノリモンであるベーテクならば、レールレースへの出場が手っ取り早い。そしてベーテクは日本で最も規模の大きいレース、鉄道の日記念メガループに出場し、プロ登録のされていない部門で最も早くゴールに辿り着いた。この速さが次へと受け継がれることなく途絶えてしまうかもしれないことを訴えれば、それで世論はスピードを受け入れる――その甘すぎる考えが、そこにあったから。
だが、もちろんそれは青すぎた。世論は、何一つ変わらなかった。本社の考えも。
「結局それはうまくいかなかった。だから次に僕は君をここから外に出そうとしたんだ」
次にベーテクが考えたことは、世論を気にしすぎている本社からその車を引き離すことだった。最早本社にとってその車が不要となっているのなら、それを必要とする者へと引き渡した方が幸せだろうと考えたのだ。そこで白羽の矢が立ったのが、メガループを制した後にベーテクへと接触してきていたコダマだった。
コダマの手引きによりベーテクはJRNノーヴルに招かれ、そしてJRN内部の事情を知った。はじめは研究目的として引き取ることを考えていたが、それよりももっと現実的なものを見つけることができた。
JRNでは、クィムガン発生時のトレイナーの出動用に3両編成の気動車を1編成保有している。この車は適切な整備により見劣りなく稼働させることができていたが、それでも落成から40年以上が経過し、老朽化は進行していた。このリプレイスに、ベーテクは妹分たるその車を推薦したのだ。
その提案はかなりいいところまで進んで、彼も何度か職員を連れて工場まで足を運んでいたのだが、致命的な点を見落としていた。同じ3両とはいえ、現行の車は全長が41メートルの小柄な車だ。ゆえにJRNの施設は、これに合うサイズで作られていた。それに対しベーテクの妹分は全長が60メートルある。JRNに投入するためには、中間車を脱車する必要があったのだ。
だがしかし、ここで構造的な弱点が露呈した。彼女は先頭車に1ユニットずつ、中間車に2ユニットの駆動装置を持っていた――中間車を脱車すると、性能が大きく下がってしまうのだ。これでは出動用の車とするには足りなかった。
「その後も何度か別の名目で君を引っ張って来れないかと考えた。でも、だめだった。僕の、僕の力が足りなかったんだ。ごめん。君を助けることは、ついぞできなかったよ」
ベーテクは車体に向かって頭を下げた。長い時間をおいてから頭を上げると、重機に乗る作業員に、最後の話が済んだことを告げた。
そして、幻の特急は真に幻の特急となった。なってしまった。ベーテクはそれが耐えられず、その様を見ることもなく挨拶を交わすと工場を飛び出した。
あの老人に、再び会えるだろうか。彼にも謝らなければならないな。そう思いながらベーテクは代行バスに乗り込んだ。彼がかつて走ったこの鉄路さえも、妹分を助けるために奔走している間に高潮の被害を受け、路盤が流失していた。まだ未来は決まってはいないが、地元自治体の不理解を見るにもう二度と列車が走ることはないのは明らかだった。あの最後の交換駅で列車の交換が行われることも決してないだろう。その事がまた、ベーテクの心に負った傷に塩を塗り、土を塗った。
「なくなってしまうんだね、ぜんぶ。この2年半、僕は何をしてきたんだろう。守りたいもの、守れなかった。1つも。もういっそ――」
その日はもう遅いので、ベーテクは少し手前の町に宿をとった。
チェックインしホテルの客室に入るなり、ベーテクは崩れ落ちた。その目からは塩水が無制限に分泌されてとどまることをしらない。
「どうして、どうして! 僕が! どれだけ!」
誰が悪いのか? 嘆いても現状は変わらない。妹分を失い、思い出の鉄路を失い。二兎を追う者は一兎をも得ずと言うが、一兎に専念しても一兎も得られぬことだってある。結果として、ベーテクは全てを失うことになったのだ。
1時間弱ほど泣いて泣いて泣き続けると、流石に爆発した感情も落ち着いたのか。ようやくベーテクは床からその身体を起こす事ができた。
「ごはん、食べにいこうか」
時計の針は午後8時を回っている。このままでは夕食を食べそこねてしまうような時間だ。ラストオーダーも近く、夕食会場にはとうベーテク以外の宿泊客はいなくなっていた。
1人のホテルスタッフが、タイミングを見計らっていたのだろう、ちょうど食事をとりおえたベーテクのもとにやってきた。
