特に何もなく平穏に午前中の時は過ぎ、昼休みも終わって午後の待機時間に突入した。
午前中は常に話し声が飛び交っていた部室も、この時間になるともう話すことがなくなって、各々自分のタスクなどをしていたり、単にやる事がなくて横になって昼寝モードに入っていたり。かくいう僕も本棚から過去の活動録を取り出して読んでいる。
「イヤーッ!」
突如、部室の中にそんな声が響いて、8つの目がその声の主に向けられる。先程まですんやりと昼寝をしていた北澤さんが、ダラダラと冷や汗を滝のように流しながら上体を起こしていた。
「はぁ……、はぁ……。ぶし、つ……?」
「落ち着いたか? いったいどんな悪夢を見てたんだ」
成岩さんはそう声をかけながらタオルを投げ渡す。
受け取った北澤さんはそれで顔と首周りの汗を拭くと、唐突に変なことを聞いてきた。
「アタシの名前って、何だっけ……?」
「うん?」
「大丈夫?」
「……へ?」
「4人が目ぇ離してるうちに寝返りで強く頭でも打ったか?」
突然何を言い出すかと思えば。悪夢の衝撃で記憶って飛ぶものなのか……?
僕達4人は顔を見合わせて、お互いに困惑の色が出ていることを確認した。
「いや、そういうのじゃなくって。夢の内容にも関わってくるんだけど……」
「貴女は、北澤百合。違う?」
佐倉さんがようやく彼女の質問にそのまま答える決断をした。
これで否定されたらいよいよどうすべきだろうか? 目線でそんな疑問を共有したけれど、幸いにもそれは杞憂だった。
「だよね、良かったぁー! うん、アタシの名前は百合」
北澤さんは自分に言い聞かせるようにそう口に出している。
「一体どんな夢を見てたんだ……」
「アタシの中に誰かが入ってきて、それで髪の色とかがトレイニングした時みたいに変わって。そして、アタシの名前を奪われちゃって」
「名前を、奪われる……?」
「うん。元々の自分の名前が思い出せなくなっちゃって、かわりの名前がふと頭の中に浮かぶの。しかも、皆からはそっちの新しい名前で呼ばれてた。それで、皆の呼びかけで、新しい名前がまるで昔からそう呼ばれてたかのように、スッと自分が呼ばれているってことだと入ってきちゃって。それで普通に返事を返して、その後また元々の名前を思い出そうとしても思い出せなくて、悶々としてるうちに自分の中でも気がついたら新しい名前を認めてて、そしてアタシの口からもその名前で名乗ってた」
「「「「…………。」」」」
……ヒェッ。酷い悪夢だ。聞いている途中から鳥肌がとまらないし、恐らく僕の背中も滝のように冷や汗が流れている。
今まででも突然思いもしない渾名を友人につけられてそっちで呼ばれ続けたり、業務上唐突に新しい呼び名――例えばウルサロケットというコールサインだとか――が与えられたりはした事があるから、そっちの方はそんなに恐ろしい夢だとは思わない。だけれど、自分の名前を思い出せなくなってしまうというのは。
「夢で良かったですね」
「ホント、夢でよかったよ」
ふと口から溢れたその言葉に答えが帰ってくる。
仮に実際にそんな事が起きたとしたら……少なくとも僕は、間違いなく発狂すると思う。だって、真也という名前は、僕が生まれて間もなくこの世を去った母親がくれた、一番大きなものなのだから。
「……JRN七不思議の1つ。『昼寝から覚めて覚えていられる夢は、遅かれ早かれ全て正夢になる』」
ぼそりとそう呟いた声が聞こえて、体がビクリと1回震えた。
声の主の方を向けば、彼女は首を僅かにかしげながら、左手の人差し指を笑窪に立てている。そして、しっかりと目が合った。
「他の6つも聞きたい?」
「「遠慮しておきます」」
「佐倉君、非科学的な噂話で徒に恐怖を煽るんじゃないよ。少なくとも私は長年JRNにいるけれども、七不思議なんてのは初耳だぞ?」
「そうなの? サイクロじゃ有名だから、みんな知ってるものかと」
「ノーヴルでも聞かないな」
僕もそんなのは知らないし、パレイユの北澤さんが僕と同じ反応をしているのを見るに、どうやらサイクロの派閥の中でだけ流布されている七不思議なんてものが存在するらしい。非常に心臓に悪いからできればサイクロの外にまで持ち出さないでいただきたいし、そもそもそれって名前自体をサイクロ七不思議とかに変えるべきじゃないのかな。
「佐倉君。得体の知れない恐怖というものが、人の精神にどういう影響を与えるかしっているかい?」
「知ってる。だから私達は得体を知るために研究する。違う?」
「その論理は間違ってはいないかもしれないが、決して恐怖を撒き散らしていい理由にはならないね。特に新人はパフォーマンスを下げられたら後に響くものは相対的に非常に大きいというのは、君にも新人だった時期があったからわかるはずだ」
早乙女さんは屁理屈を苦い顔で諭している。一方で佐倉さんは早乙女さんの奥の遠くを見て、口を半分開けている。
「恐怖とは、未知へと誘う道標。なんでパフォーマンスが下がるの? ワクワクしない?」
「しないよ」
……どうしよう。目の前で起きている話が全く噛み合っていないし、どちらの言い分も微妙に理解ができてしまうのがとてもつらい。
流石に恐怖からダイレクトにワクワクすることはないけど、後から恐怖を振り返って見つけたわからない事を調べるのがとても楽しいことは、また1つの事実でもあるから。
そう脳内でぐるぐると思考をこねていると、気がつけば僕は成岩さんの脇に抱えられて廊下に出ていた。
「成岩さん?」
「やっと気づいたか、お帰り」
そして僕は廊下に出ていた北澤さんの横に下ろされる。
「2人とも、覚えておきな。リーダーと佐倉が繰り広げる平行線の議論は、9割以上が見ているだけ時間と脳内リソースの無駄だ」
「言い切っちゃうんですね」
「本当に必要な議論の時はこうやって俺達が気づかれずに離脱なんて出来っこないからな、出来るんだったら大体2人だけの世界だ」
評価が酷い。でも、数年来同じユニットで活動してる中での分析だから、これはおそらく間違いではないんだろう。
「それとだ。JRNにはメンタルやられたときに、匿名でカウンセリングが受けられるシステムがある。この敷地内のどの固定電話でも、何なら電話ボックスでもいいから、内線番号
「……ありがとう、成岩先輩」
ちなみに、あの2人の論戦は4割決着がつかず、つく場合は半々なのだそうだ。
【TIPS:トレイナーズスクール】
ラッチ開発後、急速に数が必要となったトレイナーを要請するためにつくられた養成機関。
基本的には義務教育修了後の外部では高校生相当の児童が所属するが、募集要項上は年齢の制限に上限はない。
現在では毎年JRNに新たに所属するトレイナーの大半がここの出身である。しかしながらスクールを卒業していることとトレイニングできるノリモンを見つけられることは完全に独立した別の問題であるため、JRNに定着するのは毎年3割ほどにとどまっており、この点を問題視する者も少なくはない。