「くっ……。調整を間違ったか……だとすると……」
午前3時、JRN3号館、発生専攻研究室――通称、動物園。この専攻に所属する程久保是政は、疎外感を紛らわす為に研究に没頭していた。
「となると、やはりクィムガンの特性に由来しているこの交雑因子が……」
「なーに一人で根詰めてやっているんだい! そんなに詰めてばっかじゃ、重要な点をも見落としてしまうよ!」
そんな程久保を心配するように、彼の師事する安慶名秦流は背中を叩いた。タイミングも悪く彼は画面に思いっきり頭をぶつけてしまってはいたが、彼女はそれを心配してはいない様子だった。
「ちょっ、安慶名先生いきなり何を」
「わたくしがこんな真後ろにいてなお気が付かないほどの狭い視野では、目指す真実には辿り着けやしないよ」
安慶名はそう言いながら程久保の背中をもう一度叩いた。確かに先生の言う通りだと彼は思った。しかしそれでもなお、彼の中の孤独心は彼を弱火で焦がすようにじりじりと焦り立てていた。
「……なぁ、悩みでも抱えてるんじゃないのかい。不動ちゃんやヒザク君も心配していたけど、ここのところずっとそうじゃない」
そしてそれもまた、安慶名には見透かされていた。何十年も観察と研究を続けていた彼女は紛うことなき分析のスペシャリストなのだ。
しかし程久保は声を詰まらせた。ここに来て、自分の懸念が杞憂かもしれないという思い……いや、そうであってほしいという願望が相談という行為を思いとどまらせてしまったのだ。仮にこの疑惑が杞憂ならば、先生に相談して大事にするべきではないのだと。
「言えないのかい、かわいそうなことだねぇ」
「かわいそうって、誰が」
「あなただよ」
安慶名は、今度は程久保の肩を後ろから抱えた。そうして捕まった彼女の手は彼の頬に当たり、そしてそこを流れる水滴を受け止めた。彼のメンタルには相当な負荷がかかっていたのだ。
「まぁ、今すぐにとは言わない。だけどね、少しくらい近くの大人を頼ったっていいじゃないの」
「……ごめんなさい」
「おや、どうして謝るんだい? まだ致命的な失敗をしたわけではないのに」
その言葉は、程久保が今のままで続けていれば、なにか取り返しのつかない事態を起こしてしまうのではないかという懸念を安慶名に抱かせるには十分すぎる状態だった、ということを暗に示していた。
ではなぜ、程久保はこれほどまでに追い詰められていたのか? その理由を語るには、年明けに話を遡らせることになる。
はじまりは彼の親友、綾部綾がもう1人の親友、山根真也の所属するウルサ・ユニットに所属することが正式に決まった旨の報告を綾部から受けたことであった。そのとき彼は最初は綾部のことを羨ましいな、とただ少し思っただけだった。
しかしそれ以降も、程久保は親友であるはずの山根と顔を合わせていなかった。どうも綾部によれば、山根の身に不幸があり、入院中であるらしいのことではあるのだが、1ヶ月以上にわたって一切の見舞いすらできない状態であるというのが程久保には不思議だったのだ。
それだけではない。今年に入ってからというもの、その綾部はどこか忙しそうにしているようにも見えていた。なにかおかしいのではないかと同じく同級生であり、ウルサ・ユニットに所属している北澤百合に事情を伺おうとすれば、彼女もまた忙しなさげで、そして余所余所しい態度を見せていた。しかも2人とも言葉をはぐらかすばかりで、まっすぐと程久保の目を見て答えてくれることはなかったのだ。
その全てを、程久保は隠すことなく安慶名に話した。そして彼女はその懸念を、無神経にも笑い飛ばした。
「友達思いは結構なこと。それにね、あなたが隠し事をされてると感じていることは……まぁ確かに彼らは怪しい」
「……やはり?」
「わたくしだって聞いていればそうは思ったね。……ならば、の話だよ。その山根君が
「それは、まぁ……」
最悪のストーリーであるとするなら、それは山根の死にほかならない。だが程久保はそれを口に出すことはできなかった。
そんな程久保の様子に、安慶名は答えを待たずに程久保へとアドバイスを加えた。
「いいかい程久保。隠し事をされてるって感じた時は、なぜそれを隠しているのかという事を考えた方がいい。これはわたくしの勘だけどね、彼らは悪意があって隠している訳じゃない」
「ならば、なぜ……」
「あなただって親友にすらまだ言えないような研究に関わってもいるだろうに。いいかい、まともな隠し事っていうのはね、
事実、この発生研究室には未解明の謎が沢山残っていた。それらの謎に近づくための実験や考察はいくつも重ねているが、その中には不確かなものだって多いのだ。
仮にその不確かな情報が外部に漏れたらどうなる? その憶測でしかない情報が研究者によって考えられているというだけで事実であるかのように認識され、それに基づいてはいけないのに基づいた、新たなる憶測や流言が飛び交う自体になりかねない。そういった場面では、秘匿とは混乱を招かぬためのものでもあるのだ。
「……違わない」
「だろう? あなたが彼らを信用しているのであれば、そこに要らぬ悪意を見出すべきではありませんよ」
「それも、そうか。少し、頭を冷やしてくる」
そう言って程久保はコンピュータをスリープモードに切り替えると、研究室の外へと出ていった。
そして、程久保の座っていた椅子を少しだけ見つめてから、こう呟いたのだった。
「まったく、隠し事がお上手でない。とはいえ彼らの間柄を鑑みれば程久保君だけがあれを知らないのも、そして彼に隠し続けさせるのもまた酷なこと。1人戻ってきても来たことだから、徐々に情報を開示する範囲を広げていくのも、考えるべきフェーズに入ってきたのかもしれないね」