ノゾミタキオンは頭を抱えていた。それは彼女の弟分であり、同じチームのメンバーでもあるネオトウカイザーが半ば廃人めいて完全に無気力になってしまっているからだ。
「お前来週末のレースどーすんだ?」
「テントケで……」
「ったく。ポーラーエクリプスの奴が休んだときはあんだけキレ散らかしてたのにいざ自分がそうなったらコレか」
カイザーは言い返す言葉が出なかった。事実そうなのだから。そんな彼の様子を見て、これは確かにレースに出せる状態ではないなとタキオンは悟った。
果たして時間の経過がカイザーを救うだろうか。それは誰にも分からない。だがしかし、彼が今、自分と向き合う時間を必要としているのは事実だった。
「どうだった? カイザーちゃん」
「ありゃまだ走れる状態じゃねえな。ったく、本当に何処行っちまったんだよ一志の奴も……」
行方不明となった名松一志が戻ってくるのが一番だ。それはこのチーム【
タキオンはそんな現状と自分へと苛立つように歯ぎしりをすると、彼女らのシェアハウスを出ようとした。
「ちょっと、どこ行くの?」
「ひとっ走りしてくる。落ち着いたら戻る」
バタン。乱暴に閉じられた玄関の扉を、ビシャスオサナジミは心配するように見つめていた。タキオンとて、お世話になったトレイナーの1人である早乙女遊馬を失った身でもあるのだ。
ここ数日、【帝国】ではずっと同じような状況が続いていた。ナジミも彼女のトレイナーなどに相談してはいるものの、根本的な問題の解決なくしてできることは対処療法に限られていた。
「ふたりとも、何か前を向くきっかけがあるといいんだけど……」
ただ独り残されたナジミは、そう言いながら頬に手を当てた。そしてしばらくして何かを思いついたように手を叩いたのだった。
★
埼玉県所沢市、池袋線所沢駅。ナジミはカイザーをこの場所に連れ出していた。
「連れて行きたい所って……」
「ここよ?」
「またなんでレースに」
そう、カイザーの言う通り、今日はここ池袋線では複数のレースが行われる。ナジミの目的である冬のセゾンスーパースプリントは、新秋津から所沢へと至る連絡線を活用した1マイル
「本当になんでか分からないの?」
「全く」
重症ね。ナジミはそう言いながら、手元の端末を操作してインターネットに接続し、そのSNS投稿を開いた。
902 りつぶやき 285 引用 1601 いいね
この投稿の最後には(ポ)とつけられているから、これはポーラーエクリプスによる投稿だ。彼女は現状、カイザーの一番のライバルである選手だ。そんな彼女の所属するチームのSNSを確認していないほど、カイザーは弱っていたのだ。
「そうか、ポラリスが……」
「本当に見てなかったのね」
ナジミは溜息をつきながら、端末を戻した。投稿の返信には、少しは心無いものもあったが、概ねポラリスを応援する言葉が並んでいる。それは彼女がまだデビューしたばかりのルーキーだからか、それともその見た目が幼いからか。その要因は分からなかったが、この反応を見るに立ち直ることというのは前向きに見られることが多いのだとナジミは再認識した。
願わくば、カイザーにもその成功体験を。そのためには、まずは彼に立ち直って貰わなくちゃ。ならば、このレースではポラリスに積極的な評価が下される結果を――。そう思いながら、ナジミは端末をしまった。
「さ、そろそろ始まるわ」
レースが始まれば、1分間隔で総勢24名のランナーが一発勝負でタイムを競う。
1名、2名……。ブレーキをけたたましく鳴らしながら、どんどんとランナーが到着し、そして淡々とタイムが告げられて、その数字に一喜一憂する。その一連の流れを見て、観客もまた湧き上がる。
だけれど、その空気をさらに沸かす者が現れた。16番目の選手にして、ゼッケン番号5902番――ポーラーエクリプスだ。彼女は全走者からおよそ40秒ほどの間隔で高速度を維持したままに進入し、結果として基準走行時分である2分0秒を大幅に下回った1分39秒6で停止したのだ。このコース上には大きな左カーブがあることを考慮すれば、それは恐るべきタイムであった。
「あの子はもう前を向き始めている。あなたも前を向く時よ」
「でも……」
「でもじゃない。あなただってこの歓声を巻き起こす力を持っている。それに――」
――仮に名松君が戻ってきたとして、今のカイザーちゃんの姿を見たら、なんて言うでしょうね。そのナジミの言葉は、カイザーの心に深く突き刺さって貫通し、そしてできた穴にはポラリスの巻き起こした歓声が入り込んできた。
――俺だって、この歓声を呼び起こせる。そのためには勝たなければ。また走り出さなければ。
「私たちはただひたすらにずっと、走り続けてきた。それが私たちだとね。もう一度走りましょう? 同じ景色も、きっと変わるはずよ」
「あぁ……じっとしてちゃ、いられない。踏み出せば、止まらない!」
「そう、それでいい」
ナジミが貫いたのは、カイザーの心の弱い部分。そこをなんとか誤魔化してくれてもいた名松は今はいなくなってしまった。だけれど、
自らの勝利のため。ポラリスとの約束のため。そして、いずれ戻ってくるであろう名松を、笑顔で後悔なく「おかえり」と受け入れるため。カイザーは来週のレースに向けての調整を再開したのであった。