「お客さん、イノベイテック号だろ? あの3年前のメガループの」
「……それが何か」
「あんたのファンなんだ。あの走りを見て、それに昔そこの線路を走ってたノリモンなんだって聞いてね」
「僕の過去の栄光なんてものは、もはや蝕まれて失われているさ。もう速さを求めることに、価値なんて無い」
吐き捨てるように、ベーテクはそう自らを切り捨てた。
あの頃はまだあの子を何とかできると思っていたし、この町にも鉄の足音が響いていた。その時の輝きは、永遠の日食のように失われたのだ。
「何があったのかは知らないが、せっかくこの地に戻ってきたんだ。ゆっくりしていったらいい」
「『先ず失墜すれば、どこにも残らない』。イギリスのことわざだよ、知っているでしょう」
ベーテクはひどくドライにスタッフの手を拒絶した。スタッフは何かを察したのか、それ以上彼に何かを強いることはなかった。
翌朝。昨晩の件について、そのスタッフの非礼を詫びに、直々にホテルのオーナーが詫びを入れに顔を出した
「申し訳ない。うちの若いのが気分を害してしまったようで」
「いや、いいんだ。僕の気分は当面は優れることはないだろうから」
「まだ。まだ決まったわけではないだろう」
オーナーの言葉の意味を飲み込むのに数秒の時間を要した。そして、ベーテクは彼が線路のことを話しているのだと理解した。それは確かに、ベーテクの心を乱したものの1つだ。そちらの道筋に光があれば、もう片方にも光が見えるかもしれない。そう考えたベーテクはオーナーの話に乗ることにした。
「むりだよ。あそこを直してまた走り出したとしても、波はまたあそこを蝕む。その対策工事のお金は誰が出すんだい」
「本来は」
オーナーはその投げかけられた問いに答えようとした。だが間髪をいれずにベーテクが次の言葉を紡ぎ出したのを見て、まずは全て吐き出させるべきだと判断し、言葉を引っ込める。
それに気づいているのか気づいていないのか。ベーテクはさらに毒づいた。
「国も本社も一定程度お金を出すと言っている。残りを出さないと言っているのはいったい誰だい。そこが変わらない限り、この町に鉄の足音が響くことは二度とない。それを選んでいるのは、一体誰なのさ」
ベーテクは言葉を止めてオーナーの方を見た。ここで答えが欲しいという無言のメッセージだ。
「知っていますとも。沿線自治体の不理解ほど、鉄道の運営に余計なものはいない」
「わかっているのなら、何故」
「内地の方で赤字の地方鉄道の事業再生に携わっていましてね。だからこそわかるのですよ、この線路は救えないと」
オーナーはきっぱりとそう言った。
そのあまりの割り切りの良さに、ベーテクの心は僅かに揺れ動いた。その話がでたときから、彼が夢を見ていると思っていたからだ。
「本音を言えば、私だって線路が残る方がうれしい。確かに、今ある者をどう活用していくかというのは重要ですが、『今そこにあるからもったいない』だとか『過去に投資をしたのだからもったいない』といった過去や現在に囚われすぎる判断は、結果として未来を失わせます」
「そういう考えも、あるのか」
「えぇ。私の個人的な感想ですが、飲み放題の元を取ろうとして急性アルコール中毒で搬送される若者のような判断をしている大人はけっこういますよ」
あぁ。経営者というのは、強いな。ベーテクは素直にそう感じて、そして自分のちっぽけさを痛感した。
「もう、やめだやめ。いくら嘆いたとて、過去は変わりやしない」
「どうか、されましたか」
「僕自身の話ですよ。このホテルに泊まって、本当に良かった。またこっちに戻ってくることがあればここに泊まりますよ」
「それはそれは、ありがとうございます」
幸いにして、ベーテクには居場所があった。
これからは過去の事をすべて忘れて、自分のために生きていくのもいいかもしれない。そういう選択肢を、とってもいいんだ。その考えは、ベーテクの心を急激に軽くした。
「バスの時間は……10時33分か。まだ2時間以上ある」
そう思って客室に戻った時。
ベーテクの電話が、鳴った。工場からだった。取るかどうか少し悩んでから、ベーテクはその電話に出た。
「もしもし」
『あぁ、よかった。今ちょっといいか? 大変なことが起きた』
「今更言うようなことが?」
何だろうか。その車の解体はもうだいぶ前に決まっていたし……?
