「……ごめんね、ポラリスちゃん。変なこと聞いちゃって」
「? 変なことー?」
「聞かれて嫌じゃなかった?」
「別にー。だって言っても言わなくてももう変えられないでしょ? 気にしたってしょうがないじゃん!」
きっぱりと言い切った。
……強いな、彼女。僕もこのくらい割り切ることができるような人間になりたいよ。
……一応、聞いておくか。
「ねぇ。君は……線路を走りたい?」
「走りたい! びゅーんってしたい! 車のとき、ほとんど走れなかったからこそ思いっきり駆け抜けたい! ……だけどね、これはポラリスのわがまま。あの時みたいなお兄ちゃんの悲しい顔は、もう見たくない。だからポラリス、お兄ちゃんがいいよって言うまで走らないって決めてるんだ」
笑顔で答えるその顔には、偽りの色はおそらくなさそうだった。
「強いね、ポラリスちゃんは」
「そうかな?」
「強いよ、僕なんかよりよっぽど」
そう伝えると、ポラリスちゃんは一瞬だけきょとんとしてから得意気な顔つきに変わった。そしてシートから立ち上がると、僕の前に立って上体を後ろへぐっとそらす。
「えっへん! もっと褒めてもいいぞー!」
ふっふーん。実際に口に出してはいないがそんなオノマトペが出てきそうな姿だ。
この一連の様子があまりにも不自然かつ面白かったので、僕は耐えられず軽く吹き出してしまった。
「あっ! 今笑ったでしょー!」
「笑ってないよ」
「嘘だー絶対笑ったもん」
彼女はこんどは対照的に僕の顔の前まで自身の顔をぐっと突き出してそう言う。そしてにらめっこが始まって……1分も経たないうちに、お互い莫迦らしくなってふたりとも笑いだした。
自然にこぼれ出たその笑いがおさまった頃、僕はもう一度隣にかけたポラリスちゃんへと話しかけた。
「でもね、ポラリスちゃん。ベーテクさんが悲しい顔をしたのは、君が走ったからじゃないと思うよ」
「どういうこと?」
「だって、その日ベーテクさんは君を走りに連れて行ってくれたんでしょ? 君に走ってほしくなかったら、そんなことは絶対にしないよ。たぶん彼は君が脱線して、怪我をしたり痛い思いをしたりするのを見るのが嫌なだけだと思う」
何らかの事情でほとんど走れていなかった妹分が、幸いにも第二の命を得ることができて、そしてその事情から解放されたとしたならば、誰だってそこでは気の済むまで元気に走ってほしいなと願うと思う。それは、ベーテクさんだってきっと同じ気持ちじゃないかなぁ。
「僕はね、ベーテクさんは君に走ってほしくないとはこれっぽっちも思ってないと思うよ。むしろ、君には思いっきり走って欲しいって思っているんじゃないかな」
「そう、なのかな?」
「もちろん、僕は直接聞いたわけじゃないから間違ってるかもしれない。でも、それは君も同じでしょ?」
「……うん」
やっぱり。
話を聞いていてそうじゃないかとは思っていたけれど、ポラリスちゃんはベーテクさんに対して割と遠慮しているきらいがある。だからその時の悲しい顔を見て、それだけで全てを理解したつもりになってしまったんだと思う。
「君はいい子だから、たまにはワガママを言ってもいいんじゃないかな」
「……じゃあ、今わがままを1つ言っていい?」
……え?
どうしてそうなるんだ。僕は付き合いが長くて恐らくかなりいい子にしていたであろうベーテクさんに1つくらいワガママを言ってもバチは当たらないだろうということを言いたいのであって、誰にでもワガママを言っていいと伝えたかった訳ではない。
でも、ここでこれを断れば、結局直談判をしても無意味だという最悪なメッセージを与えることにもなりかねない。
少し悩んだ結果、とりあえず内容を聞いてみてから判断することにした。
「わかったよ、ポラリスちゃん」
「その『ポラリスちゃん』っていうのやめてほしいなーって」
思ったより普通なお願いで助かった。これなら普通に聞いてあげてもよさそうだ。
「じゃあ、ポラリスさん?」
「ちっがーう! それもなんかよそよそしくてヤダ」
そんな事を言われても。僕はあんまり他者を呼び捨てで呼ぶことに慣れていないんだけどな。
というか、そもそもよそよそしくて間違ってはいないはずなんだし。
「あのね、僕がこのラボにいるのは遅くても8月まで。インターンが終わったら、成岩さん経由で時々顔を合わせることも無いとは言えないけど、もうこのラボに来ることは無いんだよ?」
「関係ないよね? だって、インターンが終わっても真也はお友達でしょ?」
やっぱりこの子、強い。強すぎる。この子のメンタル、いったいどうなってるんだ? こっちをじーっと見つめるその緑色の瞳の奥に、決して屈さぬ頑強たる鉄鋼の意志が宿っているのがひしひしと感じられる。
僕の負けだよ、ポラリス。
「……わかったよ、ポラリス。これでいい?」
「うん! これからよろしくね!」
差し出された手をとる。
この子は、危険だ。意識しているのかはわからないけれど、自分の世界にぐいぐい引っ張り込むことに長けている。僕がその光を吸い込むような瞳に呑まれそうになるのをぐっとこらえて、「よろしく」と返事を返したとき。
「ただいまデース!」
ラボのドアが勢いよく開かれた。国分寺からふたりが戻ってきたのだ。
「あっおかえりー!」
「良い子にしてマーシタか?」
「うん! 真也とおはなししてたの!」
ポラリスはアドパスさんの方へとかけてゆき、そしてようやく僕は解放された。
「ベーテクはどこにいる?」
「3時前くらいに会議に呼び出されて、まだ戻ってきてないですね」
「って事は2時間以上ポラリスの相手してた訳か。お疲れ」
「疲れてはないけど、恐ろしいものを見た気がしますよ……」
少なくとも、ポラリスは絶対に怒らせちゃ駄目だ。たぶん彼女を怒らせたら下手したら命が危ないような気がする。少なくとも、あの鋼鉄の如く頑強な意志が曲がった方向に伸びていったとしても、僕は1人で彼女を止められる自信がない。ベーテクさんにはかなり素直に従うから、彼に頼めばどうにでもなるんだろうけど、今日みたいにいないときはどうしようもない。
「お前すげぇな、ポラリスのペースに呑まれて疲れないって相当だぞ」
「話自体はけっこう聞いてすぐ理解できるくらい論理はきちんとしてたから、話を噛み砕く労力が要らなかったのが大きいんだと思います」
「……そうか」
成岩さんは若干引いている。なんで?
「とんでもない後輩ができちまったようだな……」
「評価が積極的すぎますって」
「お前は自己評価が消極的すぎだよ」
そうかなぁ。
一応これでも誰にでもできることと自分にしかできないことはきちんと分けて、後者に関してはきちんとプラス評価を入れているつもりなんだけど。
そう反論しようとしたところで、ポラリスの声が響いた。
「富貴ー! 真也ー! アドパスがティータイムにするって!」
「……行こうか、山根」
「そうですね、リフレッシュもしたいですし」
アドパスさんが淹れてくれた紅茶の香りと味で、ポラリスと話す中で気がついたら緊張していた背筋や首の筋肉が、ベーテクさんが戻ってくる頃には弛んで柔らかく戻ったのであった。