「シエロエステヤード君。君は帰ることを諦めたのかい?」
次に会長さんの口から出てきたのは、そんな言葉だった。
「どうして諦めなきゃいけないんですか?」
「違うのかい? 私は君の動きをそう判断しているよ」
どうして……。いや、自明か。
「トウマさんのことですか」
「そうさ、どういうつもりなんだい?」
「どういうつもりも何も、ただの恩返しですが」
ふむ、恩返し。そう言いながら会長さんは立ち上がり、そして僕の顔へと手を伸ばした。
「君の生まれ故郷では、恩返しという名目で異性を口説く風習でもあるのかい?」
えっと……? 会長さんは一体、何を言って……?
「そもそも口説いた記憶はないのですが」
「嘘はいけないよ」
「いや本当にないのですが……」
あれを口説いたと認識するのならば、それはトウマさんの方に問題があるのでは? そもそも、口説いたって……。
……と、ここで1つ、重大な認識のずれを思い出した。スクールでの前提とこの次元でのそもそもの前提の違いを、あの時はすっかり頭から抜け落ちてしまっていた。そうだとすれば、これに関して言えば少し迂闊だったかもしれない。
まず、スクールで習っていたときのこと。それはとうぜんその対象はノリモンで、彼らは人の形を模してはいるが生物ではない。故にノリモンがトレイナーに親愛の意やお気に入りのおもちゃに対するかのような独占欲を抱くことはあっても、恋愛感情というものを抱くことは決してないのだ。
だけどトウマさんは、この次元の人達は決してそうじゃない。みんな、人間だったんだった。だから普通に恋愛感情が発生しうる。
……まぁ、それだとしてもそういう認識になる、のか? あのやり取りは。
「とりあえず、その反応を見るに何かしらのやり取りがあったことは事実のようだね? ならばその行動の、君側としての解釈も一応聞かせてもらってもいいかい?」
「もちろんですとも」
そして昨日の出来事を包み隠さず話すと、会長さんは今度は思いっきり頭を抱えて、右手ではペン回しを始めてしまった。
「原因は理解した。ミノル先生は一体何を考えているんだ……」
「あ、そこなんですか」
「そうだが? 確かにトウマは複雑な事情を抱えていて、そこへの偏見のない共感者を周りに増やして行ったほうがいいのは事実だ。だがしかし、前提となる文化が違う者にカウンセリングを依頼するのは理解しかねる」
ミノル先生は、生徒思いの先生であるという印象が広く持たれている。もともと留学生としてひとり学園にやってきて、そして生徒として優れた成績をおさめたことが認められて学園の教諭に登用された彼女だからこそ、孤独感や心細さを抱えることがないようよく寮生の様子を見て動き回っているのだという。
だからこそ、会長さんはミノル先生がそうした理由が分からなかった。こうやって情報を整理してみれば、たしかによくわからない行動だ。
「そもそも引き受けた君も君だよ?」
「話しませんでしたっけ? ここに来る前はそういう仕事をしていたって。だからこそその時は疑問には思わなかったのもあるんです」
だけどその話はミノル先生にはそもそもしてたっけな? 考えれば考えるほど、わけがわからなくなってきた。あの場で彼女なりの意図は間違いなく、それも強いものがあったはずなのに。
お互いに頭の上に疑問符を浮かべて顔を見合わせて、そして目線を交わす。そんなことをしても、ミノル先生の考えがわかるはずもないのに。
「まぁいい。君の考えは理解できたし、後からこちらでもミノル先生に話を伺うとしよう」
「なんか話してくれなさそうな匂いがするのは気の所為ですかね」
「気の所為ではないだろう。……それと、私からは君の判断についてもう1つだけ聞かせてほしい」
――君がトウマの力になれぬまま帰る術が見つかった時、どうするつもりなのかい?
よりいっそう強張った顔でそう聞いてくる会長さん。なるほど、たしかにそれはだけど、僕はシャイ先生のゼミなどでその質問に対する答えをすでに用意していた。
「帰ったからと言って、僕と学園との関係がなくなるわけじゃないですよ」
「……何を言っているんだい?」
「僕がここに来ることになったきっかけは事故です。帰るためには、同じものを起こさなきゃいけない。それも、制御された事故を。そしてそれができるのならば、僕はまた学園に来ることができるし、もちろん学園からまた帰ることだって」
きっかけを再現するということは、つまりそういうことだ。再現できなければ僕はこの次元に囚われたまま、その無限に深い井戸型ポテンシャルを抜け出すことはできない。逆に再現できれば僕はこの次元を離脱してJRNに帰れるし、そうなれば最初のルースの落し子により引き起こされた事故と同じようにこの次元に流れ着くこともまたできるはず。それが僕たちが導いた結論であり、ポラリスを通じてJRNにも伝えてあるものだ。
すると会長さんは、思いもよらぬことを言い出した。
「つまりトウマを連れて行くことだってできる訳だ」
「理論上は可能ですけど、さすがにやりませんよ? 彼女にも家族がいるでしょう」
その、何も考えずに出た言葉が。会長さんの顔をまた固くしたのだった。
「……いない」
「え?」
「彼女の家族はもう、既にいないのだよ。君はやはり、彼女についてあまりにも無知だ」