「まさか」
『何を思い浮かべてるのかは知らないけど、結論だけ言う。
「……! 昼過ぎには戻る」
あぁ、これは。
きっと、最後のチャンスなんだ。ベーテクはそう思って、反対に戻るバスの時間を調べた。9時7分発、あと20分強。
「急ごう」
いるかすらわからないあの老人を探しに行くより、いるとわかっているその子のもとへと。チェックアウトの手続きを済ませ、ちょうどロビーにいたスタッフとオーナーに頭を下げると、ベーテクは駅へと向かって走り出したのだった。
★
「お帰り、ベーテク」
「あの子は」
「こっちだ」
工場につくなり、ベーテクはその車がいた場所にに通された。そこにもうその姿はなく、かわりに5両編成の電車が停まっている。新幹線開業で転属してきた車に押し出されて役目を終え、次に解体される予定の特急電車だ。
電話をしてきた作業員に言われるがままに半信半疑で乗務員扉から車内に入り、ベーテクは客室に進む。そこには誰もいなかった。
「いないじゃないか」
「否定。隣の車に」
電車に宿るノリモンが、放送設備を通じてその子の居場所を告げる。その隣の車、4号車の最奥部、1番A席にその子は座っていた。
客室に誰かが入ってきたことに気がついたのか、彼女は立ち上がってベーテクの方に歩いてくる。その時初めて、ベーテクは彼女の姿を見た。
流れるように長い、梨地仕上げされたステンレスのような銀髪に、前髪には明るい青色のメッシュ。そしてその青のメッシュの端っこにはもう1色、萌葱色のメッシュが走っている。このベーテクのそれと同じようによくわからない髪色は、彼女がノリモンであることを示していた。
「お兄ちゃん、なの?」
「僕は、イノベイテックだ」
「お兄ちゃんだ!」
彼女はその小さな体躯でベーテクに飛びついた。ベーテクはそれを優しく受け止めて、そのまま立ち尽くしていた。
「ここにいる。いなくなって、ない」
「ねぇお兄ちゃん。どうして泣いてるの?」
「……えっ?」
ベーテクは彼女に言われて、頬に手をやった。濡れている。
いつの間にやら、ベーテクの目からは涙がこぼれていたのだ。
「はは、ここのところいろいろなことが重なって、どうもいろいろとわやになってるみたいだね」
「大丈夫?」
「大丈夫だよ。そういえば。聞かせてくれないかな、君の新しい名前を」
恐る恐る、ベーテクはそのノリモンに問うた。
「ポーラーエクリプス、です。それが今の名前! あらためてよろしくね、お兄ちゃん」
ピクリ。ベーテクの眉が少し動いた。そしてその名前を反芻するように何回か繰り返した。
「エクリプス……。そうか、そうかぁ」
「へんかな?」
「へん……ではないね。君のことをよく表した名前だとは思うよ」
だいぶ悪意に塗れたネーミングだけどね。ベーテクは素朴にそう思った。ノリモンとしての名前がつけられるということは、車として訪れるはずだった輝きは永遠に失われていることに他ならないのだから。一度すら走れていないこの子の名前にその単語をつけるということは、そういうことなのだろうとベーテクは結論付けた。命名者の意に反して。
「えへへ。そっか。ねぇ、お兄ちゃん。お願い、していい?」
「何をだい?」
「あだ名、つけてほしいなって。お兄ちゃんがベーテクって呼ばれてるみたいなの! ほら、ポーラーエクリプスって、長いじゃん?」
ポーラーエクリプスはその萌葱色の目を輝かせている。彼女はこの2年半、自分を救うために兄が動き回っていたことを工場の人から聞かされていた。だからこそ、自分は彼にとっての特別だということは理解していたし、逆に兄は彼女の特別なものになっていたのだ。
「いいのかい? 僕がつけて」
「お兄ちゃんが、いいの」
「……わかったよ。嫌だったら言っておくれよ」
ベーテクは考えた。エクリプスという最悪な単語はその要素から外したいが、かと言って元の名前と明らかに違うのはそれはそれで適切ではない。
「そうだねぇ……。ポラリス、はどうだい?
ポラリス。それは、空に浮かぶ二等星、アルファ・ウルサエミノーリスの慣用名だ。その星はシリウスやカノープス、アルクトゥルスのように明るい星ではないが、その輝きで多くの旅人を導いてきた過去を持つ。
気に入ってくれればいいのだが。そう思いながら、ベーテクはその反応をうかがっている。
彼の妹分らしく、彼女は彼が彼女の名前を聞いたときと同じように、『ポラリス』の4文字を何度も呟いている。
「……うん! ポラリスがいい! 一生大切にするね。だって成ってからお兄ちゃんから初めてもらった贈り物だもん!」
そう満面の笑顔で返すポラリスを見て、ベーテクは安堵した。間違ったネーミングではなかったことに。
「気に入ってくれたなら嬉しいよ。今日から君はポラリスだ」
「うん! ポラリス!」
その後、ふたりきりの話が終わったのを見越して工場の人達が何人か4号車にやってきて、座席を回して座るよう促した。これからの話をするために。
工場の誰ひとりとして、ポラリスが成るまで彼女をどうするかをまったく考えていなかった。そうなることをまったく想定していなかったのだ。落成してから2年半というのは一般的には鉄道車両がその場で成るには短すぎる期間だったから無理もない。
ノリモンは宿る車が解体されるときに受肉する。これを成ると言うのだが、このとき落成してからの期間が短いと実体化できずにウェヌスへと送られてしまうと考えられている。中には五元神のようにウェヌスで力をつけて後からこの次元に戻ってきて受肉するノリモンもいるが、それはかなりのレアケースだ。
「これだけ見た目が幼いと、少しな」
「見た目も何も本当に幼いんだけどね。2歳半だよ?」
ノリモンは成ったとしても、数割程度は元の事業者に残ることを希望して人間と同じように働いていたりする。そして多くの輸送事業者は人手不足の傾向にある上、今まで車として走ってきたノリモンはその路線を嫌というほどに知り尽くしているので研修も少なくて済む。そういった事情もあって、だいたいの社局では形を変えた上での再就職を制度として持っているのである。
だがしかし、そうしてお客様の前に出すことを考えると、ポラリスの見た目はあまりにも幼すぎた。その髪や目の色を見ればすぐにノリモンだとわかるとはいえ、そうだとわかるまでの一時の間ですらお客様を不安にさせるわけにはいかない。
「だから会社では残念ながら彼女を置いておく余裕もなくってね」
ベーテクは苛立った。結局ポラリスをどこまで振り回せば気が済むんだ、と。
「これまで2年半も会社の都合でずっとこの工場の中に軟禁していたんだよ? それなのにまた会社の都合かい。彼女の好きなようにさせてやればいいでしょうよ、僕はそう思うね」
「確かにそれが慣例だから一応聞いておこう。ポーラーエクリプス号、君はこれからどうしたい?」
その問いかけに、皆の目線がポラリスに集まる。もちろんベーテクの目も。だからこそ、工場の人達がにやけているのに彼は気づかなかった。
「ポラリスは、ずっとここにいた。楽しくなかったわけじゃないけど、ここ以外の世界も見てみたい」
「なるほどな。じゃ、宜しく頼んだぞベーテク」
作業員はいつの間にやらベーテクの後ろに立ち、その肩を叩きながら言った。
「えっ、僕?」
「俺達はここでしばらくやらなきゃならない仕事がある。今年度だけで100人以上も退職しやがったせいで、残ってる俺達はここを離れられないんだ。だから彼女にはお前しかいない」
「よろしくね、お兄ちゃん!」
「いや待って」
もちろん、この結論はベーテクが来るよりも前にとっくにポラリスの希望を聞き出し、彼が到着するまでの間に会社上層部まで話を入れて決まっていた。なんなら今の彼の上司であるコダマにまで調整をすでに済ませていたのである。
そもそも作業員が言ったように、ノリモンの今後は本人の希望が強く関わるのだからそれを真っ先に聞いていない訳が無いのだ。
「何だよ、車の時から自分のとこに引っ張り出そうとしてたのにか?」
「車として引き取ることに対して話は通しているけれどね! ノリモンとしてとなったら話は別なんだよ」
「なら今聞いてみれば?」
内心ニヤけながら、全部知ってる工場の皆さんはコダマに連絡をとるベーテクを眺めていた。帰ってきた答えは、もちろん許可だった。
拍子抜けするベーテクに、ポラリスが上目遣いで声をかける。
「ポラリスね、お兄ちゃんと一緒がいい。ダメ?」
「面白い日常にはならないと思うよ?」
「それでも、一緒がいいの」
「……わかったよ。君のお願いだというのならば、僕が君を新小平に連れて行こう」
こうして、またしても何も知らないイノベイテックさん(19)はポラリスを引き取ることになったのだ。
「これからもよろしくね、お兄ちゃん」